1992年のル・マン24時間レース
1992年のル・マン24時間レース(24 Heures du Mans 1992 )は、60回目[1][2]のル・マン24時間レースであり、1992年6月20日[1][2]から6月21日[2]にかけてフランスのサルト・サーキットで行われた。 概要スポーツカー世界選手権(SWC)レースの一環として予定され、そのシリーズ全戦に出場するチームが優先されたが、全戦出場した有力チームはプジョー、トヨタ、マツダくらいのもので出走台数10台前後と寂しいものであり、記念すべき60回大会となるにもかかわらずそのままではル・マンのエントリー台数も極めて少ないことが予想された[1]。そのためシリーズレースに出場したチームの車両であれば1990年までのグループC車両の出場を認め、さらにポルシェエンジン搭載車、ヨーロッパ国内選手権に出場している車両の参加が認められた[1]。ただしターボ車は使用可能燃料が従来の2,550リットルから2,140リットルへと大幅に制限された[1]。 トヨタ自動車は合計5台の出場となり、ポルシェ車を除けば最多数であった[1]。 有力チームだったジャガーやメルセデス・ベンツは全くそっぽを向いてしまった[1]。 観客動員数は約15万人と最盛期の1/3程度に落ち込んでいたが、地元フランスのチームが最有力候補ということでそれなりの盛り上がりを見せた[1]。 C1スポーツカーレースがスプリント化する中でフォーミュラ1に近い仕様となり、加速よりもコーナリングでタイムを稼ぐマシンになった[1]。 プジョーはジャン・トッドの元で耐久テストをこなしてプジョー・905の耐久性を大幅に上げて勝利に自信を持っていた[1]が、この車両が24時間走れるかどうかが注目された。 トヨタ自動車は1991年シーズンを休止した間に新たにじっくり開発していた3,500ccエンジン搭載車、TS010を3台投入した[1]。小型軽量と出力を両立するためにV型10気筒を採用、シャシは従来通りトヨタテクノクラフトが新設計した。 ロータリーエンジンが使用できなくなったマツダはレース活動方針決定が1991年10月にずれ込み、独自新規開発では時間も費用も間に合わないため[1]マツダで独自にチューン[1]したジャッドGV10型V型10気筒エンジンをジャガー・XJR-14の車体に搭載したマツダ・MX-R01を持ち込んだ[1]。 日産自動車は出場を考え3,500ccエンジン搭載車、NP35を開発していたが、シリーズ全戦に出場する予算が得られず断念した[1]。 C21990年までのグループCで、シリーズレース出場メーカーのターボ車のカテゴリである[1]。 トヨタ自動車はサードとトラストにターボ車を1台ずつ貸与した[1]。 日産自動車はシリーズレースに出場しておらず、このカテゴリでも出場資格はなかった[1]。 C3ポルシェ・962C及びポルシェエンジン搭載車のカテゴリである[1]。 ターボ車に課せられた使用可能燃料制限のハンディキャップが大きく上位出場が望めなかったため、ポルシェ・962の出場は予想されたより多くなかった[1]。 C4ヨーロッパ国内選手権に出場している車両のカテゴリである。 予選プジョーは数年前から使用を認められるようになっていた[1]Tカーを3台持ち込んで積極的にタイムアタックし、2号車が1990年のル・マン24時間レースで日産自動車が記録していたシケイン設置後のコースレコードを塗り替える3分21秒209を記録した[1][2]。2位も1号車のプジョーであった[1][2]。 トヨタもTカーを持ち込んだが、プジョーほど徹底したタイムアタックカーではなかった[1]。トヨタ陣営のトップは7号車が3位の3分26秒411で、4位8号車、5位33号車もトヨタが占めた[1]。 マツダは決勝レースに備えた走行でタイムを気にしなかったが、それでも1991年のル・マン24時間レースで優勝したクルーが7位となる3分34秒329を記録し、能力の高さを示した[1]。 C2ではサードのトヨタ・92CVが3分39秒850で11位、C3ではクレマーのポルシェ・962Cが3分39秒317で8位となった[1]。 決勝16時[1]に28台[2]がスタートした[1]。雨は上がったが路面は濡れており、その後も雨が降ったためレースの半分はウェットコースとなったためトラブルが少ないレースとなり、ターボ勢も予想された程には燃費に苦しまなかった[1]。 レース開始当初はプジョーの2台が先行した[1]。5周目にマツダに抜かれたものの、電気系統のトラブルでわずかなスローダウンや数分のピットロスはあったがその他にトラブルらしいトラブルはなく、ピット作業にも乱れはなかった[1]。 トヨタは前半プジョーとマツダに先行され、遅い車両につっかえているところをプジョーに追突されて両者とも長いピットインを強いられた。 マツダは5周目からトップに立って[1]快調に走り、一時二連覇も期待された[1]がデフロスターの不調による視界不良で逆転され[1]、その後トヨタにも抜かれた[1]。 結果14台が完走した[1]。 プジョーはデレック・ワーウィック/ヤニック・ダルマス/マーク・ブランデル組[2]のプジョー・905[2]、1号車[2]、が24時間で352周[2]を走り切って優勝した[1]。 トヨタ自動車は関谷正徳[1][2]/ピエール=アンリ・ラファネル[1][2]/ケニー・アチソン[1][2]組、チーム・トムスの33号車が2位に入り、トヨタにとっての最高成績となった[1]が、前年マツダが優勝したばかりであり、世間に対するインパクトに欠けた[1]。 マツダが短期間でこれまでと全く違うタイプの車両を作成して上位に食い込んだことは高く評価された[1]。
出典
参考文献
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