ヨアヒム・ヴィンケルホック(Joachim Winkelhock 、1960年10月24日 - )は、ドイツ出身のレーシングドライバー。1988年のドイツF3選手権チャンピオン、1999年のル・マン24時間レース優勝者。
同じくレーシングドライバーのマンフレッド・ヴィンケルホックの弟であり、甥のマルクス・ヴィンケルホックもレーシングドライバーである。
略歴
1981年からルノー・5ターボ・シリーズに参戦開始。1982年からフォーミュラ・フォードに参戦。1983年はヨーロッパ・サルーンシリーズとキャリアを積む。
1986年からドイツ国内のポルシェ・944ターボカップで頭角を現し、シリーズチャンピオンを獲得。この成績により翌年のドイツF3選手権のレギュラーシートを得た[1]。
1987年のドイツF3初年度にランキング2位を獲得し、12月のエストリルF1合同テストに呼ばれ、ザクスピード・871をテストドライブした[2]。1988年にドイツF3チャンピオンを獲得すると、F1予備軍として報じられるようになり、1989年にドイツ・キャメルからの支援を得てフランスの小チームAGSと契約しF1参戦を果たす。7年前にATSなどからF1出走経験のある兄に続いてのF1デビューを目指した[3]。
しかしチームメイトでマシン開発をしてきたエース格のフィリップ・ストレイフがリオ開幕テストで大クラッシュを喫し、重傷を負って実質引退となったため、参戦マシンJH23Bのセッティング熟成が停滞。加えて参戦台数が過去最多となったF1でこの年導入された予備予選の壁が厚く、開幕から7戦連続不通過に終わるとチームは第8戦からヤニック・ダルマスの起用を決定。ストレイフに代わってAGSに加わったガブリエル・タルキーニが同じマシンで選手権ポイントを獲得するなど結果を出していたことも響き、ヴィンケルホックは決勝デビューを果たせぬままF1シートを失った[4]。ただし、代わってAGSのシートを得たダルマスも、以後最終戦まで予備予選通過を果たすことは1度もできなかったため、不通過はヴィンケルホックの能力以前の問題だったことも証明される結果となった。
1990年以後は主にツーリングカーレースを主体に活動し、BMWとの関係が深い。1990年と1991年にはニュルブルクリンク24時間レースにBMW・M3で参戦。
1993年からはイギリスツーリングカー選手権(BTCC)に参戦し、参戦初年度の1993年にはBMW・318iを駆り、シリーズチャンピオンを獲得している。
日本でもそれなりに知名度があり、1994年と1995年にはシュニッツァー・BMWから全日本ツーリングカー選手権(JTCC)に参戦し、1995年には優勝も経験している[5]。
1999年のル・マン24時間レースでは優勝を果たした。
人物
特徴的な顎の大きさから、しばしばネタの対象になる事が多く、F1に参戦していた時は古舘伊知郎から「顎がヘルメットが収まらない」と表現されていた。
レース戦績
ドイツ・フォーミュラ3選手権
F1
ドイツツーリングカー選手権
全日本ツーリングカー選手権
イギリスツーリングカー選手権
ドイツ・スーパーツーリング選手権
イタリア・スーパーツーリング選手権
ル・マン24時間レース
スパ・フランコルシャン24時間レース
セブリング12時間レース
FIA ツーリング・カー・ワールド・カップ
脚注
- ^ 89GRAND PRIX ドライバーガイド グランプリ・エクスプレス 開幕直前号 25頁 山海堂 1989年4月3日発行
- ^ from ESTORIL ポルトガル・テスティング現地リポート グランプリ・エクスプレス 特別編集'88カレンダー号 3-5頁 1988年1月10日発行
- ^ J.ヴンケルホック AGSと契約 グランプリ・エクスプレス '89シーズン歓待号 30頁 1989年3月13日発行
- ^ ダルマスあっさり再就職 AGS入り グランプリ・エクスプレス イギリスGP号 30頁 1989年8月5日発行
- ^ BTCC Round13&14ブランズハッチ メニュに食い下がるヴィンケルホック オートスポーツ No.709 48-49頁 三栄書房 1996年9月1日発行
外部リンク
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BSCC(1958年 - 86年) |
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BTCC(1987年 - ) |
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