デレック・デイリー
デレック・パトリック・デイリー(Derek Patrick Daly[1], 1953年3月11日 - )は、アイルランド・ダブリン県バリンティア出身の元レーシングドライバー。姓は「ダリー」とも表記される。 経歴キャリア初期ダンドラム生まれ[2]。レース活動の資金を捻出するためオーストラリアの鉱山で働きながらフォーミュラ・フォードに参戦し[2]、1976年のフォーミュラ・フォード・フェスティバルで優勝。翌1977年にイギリス・フォーミュラ3選手権に参戦し、この年のチャンピオンを獲得する。同年はフランスで行われたヨーロッパF3にも遠征し優勝した。 フォーミュラ21978年にシェブロンからヨーロッパF2選手権に参加し、ヴァレルンガとムジェロで優勝してシリーズ3位の成績を記録。F2での好成績により、ヘスケスから同年のF1アメリカ西GPに参戦することになった。 フォーミュラ11978年のF2選手権序盤で連勝したデイリーは、F1のヘスケスから来た参戦オファーにより急遽渡米しロングビーチ市街地コースに赴き、F1第4戦アメリカ西GPでF1に初参戦したが、かつての戦闘力を持たないヘスケスでは予選通過できなかった。結局チームは第6戦ベルギーGPでの予選不通過を最後に活動を停止。デイリーは、ジェームス・ハントと共に輝かしい時期を作ったヘスケスチームの最後のドライバーとなった。チーム撤退によりシーズン途中の8月にエンサインへ移籍し、最終戦カナダGPでは6位でチェッカーを受け、F1初入賞を記録した。 しかし1979年のF1レギュラーシート獲得はならず、同年9月には来日し、全日本F2選手権第6戦「鈴鹿グレートレーサーズ」にスポット参戦した[3]。同年終盤にF1ティレルのシート獲得に成功し、翌年も契約更新。1980年は4位入賞を2回記録するが、モナコGPではスタート直後ブルーノ・ジャコメリと接触して宙を舞い[4]、ザンドフールトでのオランダGPではタルザン・コーナーでフェンスを飛び越してタイヤバリアに突っ込む事故に遭遇する[2]。 1981年、F1で最も小さい規模のチーム[5][6]であり、マーチ・811でF1に参戦するマーチ・グランプリ(マーチ・エンジニアリングとは別組織のプライベイトチーム、RAMが運営)と契約するも、811はウィリアムズ・FW07と酷似したコピーマシンだったが、戦闘力は皆無であり、チームのマネージャーであるジョン・マクドナルドがプレスに対して「この車はクソの山だ。これは公式コメントだ。」と不満を述べるほどの駄作であった。このマシンでデイリーはイギリスGPで7位に食い込み、これが最高位となった。 1982年はセオドールに移籍して参戦していたが、フォークランド紛争の影響でシーズン途中離脱したカルロス・ロイテマンの後任として、ベルギーGPからウィリアムズに加入[7]。チームメイトのケケ・ロズベルグは最終戦でワールドチャンピオンを獲得した。デイリーはFW08で最高位5位を3回、6位を2回と着実に入賞し8ポイントを獲得した。デイリーには北米フォーミュラ最高峰のCARTからオファーがあり、F1を同年で去った。 チャンプカー1982年からCARTでのドライブを始め、1989年まで8シーズン参戦を続けた。1986年を除いた1983年から1989年までのインディ500を含む66のCARTレースに出走。デイリーは1987年ミルウォーキーでの3位表彰台を含む合計21回のトップ10完走を果たした。 1990年のセブリング12時間レースでは、1位と2位でゴールした日産・GTP ZX-Tを両マシンともドライブしたという珍しい記録を作った[8][9]。 1992年に引退後はアメリカ合衆国インディアナポリスに在住[7]し、ESPN、スピードチャンネルの解説者[2][7]や、レーシングスクールの経営に携わる[2][7]。また、アメリカ国内の企業の経営者への講演も行っている[7]。2011年はF1イタリアGPのスチュワードを務めた[7]。 息子のコナーもレーシングドライバーであり、2012年はロータスGPチームからGP3に参戦し[10]、2016年からはINDYCARワールドシリーズにフル参戦を開始。開幕戦ではトップを走行した息子のレースを観戦するデレックの姿が国際映像にて映された。 レース戦績ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
(key) (太字はポールポジション、斜体はファステストラップ) 全日本F2選手権
フォーミュラ1
(key) CART
ル・マン24時間レース
セブリング12時間レース
脚注
関連項目外部リンク
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