アンドレア・キエーザ
アンドレア・キエーザ(Andrea Chiesa、1964年5月6日[1] ‐ )は、スイスの元レーシングドライバー。1992年のF1世界選手権に出走した。 日本語における表記、呼称には揺れがあり、フジテレビのF1中継では、「アンドレア・チエザ」と表記されていた。その他雑誌では「アンドレア・キエーサ」とも表記されていた。 経歴初期1985年、トリヴェラート・レーシングのラルトでイタリアF3選手権に参戦、2年目の1986年に初表彰台を獲得しランキング10位、1987年はユーロレーシングのジュニアチームに移籍し、ダラーラ・F387でシリーズ3勝を挙げランキング2位を獲得するなど着実な成長を見せた。 1988年からF1直下のカテゴリーである国際F3000選手権へと昇格し[3]、初年度はゴブラ・モータースポーツから参戦。シーズン中にマシンがローラ、レイナードと変更される中、1ポイントを獲得。1989年はロニ・モータースポーツに移籍、第5戦エンナ・ペルグーサにてF3000初優勝を挙げるなど、ランキング6位を獲得。チームメイトのエマニュエル・ナスペッティを上回るシーズンとなった。 1990年にはポール・スチュワート・レーシングに移籍し、ランキング7位とチームメイトのジョン・ジョーンズを上回り、チームをけん引する存在であった[3]。しかし1991年に移籍したアポマトクスではチーム状態が悪く、チームメイトとなったポール・ベルモンドとキエーザは揃ってシーズンノーポイントに終わる。同年はF3000での4シーズン目でもあり、終盤にはF1シートを求めて中位・下位のチームを中心にシート交渉するなど、エマニュエル・コラールにシートを譲りF3000を卒業する。 フォーミュラ11992年シーズン開幕を前に、フォンドメタルとの交渉が成立し開幕戦南アフリカGP予選でF1に初出走する。しかし予選順位は28位で予選不通過となる。なお、同じく'92開幕戦予選がF1初出走だったのはクリスチャン・フィッティパルディ、片山右京、ジョバンナ・アマティがいる。第2戦メキシコGPで予選を23位で通過し、公式記録上のF1デビューを果たす。フォンドメタルのマシンはこの年フォード・コスワース・HBエンジンを獲得したものの、シーズン前半は前年度シャシーであるGR01を使用していた。このシャシーは前年度在籍したオリビエ・グルイヤールに合わせて設計されたものであり、身長180cm[1]と長身のキエーザには乗りづらいものであった。スポンサーマネーを持ち込んでのF1デビューだったが、その資金面でチームとスポンサー間でのトラブルがあり、第10戦ドイツGPを最後にチームからドライバー契約を解除された。予選に出走した10グランプリ中、予選を通過できたのは3戦で、決勝レースでの完走は一度もなかった。チームはキエーザの後任としてブラバムで走っていたエリック・ヴァン・デ・ポールを起用した。 アメリカ1993年はアメリカに渡り、PPGインディカーシリーズにスポット参戦。しかしレギュラーシート獲得には至らなかった。 スポーツカーレース1996年からはスポーツカーレースに参戦。アメリカIMSAシリーズやベルギープロカーシリーズなど各国のカテゴリーに参戦する。イタリア・スーパースターズ選手権ではマセラティ・クアトロポルテで2011年まで参戦した。 レース戦績国際F3000選手権
F1
CART
ル・マン24時間レース
脚注
参考文献
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