ヨー・ガルトナー
ヨーゼフ・"ヨー"・ガルトナー(Josef "Jo" Gartner, 1954年1月4日 - 1986年6月1日)は、オーストリア・ウィーン出身のレーシングドライバー。 経歴初期のキャリアレーサーを志望していたが、最初はメカニックとしてレース界に入った。1977年暮れにドライバーとしてホッケンハイムリンクで開催されたノンタイトル戦のフォーミュラ3レースに初エントリー、フォーミュラー・スーパー・Veeにも参戦する。1979年にヨーロッパF3に参戦。F3を1年で卒業し、1980年からはF1直下のカテゴリーであるヨーロッパF2選手権へとステップアップした。 F2参戦三年目となった1983年、所属するEMCOレーシングが、F1へとステップアップしていったスピリット・レーシングから中古のスピリット・201のシャシーを購入。エンジンは外されていたため、これにBMW・M12/7エンジンを搭載しガルトナーはこれまでで最も戦闘力を持つマシンに乗った結果、第6戦ポー・グランプリにてF2初優勝を挙げるなど活躍し、ランキング6位となった。 F11984年にイタリアのオゼッラと契約。第4戦サンマリノGPでF1デビュー。F1での弱小チームではあったが、この年のオゼッラは時折速さを見せ、ガルトナーは第11戦イタリアGPで5位入賞を果たした(チームメイトのピエルカルロ・ギンザーニも第9戦アメリカGPで5位入賞を記録)。 しかし同年のオゼッラのエントリー申請はギンザーニの1カーエントリーで登録されていた為、5位の記録は残ったがガルトナーに選手権ポイントは与えられなかった。また、マシンの信頼性も低く、参戦した8戦中完走は3戦であった。ガルトナーのF1参戦はこの年のみとなった。 アメリカF1でのシートを得られなかったガルトナーはアメリカに渡り、IMSA GTPシリーズに参戦。1986年にはセブリング12時間レースでポルシェ・962Cを駆り、ハンス=ヨアヒム・スタック、ボブ・エイキンと共に総合優勝を飾った。 ル・マン24時間レース同年6月1日、ル・マン24時間レースにクレマー・レーシングから高橋国光、サレル・ヴァン・デル・メルヴェとのチームで出場していた最中、ポルシェ・962Cでの夜間走行を担当していたガルトナーは、現地時間の深夜3時過ぎに長い直線で知られるユノディエールで時速300km以上で左側にコースアウト。ガードレールを長い区間なぎ倒した後に車は横転してガードレールの向こう側で停止すると、そこで炎上し車体が燃え尽きた。車両の破壊状態がひどかったため、コースアウトした原因特定は完全ではないが、後輪サスペンションの破損が原因との説[1]、ガルトナーがコース路面に残した左側に向きを変えるタイヤ痕からギアボックスに異変が発生した説、後方を走っていた車両による目撃証言から、他の車が落とした何かを左側に避けた説や、コースを横断した小動物がいた説なども報じられ特定に至っていない[2]。ガルトナーは即死であった。32歳没。 チームのメインスポンサーだったケンウッドは、事故後企業TVCM中にガルトナーへの追悼文を字幕で流した。 ガルトナーは故郷ウィーン・デープリングのデープリンガー墓地に埋葬され眠っている。 レース戦績ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
マカオグランプリ
フォーミュラ1
(key)
ル・マン24時間レース
関連項目脚注
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