ケイヨ・エリク・"ケケ"・ロズベルグ (Keijo Erik "Keke" Rosberg , 1948年 12月6日 - )は、フィンランド 国籍の元レーシングドライバー で、1982年のF1 ドライバーズチャンピオン。スウェーデン ・ストックホルム のソルナ で生まれ、フィンランド・オウル で育ったスウェーデン語系フィンランド人 である。
異名は、F1ドライバーでは初代となる「フライング・フィン 」。名前をスウェーデン語 の発音に近い形で日本語表記するとケケ・ルースベァルィ [ˈkɛkɛ ˈruːsbærj]となり、日本語のメディアではロズベリ とする表記も多く見られた。
人物
ルーズ なマシンセッティングを好み、アクセル全開・カウンターステア一杯の豪快なドライビングを持ち味とした。自らでも「私にとって、全てはフラットアウト(全開)かナッシング(無)かのどちらかなんだ」とそのスタイルを認めている[ 1] 。
市街地サーキット を得意としており、F1での通算5勝のうち4勝を市街地サーキット(モナコ ・ダラス ・デトロイト ・アデレード )で挙げた。
現役時代はヘビースモーカー としても知られていた。レース終了後の表彰台でマールボロ を吹かす姿も、TV映像に捉えられている。1992年のモナコグランプリ でのマールボロ主催のパーティーでは、ニキ・ラウダ が席を外した際に、「なんでラウダが呼ばれているんだ。ヨーロッパで最初に禁煙席を作ったのは、ラウダ航空 じゃないか」と発言し、会場の爆笑を誘った[ 2] 。
1980年代中盤からの燃費 ばかりを気にした走行とF1マシンのハイテク・複雑化を嫌い、1986年シーズン終了をもってF1から引退した。
息子のニコ・ロズベルグ もF1ドライバーとなり、2012年中国グランプリ でF1初優勝を挙げたことにより、ヒル家(グラハム ・デイモン )、ヴィルヌーヴ家(ジル ・ジャック )に続く3例目の親子2世代F1ウィナーとなった。また、ニコが2013年モナコグランプリ で優勝を挙げたことから、史上初となるF1モナコグランプリ親子2世代ウィナーとなった。そして2016年にはニコがワールドチャンピオンに輝き、ヒル家以来、2例目となる親子2世代F1ワールドチャンピオンとなった。
プロフィール
1977年のフォーミュラ・アトランティック でジル・ヴィルヌーヴ を追うロズベルグ(2台目)
ロズベルグはフィンランド人の両親がスウェーデンで学生結婚した時に生まれ、帰国後はフィンランドで育てられた[ 3] 。両親はともにラリー ドライバーで、母は「1000湖ラリー 」のレディースクラス優勝歴がある。幼いロズベルグは両親と共にラリー転戦のためにヨーロッパを各国まわった。学生時代はアイスホッケー が得意な少年で学校が嫌いだったが、将来のために歯科医師 の見習いを経験。しかし「全く自分に合ってなかった。大失敗だ(笑)」とすぐに止めた。その後、父がフィンランドで最初のレーシングカート 協会を創設し、ラリーよりも資金が少なく開始できるカートをやり始めた[ 1] 。参戦カテゴリーについて、「ラリーには全然興味が沸かなかった。レースはラリーのように汚れないし、野宿 しなくていい、夜中は走らなくて済むうえにホテル で寝泊まりしても良い。自分の性格にはこっちが合ってると思った。ラリーより速いしね。」と述べている[ 1] 。
1973年 にスカンジナビア とヨーロッパ のカート チャンピオンを獲得すると、「フィンランドは大好きだが、国際舞台に上がるには外国に行って他国の人間と意思の疎通を図るための言葉を習得しなければダメだと思ったし、フィンランドではレーシングドライバーで身を立てるという土壌が無かった。」など複数の要因も重なり、母国を離れ西ドイツ へと拠点を移す。フォーミュラ・Vee やフォーミュラ・スーパーVeeにステップアップし参戦したが、生活のためにコンピュータ解析 の仕事をしながら、次第に専業のプロレーサーになっていく。
その後はヨーロッパF2選手権 に参戦しながら、助っ人として賞金を稼ぐため北米のカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ (Can-Am)やフォーミュラ・アトランティック 、フォーミュラ・パシフィック など世界各地のレースを転戦した。日本 へも複数回来日し、鈴鹿サーキット で開催されたJAFグランプリ などに参戦しており[ 4] 、1977年 にはコジマ 製F1マシンのタイヤテストも行った(後述)。
F1デビュー
1978年 に第3戦南アフリカGPにて、セオドール からF1デビュー。この年はチームを渡り歩くことになり、セオドールで4戦を戦った後、第8戦スウェーデンGP からの3戦はATS 、第11戦西ドイツGP からの4戦はウルフ 、第15戦アメリカ東GP からの2戦はATSに戻って参戦した。しかしいずれのチームもマシンの戦闘力は低く、予選・決勝共に下位に沈み、予選落ち1回、予備予選 落ち4回も喫している。
ウルフ時代のロズベルグ(1979年)
翌1979年 は前半戦にはシートが無く、第8戦イギリスGP よりウルフから参戦。そのレースでは9位で完走したが、その後はリタイヤ6回・予選落ち1回と全く完走出来なかった。
1980年 にはフィッティパルディ からの参戦となる。これまで同様、弱小チームからの参戦だったが、開幕戦アルゼンチンGP では完走7台のサバイバルレースを生き残り、3位表彰台を獲得[ 注釈 1] 。予選落ちを3度喫すなど、シーズンを通せば苦しい戦いとなったが、第12戦イタリアGP では5位に入賞。第9戦西ドイツGPでの予選8位、第13戦カナダGP での予選6位など、時折存在をアピールした。
1981年 もフィッティパルディに残留したが、完走は3回(最高位:9位)。チームの資金難もあって、リタイヤ6回・予選落ち5回と、前年以上に苦しいシーズンとなった。
ウィリアムズ時代
1982年
前年限りで引退したアラン・ジョーンズ に代わり、トップチームであるウィリアムズ のシートを獲得。加えてジョーンズに代わりウィリアムズのエースとなるはずのカルロス・ロイテマン が政治的な理由[ 注釈 2] から開幕2戦目で突如引退してしまったため、ロズベルグはエースドライバーの待遇を得る。当時はF1のターボエンジン全盛期になりつつあり、NAエンジン搭載のウィリアムズ・FW08 はストレートスピードでターボ勢にかなわなかったが、安定したシャシー性能で地道にポイントを積み重ねた。また、持ち前の豪快な走りも見せ、第10戦イギリスGPではF1での初ポールポジション (PP)を獲得した。
第14戦スイスGPでは、ラスト3周でトップに立ち、そのままF1初優勝を記録。これによりランキングトップに躍り出ると、そのままその座を守り、最終戦アメリカGPでチャンピオンが確定した。シーズンをリードしていたディディエ・ピローニ の負傷欠場に助けられた面もあったが、シーズン1勝でのチャンピオン獲得は、この年のロズベルグと1958年 のマイク・ホーソン の2例のみである[ 注釈 3] 。また、前年ノーポイントからのチャンピオン獲得は2024年 現在、ロズベルグが唯一である[ 注釈 4] 。
1983年
ターボエンジン勢の優勢は変わらず、引き続きNAエンジンでの戦いとなったロズベルグはチャンピオン争いに絡むことは出来なかった。しかし開幕戦ブラジルGPではPPを獲得し、他にも時折上位グリッドを獲得。第5戦モナコGPではウェット路面だが雨は止んでいるという難コンディションの中、ドライ用スリックタイヤを選択したギャンブルが成功しF1での2勝目を挙げた。
最終戦南アフリカGPでは同年エンジンサプライヤーとしてF1活動を再開していたホンダ 製V6ターボエンジンRA164E を搭載したFW09 が投入され[ 5] 、ロズベルグもターボエンジンで戦えるようになった。
1984年
ウイリアムズFW09(1984年アメリカGP )
開幕からホンダV6ターボエンジンで戦う初年度となった。開幕戦ブラジルGP で幸先よく2位表彰台を獲得。初期ホンダターボエンジンは、まだ熟成されておらずピストンが溶けてしまうという弱点があった。出力特性としてアクセルへのレスポンスが悪く、大きいターボラグ の影響でいきなりハイパワーが出るいわゆる「ドッカンターボ」であったが[ 6] 、これをロズベルグは豪腕でねじ伏せるように走らせ、ホンダエンジンの開発に貢献する。
エンジンに加え、ウィリアムズのマシンもパトリック・ヘッド がカーボン・ファイバー・モノコックの導入に慎重で、FW09 シャシーはアルミハニカム製モノコックだったため剛性不足であり16戦中10戦リタイヤという成績となったが、テキサス州ダラスで開催された第9戦アメリカGP では優勝。ホンダのF1復帰2年目にして復帰後初勝利をもたらした。
1985年
ウイリアムズFW10
ウィリアムズにとって初のカーボンファイバー製モノコック採用車であるウィリアムズ・FW10 は、ホンダの新設計エンジンRA165E を搭載。シーズンが進むにつれ熟成が進みトラブルによるリタイヤが減少、常に上位につけるようになる。2度のPPを含め6度フロントロー に並ぶなど、予選ではほぼ毎戦上位グリッドに付ける。イギリスGP の予選で記録した1周の平均速度259キロは当時の最速記録で、2002年イタリアグランプリ まで17年破られないレコードであった。
決勝でも一時リタイヤが続いたが、最終的には2勝・3FL を記録。最終戦オーストラリアGP で挙げた勝利により、ドライバーズポイントでロータス のアイルトン・セナ を逆転。アラン・プロスト 、ミケーレ・アルボレート に次ぐ年間ランキング3位でシーズンを終える充実のシーズンとなった。また、同年6月には愛息ニコ・ロズベルグ が誕生している。
この年は、新チームメイトとなったイギリス人ドライバー、ナイジェル・マンセル がF1参戦6年目にしてF1初勝利を挙げるなど速さを発揮し台頭。イギリスのチームであるウィリアムズは翌年に向けマンセルをチームに残し、二度のF1タイトル経験者であるネルソン・ピケ と新たに契約。ケケは4年を過ごしたウィリアムズを離れ、引退するニキ・ラウダ の後任としてマクラーレン 移籍が決まった。
マクラーレン移籍とF1引退
マクラーレンMP4/2C(1986年イギリスGP)
四強の一角であり、前年度のチャンピオンチームであるマクラーレンに移籍。開幕前にロン・デニス 監督は「アラン・プロスト とケケ・ロズベルグは二人ともNo.1ドライバーで同等」としていた[ 7] 。TAGポルシェ エンジンを搭載するMP4/2C をドライブするが、前年までドライブしていたホンダエンジンの競争力が更に向上したことなどから苦戦。加えて、F1のターボエンジン化により強いられた燃費を気にした走行への嫌悪感から、シーズン中の第10戦西ドイツGPにて同年限りでのF1引退を発表。「燃費競争に陥ったF1なんか興味無いよ。アクセル全開で走れる本当のF1はどこに行ったんだい?」とコメントした。引退会見直後に行われた予選でPPを獲得し、引退理由が能力の衰えではないことを結果で示した。
F1引退レースとなった最終戦オーストラリアGP では、7周目からトップを独走してライバルたちを翻弄、一時は30秒近いリードを奪うが、右リアタイヤがバーストしてリタイアに終わる。マシンを降りた後、コース上を走り去るチームメイトのプロストに向かってサムアップするシーンも話題となった。その後、タイトルに最も近い位置にいたマンセルにも同じトラブル(マンセルの場合は左リアタイヤがバースト)が襲いリタイア、2名がリタイアしたあとトップに立ったのはネルソン・ピケだったが、グッドイヤー首脳から「交換しないとタイヤの安全性を保障できない」と言われたウィリアムズピットがピケのタイヤ交換を強いられピットインし後退[ 注釈 5] 。レース序盤にパンクを喫し予定外のタイヤ交換をしていたプロストが優勝。6ポイント差をひっくり返し逆転でワールドチャンピオンを獲得した。
このレースについて、レース後ロズベルグはマスコミに対し「普段より(ターボエンジンの)ブースト圧を下げて大事を取っていたのに独走した。このまま引退するのももったいないぞ、と思った」とジョーク交じりで述べていたが、一方で「チームがタイトルを獲得することの重要性を理解していた」とも語っており、実際には燃費やブレーキ寿命・タイヤ寿命を無視したハイペースでレース序盤を撹乱し、ウィリアムズ2台のタイヤを疲弊させてチームメイトであるプロストのタイトル獲得を助ける戦略であった。プロストは「あのレース前にケケがどんな手を使っても君をチャンピオンにするために助けるから、と言ってくれて、あの時のケケをよく思い出すよ」と翌年のインタビューで感謝を述べている[ 8] (但し、このレースではマンセルが3位以内なら、仮にプロストが優勝してもタイトルはマンセルが取ってしまうため、その場合プロストはF1ラストレースだったロズベルグに優勝を譲る計画もあった)。
その後の活動
チーム・ロズベルグのマシン(1995年DTMヘルシンキ 戦)
1989年 6月、ベネトン からF1復帰の打診を受けた。足の負傷の回復が思わしくなかった新人ジョニー・ハーバート の後任としてのオファーだったが、テスト走行なしで実戦(フランスGP )に戻る急なスケジュール提示に「準備期間不足」を理由に断った[ 9] 。しばしのブランクを経て、1990年7月にプジョー と契約。同年終盤からスポーツカー世界選手権 (SWC)に参戦し現役に復帰した[ 9] 。本格参戦となった1991年、プジョー・905 をヤニック・ダルマス とのコンビでドライブして2勝し、ル・マン24時間レース にも出場した(結果はリタイア)。F1界の出来事に対して誰に対しても率直に意見を言う解説者としても人気を得た。1990年のフェラーリがすでにウィリアムズと契約済だったジャン・アレジ 獲得のために大金を使った際には、「エンツォ が生きていたら、こんなカネの使い方は許さなかっただろう。なぜこんな動きをするのか理解できない。」とフィアット 体制になって以後のフェラーリの急激な内部変化を批判した[ 10] 。
ドライバーとしては、1992年よりドイツツーリングカー選手権 を主戦場とし、メルセデス やオペル チームに所属した。1995年にはチーム・ロズベルグ (en ) を結成し、この年を最後にレーサーとしての現役を引退した。チーム・ロズベルグはユーロF3 [ 注釈 6] 、フォーミュラ・BMW 、A1グランプリ などに参戦した後、アウディ 系チームとしてDTM(新シリーズ )に参戦している。
また、現役でF1を走っていた1981年 にスポーツプロモーション を行う会社としてオストビン・ポドリッヒ(のちケケと袂を分かち、ティエリー・ブーツェン のマネージャーとなる)と共同で「ユーロ・プロモーション社」を創業させており[ 11] 、自らのレース活動のマネージメント会社としての機能の他、同じ北欧出身で少年カート時代からの後輩ステファン・ヨハンソン をユーロ社でマネージメントし、フェラーリ 入りに一役買っている[ 注釈 7] 。レース界以外にもアルペンスキー 競技のプロモーションなども手掛けていた。1986年でF1引退後はこの事業により注力。若手レーシングドライバーのエージェントとしての活動が本格化し、J.J.レート やミカ・ハッキネン など母国フィンランド出身ドライバーをジュニアフォーミュラの時点で発掘し「ユーロ・プロモーション社」のクライアント としてマネージメントを担当。イギリスF3選手権 などのトップチームで経験を積ませた上でF1へ送り込んだ。息子であるニコ・ロズベルグ(国籍はドイツ )のマネージメントも務め、ニコは2006年 から2009年 まで父親の古巣ウィリアムズに在籍していた。
拠点はドイツやモナコに移し、スペインの小島も所有しているが、母国フィンランドにおいての影響力は大きく夕刊紙 「イルタレティ (英語版 ) 」創業メンバーの一人でもある。ほかにも「フィンランド国内のレース環境が落ち目なので、スバル と組んで参戦しやすい新しいレースカテゴリーを創設した(1992年)。何とかフィンランドのレースシーンを活気づけたいんだ」と愛国心について述べている[ 1] 。
エピソード
レース環境面において、「フィンランド人でいることと、日本人でいることは似ている。母国で速くても外国へ行って日本語しか話せなかったら大変だろ?交渉のテーブルに着くのも難しくなっちゃう。フィンランド語も同じさ。だからJJやミカは早いうちから英語の環境に移した。」と述べ、「どんなに優れていても、例えば私は星野一義 の日本での速さをよく知っている。彼は一流のテクニックを持っているが、国際人でなかったがゆえに欧州のF2遠征に来ても結局日本に戻ることになった。鈴木亜久里 にはまだ国際性がある方だし、片山右京 もうまいとは言えない英語でみんなを楽しませるジョークを言ってくれるけど、もっとコミュニケーション能力を高めないと、皆に愛されている存在で終わってしまうだろう。」と語学の重要性を説いている(1992年)[ 1] 。
1977年のF1シーズン終了後、富士スピードウェイ で行われた国産F1マシンKE009 のテストにドライバーとして参加。まず1977日本GP決勝出走時そのままの仕様で数周走行しピットイン、当時装着していたブリヂストン 製タイヤの剛性不足等問題点を指摘した後、タイヤを中古のグッドイヤー 製に換装した即席セッティングで再びコースに入り、日本GP優勝車(ジェームス・ハント ドライブのマクラーレン・M26 )が記録したトップタイムをあっさり更新した[ 12] 。KEの高いマシンポテンシャルもさることながら、ケケの潜在能力をのぞかせた瞬間であった。
初めての鈴鹿サーキット 走行だった全日本選手権スポット参加の際、同レースに参戦していた星野一義 はロズベルグが高速左コーナー「130R」を全開で走っている音を聞いて驚愕したと述べている[ 13] 。星野をはじめ松本恵二 も「当時は、次こそ絶対に全開で行くと決めて行っても、どうしても右足がアクセルを離してしまうのが130R」であり、「最初から全開で行ったのケケぐらいだよね」と2人で述べている[ 13] 。
1982年にウィリアムズ入りするが、リカルド・パトレーゼ によるとフランク・ウィリアムズ はロズベルグより先にパトレーゼへ電話をして交渉していた。しかしパトレーゼがその前週にブラバムと2年契約にサインしたばかりだったため断ることになり、ウィリアムズはロズベルグとの交渉に移った。結果的にロズベルグはウィリアムズでワールドチャンピオンを獲得し、パトレーゼは「これもタイミングと縁だけど、当時少し複雑な気持ちにはなったね。」と述べている(1988年)[ 14] 。
1982年の第2戦ブラジルGP では2位で終えるが、レース中に車載の水を捨て車検前に補給したため、レース中故意に規定最低重量以下で走行していたという理由で、優勝したネルソン・ピケ と共に失格と裁定された。この事件は第4戦サンマリノGP で10チームがボイコットするという事件にまで発展した。翌1983年 の開幕戦ブラジルGPでもレギュレーション違反で失格となっており、ブラジルGPとは因縁がある。
日本製のアライヘルメット を最初期に使い始めたF1ドライバーの一人。それまではイタリアのAGV 製のものを着用していたが、1984年 からアライ製ヘルメットを着用し始め、F1引退後もDTMに参戦した1992年 までアライユーザーであった。カラーリングにはスポンサーの意向を忠実に再現できるように、詳細なミリ単位のカラーリング指示及びスポンサーロゴ配置図をアライ側に渡したというエピソードがある[ 15] 。ウィリアムズでチームメイトとなったナイジェル・マンセルもそれまではBELL製を使用していたが、ケケを見て1985年から引退後のイベントでもアライ製のヘルメットを使用している。
1984年第9戦、高温となったダラスで開催されたアメリカGPでは、ヘルメットに特製の冷却システムを組み込み、集中力を維持した。因みに、このレース、スタートした25台中完走は8台、リタイアした内13台はアクシデント、4台はマシントラブルによる。なお、最後尾近くからスタートしたチームメイトのジャック・ラフィット は4位入賞している[ 16] 。
ホンダF1 エンジンの総監督として3年一緒に仕事をした桜井淑敏 は自著で「職人 気質の典型という男だった。テスト走行だとあまり真面目に走ってくれないし、エンジニアの質問に対するフィードバックも細かく帰ってこない。しかしグランプリ本番では、刀を抜く手も見せず敵を斬り捨てるような凄味があった。俺の腕にふさわしい車を作ってくれ、そうすれば勝てるぜという自信も持っていた」とロズベルグ評を記している[ 17] 。
ロズベルグの走り方に慣れていたホンダのエンジニアたちは、一般的に暴れん坊と評されることが多いマンセルがウィリアムズに加入した際にその走行データ、エンジンデータを見て「マンセルはスムーズな運転をするドライバー」と評価したという。
長男ニコ の誕生直後だった1985年イギリスグランプリ では、予選でそれまでのレコードを4秒縮める驚異的なタイムアタックを成功させポールポジションを獲得したが、この最速ラップの時のシルバーストーン・サーキット 最終シケイン立ち上がりではすでにタイヤがブリスターだらけで全くコントロールできない状況になっており、無茶を承知でアクセルを踏み続けていた結果ポールポジションになっていた。引退後のインタビューでは「あれはクレイジー過ぎた。時速250キロ以上であんな危険な行為は、最初の子供が生まれた直後の父親がやっていい訳がない。でも走ってる最中は最高に楽しかったね! だからあれは全く自分勝手な行為で、自分が楽しみたくてやっただけなのさ。レースというのはそれほど利己的な行為で、レーサーはスタンドの観衆にスリルや興奮を与えてあげようとか、そんなこと考えながら走ってないよ(笑)」と自らのレーサー観を解説している[ 18] 。
マクラーレン に移籍した1986年開幕前のテストで、チーフデザイナーのジョン・バーナード から「新車に慣れるために最初の数周は流して行け」と言われたが、アウトラップから全開アタックを開始、2周目で大クラッシュを喫してしまいマシンを壊した。これ以後バーナードはシーズン中盤までロズベルグと口を利かなくなってしまった。
これに関連し、マクラーレンでのチームメイトアラン・プロスト のロズベルグ評は、「ケケは、一言でいうと弾丸 だね。常にすごいラップタイムを出したくて、常にアタックしていたいのが特徴であり、ケケの個性だ。そして、実際にとても速い。彼はロングランテストが好きじゃないので、僕がロングランを担当した結果、バーナードが僕の方を信用してるのかな?という気がする」と1986年開幕前テストで印象を述べている[ 19] 。
F1引退を決めた1986年シーズン終盤に行われたインタビューで、「(チームメイトの)アラン・プロストこそが世界最高のドライバーである」と発言。「本当にそう思っているんですか?」と問う記者をさえぎるように「いや、そう思っているなんてことじゃなくて、そうだってことを知っているんだ」と述べた。
マクラーレンから出走した1986年 ポルトガルGP では、ロズベルグだけ通常のマールボロ の赤色部分が、新商品「マールボロライト」の黄色に塗られた1戦限りの特別仕様車をドライブした[ 20] 。
1989年日本GP レース終盤にシケインでプロストとセナが接触した際、「プロストがあんな下手なブロックをして接触したのは、他人の進路を塞ぐというアンフェアなことを今までしたことがなかったからだろう。あれをやるには凄いテクニックが要るんだよ」と解説した。
息子ニコがカートに参戦し始めていた7歳の頃の取材で、息子はフィンランド国籍にしないの?と問われ「うちの家族はフィンランドでは生きていけないよ(笑)。妻はドイツ出身でフィンランドの冬に耐えられない。息子もフィンランド語が分からない。モンテカルロ のアメリカンスクール に通ってドイツ語 と英語 の教育を受けているしね。」と回答している[ 1] 。
しかしフィンランドへの郷土愛は強く持っており、「1979年からモナコに居住するようになったけど、ビジネスをするにはここが最適だ。フィンランドはビジネスには小さすぎる。でもフィンランド人であることは今でも私にとって重要だし、たまに帰るとホッとするよ。特に四季の変化がモナコには欠けている。私の母国には美しくも厳しい冬があって、そのおかげで素晴らしい夏がある。思い出して恋しくなることもあるよ。」と話す一方で、「妻が年中暖かい地中海 より北に住む事を賛成してくれないので、母国に暮らすことはないと思う。」と語った[ 1] 。
F1での主な記事
1978年 セオドールからF1初参戦。シルバーストン・サーキット でのノンタイトル戦で優勝。
1980年 フィッティパルディから参戦。シーズンランキング10位。
1982年 ウイリアムズに移籍、初優勝、初ポールポジション。1勝〔スイス〕 ウィリアムズ ワールドチャンピオン獲得。
1983年 1勝〔モナコ〕 ウィリアムズ シーズンランキング5位。
1984年 1勝〔ダラス〕 ウィリアムズ シーズンランキング8位。
1985年 2勝〔デトロイト、オーストラリア〕 シーズンランキング3位。
1986年 マクラーレンに移籍、シーズン中に引退発表、年末に引退。シーズンランキング6位。
カーナンバー(F1)
32 (1978年第3~7.11~14戦)
10 (1978年第8~10.15.16戦)
20 (1979年第8~15戦.1981年第1~10.12~15戦)
21 (1980年)
6 (1982年第1~3.5~16戦.1984年.1985年)
1 (1983年)
2 (1986年)
レース戦績
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
全日本F2選手権
F1
スポーツカー世界選手権
ル・マン24時間レース
ドイツツーリングカー選手権/国際ツーリングカー選手権
脚注
注釈
^ 初表彰台であると共に、これが初入賞でもあった。
^ フォークランド紛争 が勃発したため。ウィリアムズはイギリスのチームであり、ロイテマンはアルゼンチン 出身。
^ ホーソンが10戦中1勝であったのに対し、ロズベルグは16戦中の1勝であり、勝利数が少ない中での獲得が目立つこととなった
^ F1世界選手権初年度である1950年 チャンピオンのジュゼッペ・ファリーナ を除く
^ ホンダの後藤治 監督がレース後、「ピケのタイヤ交換はグッドイヤーが交換しないと安全を保障できないと言うので…人命には代えられませんからね。」とコメントした。「'86 ROUND-16 AUSTRALIAN GP ホンダ無念”2冠”のがす」『Racing On No.008』武集書房、1986年12月1日、79頁。
^ 2005年にはトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム (TDP) の平手晃平 が所属した。
^ 母国語に次いでスウェーデン語が得意なケケは、ユーロ・プロモーションでヨハンソンをサポートしている。彼がフェラーリ初年度から50万ドル以上の契約金を得ているのはユーロ社の交渉のおかげというわけだ。「人物インタビュー・ステファン・ヨハンソン by Mike Doodson」『オートスポーツ No.445』三栄書房 、1986年5月1日号、127頁。
出典
^ a b c d e f g 「BOSS TALKING KEKE ROSBERG」『F1グランプリ特集 Vol.057』ソニー・マガジンズ 、1993年3月16日、20-21頁。
^ 川井一仁 著・手塚かつのり絵『ピットリポーター川井ちゃん F1ワハハ読本2』ソニーマガジンズ 、1993年5月26日、64頁。
^ Gerald Donaldson, "Keke Rosberg ". Formula 1 The Official Formula1 Website. 2013年6月4日閲覧。
^ 「A DAY IN SCENE 1977 JAF SUZUKA GP」『Racing On No.019 1987年11月号』武集書房 、131頁。
^ 「4人で始めた挑戦・試練のターボ開発」『F1グランプリ特集 8月号』、ソニー・マガジンズ、 1992年8月16日、25頁。
^ 「初めて知ったホンダ・エンジンの実態」『桜井淑敏 著 ゼロからの挑戦』、祥伝社 、1989年11月、110頁。
^ 「No.2ストーリー 2番目の男がトップを打ち破るとき」『F1GPX 1987年ブラジルGP号』山海堂、1987年4月30日、30頁。
^ 「プロストの悲しみと動揺、意外なケケの男の友情」『F1GPX 1987年ハンガリーGP・オーストリアGP合併号』山海堂、38頁
^ a b 「'82チャンプ・ロズベルグ プジョーでレース復帰!」『グランプリ・エクスプレス '90西ドイツGP号』、1990年8月18日、30頁。
^ 「アレジ獲りに動いた金は15億円超」『グランプリ・エクスプレス ポルトガルGP号』1990年10月13日、30頁。
^ 「暗躍する成功請負人・パーソナルマネージャーの嘘と実 / ケケ・ロズベルグインタビュー」『F1グランプリ特集 1993年7月号』ソニー・マガジンズ 、63頁。
^ コジマエンジニアリング 代表・小島松久 談:『Sports Graphic Number 』175号掲載インタビュー記事より。
^ a b 「あの頃のオレ達へ 星野一義+松本恵二 大いに語る」『カーグラフィック 2014年12月号』
^ 「R.パトレーゼ 今年はターボ勢を相手に最高のチームで闘える」『F1GPX 1988年ブラジルGP号』山海堂 1988年4月23日
^ 「ヘルメットデザインとペインティング、これが大変!」『GPX 1988年第6戦デトロイト』山海堂、19頁。
^ スポーツ・グラフィック「ナンバー」編 文藝春秋文春文庫ビジュアル版『激走!F1』 48-53頁。
^ 「チャレンジ集団をいかにつくるか」『桜井淑敏著 ゼロからの挑戦』祥伝社、1989年11月、209頁。
^ 「F1新時代・ヒーローの肖像」『F1グランプリ特集 1993年12月号』ソニー・マガジンズ、14頁。
^ 「アラン・プロストの10年 プロフェッサーズトーク」『グランプリ・エクスプレス '90アメリカGP号』1990年3月31日、11頁。
^ Keke Rosberg driving the one-off Marlboro Lights McLaren ESPN F1
^ a b c d JAF(日本自動車連盟 )ライセンスではない外国ライセンスドライバーはポイント対象外。
^ “All Results of Keke Rosberg ”. racingsportscars.com . 2016年3月8日時点のオリジナル よりアーカイブ。2018年6月15日閲覧。
関連項目
外部リンク
創設者 主なチーム関係者 主なドライバー F1マシン 主なスポンサー
創設者 主なチーム関係者 ドライバー F1マシン 主なスポンサー
創設者 主なチーム関係者 F1ドライバー F1マシン 主なスポンサー
チーム首脳※ 主なスタッフ/関係者※ 現在のドライバー F1車両 現在のPUサプライヤー 現在のスポンサー 元チーム関係者
主なドライバー
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
※年代と順序はウィリアムズで初出走した時期に基づく。 ※ウィリアムズにおいて優勝したドライバーを中心に記載。太字はウィリアムズにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。斜体はウィリアムズにおいて優勝がないものの特筆されるドライバー。
F2 プロトタイプ ラリー ツーリングカー タイトルスポンサー エンジンサプライヤー
チーム首脳※ 主なチームスタッフ※ 現在のドライバー F1車両
現在のPUサプライヤー
メルセデス (1995 - 2014, 2021 - )
現在のスポンサー 主な関係者
主なF1ドライバー
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
※年代と順序はマクラーレンで初出走した時期に基づく。 ※マクラーレンにおいて優勝したドライバーを中心に記載。太字はマクラーレンにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。斜体はマクラーレンにおいて優勝がないものの特筆されるドライバー。
Can-Am F2 F5000 USAC/CART GT※ LMDh※ タイトルスポンサー エンジンサプライヤー
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代