リカルド・ズニーノ
リカルド・ズニーノ(Ricardo Héctor Zunino[1], 1949年4月13日 - )は、アルゼンチン出身の元レーシングドライバー。 来歴1977年、ユーロレーシングからヨーロッパF2選手権に参戦。翌1978年はマーチのワークスチームから出走し、選手権12位に入る[2]。1979年にオーロラF1選手権に参加、ブランズ・ハッチで優勝するなど39ポイントを獲得しランキング5位を記録した[2]。 この年の9月、ズニーノはF1第14戦カナダGPを観戦するためにモントリオールを訪れていたが[3]、フリー走行終了後にブラバムのニキ・ラウダが突然引退を表明し、以後の走行を打ち切ってサーキットを去った。その後釜としてブラバムでテスト走行の経験があったズニーノが急遽出走する事になった[3]。そのため、予選にはラウダが残していったヘルメットとレーシングスーツを着用して臨んだ[4]。このF1デビューレースでは一時4位を走り、最終的に7位で完走[3]、続く第15戦アメリカGPでは予選9位に入った[3]。 1980年もブラバムに残留し、チームのエースとなったネルソン・ピケをサポートするセカンドドライバーとして開幕を迎えた。アルゼンチンGP、ブラジルGPでそれぞれ7位・8位完走を果たすが、以降は成績が下降し、第6戦モナコGPでは予選通過に失敗。第7戦フランスGPへの参戦を最後に、多くのメキシカン・スポンサーマネーを持ち込めるヘクトール・レバークにシートを奪われた[3]。 1981年、非選手権レースとして開催された南アフリカGPでブラバムに戻って出走[2]した後、F1第2戦ブラジルGPと第3戦アルゼンチンGPの南米2連戦の契約でティレルから出走し、2戦ともに13位での完走で契約を終え、ミケーレ・アルボレートと交代する形で再びシートを失う。 1982年に祖国アルゼンチンとイギリスとの間でフォークランド紛争が開戦し、以後のF1参戦を断念した[3]。 引退後は地元のサンフアン州バレアルでリゾートホテルを経営している[3]。 F1での年度別成績
(key) 脚注外部リンク |