1985年のル・マン24時間レース
![]() 1985年のル・マン24時間レース(24 Heures du Mans 1985 )は、53回目のル・マン24時間レースであり、1985年6月15日から6月16日にかけてフランスのサルト・サーキットで行われた。 概要フランス西部自動車クラブは事前に財政難から開催が危ぶまれる旨発表しており、レースファンを心配させた[1]が、結局前年とは打って変わって参加台数の多い賑やかなレースとなった[2]。 使用可能燃料総量の規定が前年より大幅に少ない2,210リットルに変更され、これにより少なくとも2.3km/リットル以上の燃費を確保しないと上位入賞は無理となった[1]。 C1ポルシェワークスが前年の不参加から復活するとともに車両をポルシェ・962Cに切り替え[1]3台を投入[3]、ボッシュモトロニックMP1.2はめざましく改良されていた[3]。 クレマー・レーシングは3号車を962Cに切り替えた[3]が、従前通り956Bも使用でき[3]、軽量な956Bをそのまま使うチームも多かった[3]。ヨースト・レーシングは3リットルエンジンを熟成しさらに3.16リットルとも3.2リットルとも言われる別エンジンを用意し、これに倣うチームも幾つかあった[3]。ポルシェでなければ勝ち目はないが、他と同じでは抜け出せない状況だったため、プリマガス・コンペティションのようにポルシェエンジンを使った独自のグループCカーも登場して来た[3]。 ランチアはこの年LC2をさらに改良してタイヤをミシュランに変更し、テストも充分にしてホッケンハイムとル・マンを除くFIA 世界耐久選手権(WEC)全てのポールポジションを獲得するなど競争力は大幅に向上していたが、決勝はトラブル続きであった[4]。 メルセデス・ベンツがザウバーと組んでザウバー・C8で1955年のル・マン24時間レース以来の参戦となった[2]。 トムスが85Cで参戦してこれがトヨタ自動車の事実上の初参戦となり[1]話題を呼んだ。ただこの段階ではワークス体制ではない。 C2マツダは前年の改良モデル737Cでの参戦で、これまで通り2ローターの13B型エンジンを使用した。これは参加車両中最小排気量、最小出力エンジンであった[5]。 プライベーターにとっては手軽なため台数が増えた。 GTP2年目のジャガーは前年のアメリカからの挑戦に刺激を受けたジャガー本社が参戦に乗り出し、トム・ウォーキンショー・レーシングがジャガー・XJR-6を開発[4]、トニー・サウスゲート(Tony Southgate )が設計したカーボンモノコックシャシに排気量を6.2リットルに拡大したV型12気筒エンジンを搭載していた。しかしル・マンには間に合わず、前年に引き続きジャガー・XJR-5を改良しての参戦となった。XJR-5はこの年ル・マンの公式ポスターを飾った。IMSAでは好成績を挙げているものの、ル・マンでのトップチームとの比較では力不足であると考えられていた[2]。 予選ワークスポルシェ2台が順当に最前列を占めた[5]。 ヨースト・レーシングはユノディエールのストレートエンドで370km/h超を記録するなど空力の向上がうかがえた[6]。 ジャガー・XJR-5は16位と17位であった[1]。 メルセデス・ベンツのエンジンを搭載したザウバー・C8は初日18位のタイムを出したが、2日目にクラッシュして決勝出場は断念した[1]。 マツダ・737Cは予選を通ればいいとの考えでタイムアタックをしなかった[5]。85号車が40位、86号車が44位であった[5]。 童夢のエイエ・エリジュは3分20秒台後半を考えており、林みのるもその程度のタイムを予想していたが、実際には3分40秒にも届かなかった[5]。林みのるはトヨタのエンジニアがトラブルを恐れて国内レースよりはるかに出力を落としているのではないかと疑った[5]。結局トヨタ陣営は童夢が24位、トムスが31位であった[5]。 決勝決勝レース開始前のセレモニーは前年と比しても華やかで、複葉機が曲技飛行をし、それが終わるとコンコルドがコース上空を低空飛行した[5]。 ワークスポルシェのセッティングが燃費に関して慎重すぎたようで予選と比較して1周あたり30秒も遅れる不調ぶりであり、ヨースト・レーシング7号車とGTiエンジニアリング14号車が先行した[3]。この2台はお互い引っ張り合って燃費向上とハイペースを両立し、ワークスをふるい落としに掛かった[3]。これに対してワークスはモトロニックのセッティング変更に手間取り、対抗できなかった[3]。 GTiエンジニアリングもボディーにナイジェル・ストラウドの改良を受けていたがブレーキパッドの交換に手間取り決着がついた[3]。しかししばらく経って分かったことであるが、ヨーストの車両は特別チップで燃費が非常に向上しており、そのままついて行っていたらガス欠でリタイアさせられるところであり、実際にはGTiエンジニアリングはこのトラブルに救われていたのである[3]。 ジャガー・XJR-5は40号車[7]が10時間半を過ぎたところでドライブシャフトが破損してリタイヤ[注釈 1]、もう1台の44号車は電子系統のトラブルで一時ピットイン[7]した。 マツダはこの年すでに3ローターエンジンを開発しており、2ローターでの参戦は最後になるはずで、トラブルを起こさず確実に上位入賞するのが目標であったが、レース開始後わずか40分で85号車がオイル漏れを起こし、修理に2時間40分もかかった[5]。 トムスは完走だけを目指しており、スターティングドライバーの中嶋悟はトヨタのエンジニアから示された最高回転数をさらに数百回転落とすよう他のドライバーを説得していた[5]。トヨタの重役からは「マツダよりゆっくり走れ」という指示が出たともいう[5]。 結果ヨースト・レーシング7号車、クラウス・ルドヴィック/パオロ・バリッラ/ルイス・クラージェス組のポルシェ・956Bが24時間に5,088.507km[3]を走って優勝した。ルイス・クラージェスは家族、特に病弱だった母親にカーレースをしている事実を隠すためジョン・ヴィンターという偽名で参加しており、優勝者のみが上がることを許されるバルコニーに帽子を深く被って現れ、カメラマンが撮影している間ずっと下を向いていた。しかし家に帰ると母親に「おめでとう」と言われ、ずっと前から全部バレていたことが判明したという。 ポルシェワークスは2号車が3位に入ったのが最高で、ヨーストとは距離にして95km、7周差をつけられる惨敗であった[3]。エースであったジャッキー・イクスはこの年限りで引退した。 ランチアは6位と7位に食い込んだだけで、その他トップ10は全てポルシェで占められた[3]。 ジャガー・XJR-5はレース終盤にエンジンにトラブルが起きたものの44号車が13位で完走[1][7]した。
注釈出典
参考文献
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