ガブリエル・タルキーニ
ガブリエル・タルキーニ(Gabriele Tarquini, 1962年3月2日 - )は、イタリア・アブルッツォ州・ジュリアノーヴァ出身の元レーシングドライバー。 イタリア語読みではガブリエーレ・タルクィーニが近い表記となる。他にもファーストネームは、ガブリエールやガブリエレと記されることもある。 白地に黒いラインをクモの巣状に張り巡らせたヘルメットデザインがトレードマークだが、これはコミック『スパイダーマン』の大ファンだったことに由来し、カート少年時代に自ら考案したものである[1]。 経歴初期の経歴レーシングカートでキャリアを重ね、1983年にチームFernando Spreaficoのラルト・RT3トヨタでイタリアF3選手権に進出。翌1984年も同体制で挑むが、F3では大きな戦果を得られなかった。 F30001985年、サンレモ・レーシングに移籍。国際F3000選手権へとステップアップしマーチ・85Bコスワースでフル参戦。開幕戦から連続入賞し第3戦エストリルで3位表彰台を獲得するなど頭角を現し、ランキング6位となる。 1986年にコローニへと移籍、マーチ・コスワースで3位表彰台を1度獲得したが、コローニ内では近い将来のF1参戦計画が進行中で、チームリソースがF1シャシーの制作に注がれていた影響も受けF3000ランキングは前年より下降し10位となった。1987年にファースト・レーシングに移籍し、F3000での3年目の参戦。第9戦で最高位更新となる2位を獲得しランキング8位を得た。 F11987年5月、イタリアのプライペイターであるオゼッラから第2戦サンマリノグランプリにスポット参戦、決勝はギアボックストラブル発生の為リタイアしたがF1デビューを果たした。 1988年、F3000時代に所属しておりF1へと参入開始したイタリアの小規模チーム・コローニへと「復帰」しF1フル参戦。下位チームの中でも特に低域とされるチームからのF1参戦だったが、半数となる8戦で予選を通過した。 1989年、前所属のコローニと同じく、タルキーニがF3000時代に所属し、F1進出計画が進められシャーシも完成しつつあったファースト・レーシングと契約を結んだが、予算不足でマシンを完成させられなかったために第1戦ブラジルを欠場すると、そのままチームが消滅してしまった。第2戦サンマリノから、シーズン前のリオテストで負傷したフィリップ・ストレイフの代役としてフランスのAGSに移籍した。AGSでの前半は好調で、第4戦メキシコGPでは6位入賞しポイント獲得を果たす。しかし第8戦イギリスGPで予選落ちすると、それ以後は全て予備予選落ちを喫することとなった。しかしチームからは信頼を勝ちとり、9月に来季の契約延長を発表[2]。1990年もAGSから参戦するが、決勝への進出は4度に終わった。 1991年もAGSと契約延長し、非力な体制であったが得意とする市街地コースでの開催だった開幕戦アメリカGPで8位完走する技術を見せた。しかしマシンの相対的な戦闘力は他チームより見劣りし、同年の決勝進出は序盤戦の3度に留まった(ただし、この年AGSを駆った4人のドライバーの中で、決勝を走ることが出来たのはタルキーニ1人だけである)。第14戦スペインGPから、運営資金面ではAGSより状態の良いフォンドメタルに移籍[3]、残る3戦中2戦で予選を通過。翌1992年も同チームから参戦する。下位チームでありながらほぼ毎戦中盤グリッドを獲得し、第12戦ベルギーGPでは予選11位につけるなど、時折その実力をのぞかせた。しかし、決勝ではフォンドメタル・GR02の完走能力の低さからリタイヤが続き、完走は1回のみとなった。結局第13戦イタリアGPを最後とし、残り3戦を残した時点でチームの運営資金問題が生じ、フォンドメタルはF1から撤退。タルキーニはF1シートを失った。 その後はツーリングカーレースに転向することとなるが、1995年にはF1復帰を目指してティレルのオーディションに参加。レギュラー契約はならなかったが、テストドライバーとなりポルトガルGPで負傷した片山右京の代役として、ヨーロッパGPの1戦のみティレルからF1復帰。このグランプリがタルキーニにとって最後のF1となった。 ツーリングカー1994年にツーリングカーレースに移り、同年はアルファロメオを駆ってイギリスツーリングカー選手権(BTCC)に参戦した[4]。この年タルキーニは、開幕5連勝を含め8勝をマークする圧倒的強さでチャンピオンを獲得する。 1995年・1996年はクラス1ツーリングのDTM及びITCをメインに戦い、BTCCにはスポットで参戦。クラス1消滅後は、イギリス選手権に並行しイタリア選手権にも参戦し、イギリス選手権では1990年代後半はデビッド・リチャーズのプロドライブチームに所属した。この時期はホンダ車を駆ったが、それを除くとアルファロメオに乗ることが多く、イタリア選手権、2000年代に入って以後のヨーロッパツーリングカー選手権(ETCC)でも引き続きアルファロメオを駆った。 2003年にはそのETCCでチャンピオンタイトルを獲得し、その後も、しばしばアンディ・プリオールらに伍した。 同選手権が世界ツーリングカー選手権(WTCC)となった2005年まではアルファロメオに所属したが、2006年にセアトに移籍した。この年は移籍初年度ながら、ランキング5位、セアト勢の中では同じく移籍初年度のイヴァン・ミュラー(ランキング4位)にこそ遅れをとったものの僅差の2番手で終え、貫禄を見せた。 2009年、アウグスト・ファルフスやイヴァン・ミュラーとの争いを制してWTCCのチャンピオンを獲得。47歳にして初の世界タイトルを手にした(FIA規格の世界選手権として1957年、46歳でF1のチャンピオンになったファン・マヌエル・ファンジオを上回る史上最年長記録)。 2013年にホンダ・レーシングチームJASに移籍。チームメイトのティアゴ・モンテイロとともにシビックでWTCCに参戦する[5]。 その後、2015年からロシアのマニュファクチャラーLADAに移籍。2016年までWTCCに参戦した。 2018年にはWTCCに代わり新設されたWTCR(世界ツーリングカーカップ)にBRCレーシングチームからヒュンダイ・i30 N TCRを駆って参戦。56歳にしてFIAワールドカップ王者となる快挙を達成した。 2019年も同じ体制で参戦。序盤は2勝を挙げるもその後はチームメイトノルベルト・ミケリスの後塵を排すことが多くなり、後半戦からミケリスのサポートに回り、最終的にミケリスはタルキーニのサポートもあり王者となり自身はランキング8位で終えた。 2020年は前年と違いチームメイトのミケリス共々苦戦を強いられた。この年は第3戦スロバキアのレース1で2位、第7戦スペインで3位と2度表彰台を獲得するも、WTCRに参戦してから初の未勝利に終わる。またランキングでは表彰台ゼロにもかかわらずコンスタントにポイントを獲得したチームメイトミケリスを下回るランキング14位に終わった。 2021年はWTCR第3戦・モーターランド・アラゴンで勝利を挙げ、FIA選手権で優勝した最年長ドライバーの記録を更新するなど、59歳にして依然トップドライバーとして活躍を続けていたが、同年11月にフルタイムドライバーからの引退を表明。今後もテストドライブやスポット参戦でハンドルを握る可能性はあるとしたものの、チャンピオン争いからは退くこととなった[6]。 評価F1での経歴は、予選落ち19回・予備予選落ち20回(いずれも歴代2位、2008年現在)・決勝不参戦計39回(歴代1位、2008年現在)、入賞1回という不名誉なものである。しかし、在籍したチームは全て予選・もしくは予備予選の通過もままならない弱小チームと言われ、その中で約半分のレースで決勝に進出し、幾度も中盤にグリッドを並べ、1度ではあるが入賞も記録したことから、F1参戦時よりその運転技術は多くの関係者やファンに認められていた。 このことからロベルト・モレノと並び、実力を持ちながらマシンに恵まれなかったドライバーの代表格としてよく名前が挙がる。モレノが非常に短期間とはいえトップチームのベネトンに在籍経験があり、その間に表彰台やファステストラップを獲得したことを踏まえ、「恵まれなかったという点ではモレノの上を行っている」とも言われる。またタルキーニの生涯唯一のポイントはAGSで記録したものだが、チーム通算で2ポイントしか獲得できなかったAGSのもう1ポイントは奇しくもモレノが取ったものである。そしてタルキーニとモレノ共に1995年を最後にF1から去ったことも共通点となっている。 ツーリングカーレースでは、前述した2003年のETCC・2009年のWTCCなど多くのタイトルを獲得、目覚しい活躍を見せたことから「一度F1のトップチームで走る姿を見てみたかった」と言われるドライバーの一人となっている。 モータースポーツ・ジャーナリストの今宮純は「コーナーで定点観察していると、タルキーニは非力なマシンでもコースの端から端まで完全に使い切って、マシンのすべてを引き出して走っている。彼の走りは一見の価値がありますよ」と評価していた[7]。 人物F1デビュー当時は、経済学を専攻する学生であった。また、F3000時代からストリートコースに強いドライバーと言われていた。陽気な性格で知られており、1988年日本GP決勝終了後のサヨナラパーティーでは、一際激しく踊っている姿が目撃された。 1990年にリカルド・パトレーゼのF1グランプリ200戦達成(当時史上最多記録)を記念した会見とミニパーティが開催されイタリア人ドライバーは皆参加していたが、タルキーニはそこにルノーが用意したバルーンアーチを見つけるとその風船を自分のシャツの中に2個入れてビッグバストのプレイメイトに扮装しそばにいたデ・チェザリス、カフィ、ピッロ、モデナ、カペリらが皆大笑いしている様子が報じられたこともあった[8]。 1986年の国際F3000選手権に参戦していた時、中嶋悟もF1への準備として同選手権に出ていた。エステルライヒリンクのレースで終盤タルキーニは3位を走行、中嶋が4位で表彰台をかけた争いとなり、タルキーニは終盤の数周にわたってきつめのブロックラインをとり続けた。結果中嶋より前の3位でゴールしたが、タルキーニは自分のブロックがアンフェアな領域だと自認しつつ走っていたので「中嶋は自分のブロックに対してかなり怒ってるに違いない」と思っていた。レース後、文句を言われるだろうと覚悟しながら中嶋のピットボックスへと謝りに出向いたが、中嶋は逆に「君はいいレースをしたよ」と言って讃えたのだった。タルキーニはこの対応に驚き、自分のブロック走行が恥ずかしく思えたという。これを機に「自分はナカジマのファンだ。とてもリスペクトしている」と述べている[9]。 レース成績FIA ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
ル・マン24時間レース
国際F3000選手権
F1(key) ツーリングカースパ・フランコルシャン24時間レース
イタリア・スーパーツーリング選手権
世界ツーリングカーカップ
イギリスツーリングカー選手権
ドイツ・スーパーツーリング選手権
ヨーロッパツーリングカー選手権
世界ツーリングカー選手権(key) ( 太字 はポールポジション。) (斜体はファステストラップを示す)
† リタイアだが勝者の90% の距離を走行した為、規定により完走扱い。 出典
関連項目
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