コジマエンジニアリング
株式会社コジマエンジニアリングは、京都府に本社を置くモータースポーツ関連企業・チーム。かつてはレーシングカーコンストラクターとして活動し、F1の日本での世界選手権公式戦にも2度スポット参戦した。 現在はパワーボートレースに参戦するKEレーシングのほか、各種ボートの販売・メンテナンスを取り扱うKEマリン、ヘリコプターのチャーター便を扱うKEエア、モータースポーツイベント企画などの事業を行っている。 沿革自動車レース創業者の小嶋松久(1944年11月7日 - )は高校時代より2輪ライダーとしてダートトラックレースやモトクロスで活躍し、国内の250ccクラスでは無敵と呼ばれた。スズキのワークスライダーとしてヨーロッパのモトクロス世界選手権に遠征したほか、メカニックとしての修行も積んだ。1968年に2輪レースを引退すると、1970年に故郷の京都[1]でコジマエンジニアリングを設立。当初はスズキのオートバイをレースチューンして販売していたが、メーカーが市販レーサーを製造するようになったことから、4輪レースの分野へと転向する。 1970年1月18日には全日本鈴鹿300kmレース大会にフォード・GT40にて参戦し総合4位となる。ドライバーは田中健二郎。このマシンは元々ジョン・ワイア・オートモーティブ (JWA) がル・マン24時間レース用に製作したものをヤマハが研究用として使用していたもので、トヨタ・7の開発に貢献したといわれている。 スズキ・フロンテのエンジンキット販売を経て、オリジナルシャーシの開発に着手。1971年に入門フォーミュラFJ360/FL500に参入し、片山義美を擁して勝利を重ねる。1973年には全日本FJ1300選手権、1974年には全日本F2000選手権(それぞれF3、F2に相当)にステップアップ。サーティースやマーチの海外製マシンを購入し、足回りを自社製に置き換えるなどしてフォーミュラカー造りの経験を積む。小嶋のモトクロス時代の後輩で四輪レースに転向した長谷見昌弘が1974年、1975年の全日本FJ1300選手権を連覇。1975年5月の日本GPではFL500、FJ1300、F2000の3クラスともコジマが関わったマシンが優勝する[2]。翌1976年にフォーミュラ1の日本初開催が決まったことから、小嶋はフォーミュラレースの最高峰へオリジナルマシンで挑戦することを決断する。 1976年10月のF1選手権イン・ジャパンにKE007の1台体制(長谷見)でスポット参戦。予選タイムアタックでポールポジションほぼ確実という快走を見せるも、サスペンション故障でクラッシュ。大破したマシンを決勝までに修復したが、7周遅れの11位完走に終わる。 1977年は全日本F2000選手権にKE008を投入。シーズン途中に長谷見が離脱したため、スピードスターレーシング(高橋国光)とジョイントする。10月の日本GPにむけてKE009を製作し、高原レーシング(高原敬武)とヒーローズレーシング(星野一義)とジョイントする。前年以上の活躍を期待されたがタイムが伸び悩み、決勝では高原がクラッシュに巻き込まれて1周リタイア、星野が2周遅れの11位という不本意な成績に終わる。 その後、F1参戦を目指していた西ドイツのカウーゼンからKE009を使用したいとのオファーを受け準備を進めたが、カウーゼン側が資金難から計画を撤回したため、海外進出は幻に終わる[3]。また、1978年の日本GPにむけてウィングカーのKE010を開発したが、赤字や前年の観客死亡事故の影響で開催がキャンセルされたため、開発を打ち切った。 1979年には2代目のF2マシンとなるKE011を投入したが成功作とはならず、これを最後に4輪レース活動を停止する。 パワーボート4輪レースからの撤退後、小嶋松久は興味を持っていたパワーボートレースに活動を移す。オリジナル設計のレーシングボート「KE CAT シリーズ」をリリースした。小嶋は自らドライバーとしてオフショアオープン級などのレースに出場し、複数回日本チャンピオンに輝き、2007年末に現役を引退する。 コジマのレーシングカー
F1での成績
太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key) 脚注
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