1986年のル・マン24時間レース
![]() 1986年のル・マン24時間レース(24 Heures du Mans 1986 )は、54回目のル・マン24時間レースであり、1986年5月31日[1][2][3]から6月1日にかけてフランスのサルト・サーキットで行われた。 概要日程はフォーミュラ1に参戦するドライバーも参加できるように決められたため、例年より少し早い時期の開催になった[2]。 ミュルサンヌコーナーの角度が緩く改修され、若干コース距離が短くなったが、ラップタイムへの影響はほとんどなかった[1]。1985年のル・マン24時間レースに関し燃費規制が厳しくワークスポルシェがペースを上げられなかったことがレースへの興味を削いだという批判に応え、1984年のル・マン24時間レースと同様2550リットル使用できることになった[1]。 ポルシェが強すぎるせいもあってか観客数は減少傾向にあったが、1982年にFIA 世界耐久選手権が富士スピードウェイで開催されポルシェ・956が走って以来、日本におけるル・マン24時間レースの人気は高まりを見せ、日本メーカーは力を入れて来た[1]。ワークス3チームが出場するとあって日本からの報道陣も多く、200人を優に超えた[2]。 参戦メーカーだけでなく、ポルシェのトップチームであるヨースト・レーシングのスポンサーがタカキュー[1]、クレマーのスポンサーがケンウッド[1]とスポンサーも増え、現地には日本チームと日本人がこれまでになく多く姿を見せ、地元の新聞では「ジャポンアタック」(Le Japon Ataque )と報じられた[1][2][3]ものの、まだ勝利は競えず完走の可否が問われる次元であった[3]。 C1ポルシェはエースであったジャッキー・イクスが前年限りで引退したためチーム編成が大きく変わった[3]。エンジンは935/82型を2.86リットル[3]に拡大、さらにこのレースには間に合わなかったものの全水冷の935/83型を開発していた[3]。またテスト的にデュアルクラッチトランスミッションポルシェ・ドッペルクップルングを搭載したポルシェ・962PDKを出走させた。高橋国光がクレマーポルシェのメンバーとして初参加した[1]。 ジャガーはTWR体制になり、5,993cc[4]V型12気筒[4]エンジンを搭載した新型のジャガー・XJR-6[5]を投入するなど大幅な戦力向上を図って来た[1]。エンジンが大きくホイールベースも伸びるため車両重量は900kgを超えたが、カーボンとケブラーを使用したシャシはまとまりが良かった[1]。スポンサーはシルクカットになり外観も一新した[3]。 ザウバー・メルセデス・ベンツはこの年ザウバー・C8 2台がエントリーしたが、まだスポーツカーレースで雨の中1勝しただけで信頼性がなく、本格的な参戦ではなく数年先を見据えての参戦となった[1]。 初出場[2]の日産自動車は当初からワークス体制のニスモで参戦[1]、シャシ製作とメンテナンスはマーチ[1][2]が行ない、エレクトラモーティブ[注釈 1]がチューン[1]するなど国際的な体制[1]を取った。V型6気筒ターボエンジンのパワーはポルシェを上回るという触れ込みで、ポルシェのライバルになるという印象を与えた[1]。ポルシェは「われわれは日産の挑戦を歓迎する」との談話を発表し、偶然ピットがポルシェの隣になった[2]。 GTXポルシェが四輪駆動で話題になったポルシェ・959のレース仕様車ポルシェ・961を出走させた[1]。 GTPマツダは従来使用していた2ローター13B型エンジンを3ローターの13G型とし[1]、マツダ・757で完走を目指すチームから上位入賞を狙うチームへの脱皮を図った[1]。 予選ジャガーは決勝に向けてのマシン調整を優先させた[1]が、それでも予選5位、7位、14位を占めて注目された[2]。 ポルシェが最前列を確保したが、タイムは前年を下回った[1]。ポルシェ・962PDKはトラブルでタイムが伸びず予選8位[1]。ポルシェ・961も1,000kgを超える重量で振るわなかった[1]。ヨーストは3分17秒11で3位となり、再びワークスポルシェを打ち負かそうと士気が高かった[1]。 ニッサンは内紛が多く、タイムアタックどころではなかった[2]。 マツダも直線で350km/hを予定していたのに311km/hしか出ないなど順調ではなかったが、ル・マンを走り慣れていることもあって余裕があった[2]。 決勝午後4時にスタートした[1]。ヨーストは3連勝に向けてペースを上げ、ポルシェワークス2台との一騎討ちとなった[1]。ペースアップに歯止めが掛からなくなり、初参戦したニッサン関係者は「24時間のスプリントなのか?」と驚いている[3]。 ザウバー・メルセデス・ベンツはトランスミッションとオイルクーラーのトラブルで[1]土曜日の明るいうちに2台とも戦列から去った[3]。 ジャガーは51号車と52号車が最高速度356km/h、53号車が352km/hを記録するなど仕上がりが良く、次第に上位に進出した[1]が、21時52分に5位から6位あたりを走行中の52号車がガス欠で[5]、1時47分に53号車がトランスミッション故障で[5]リタイア、残る51号車は2位[2][5]で走行中[5]にタイヤバーストで足回りにダメージを受けて[1][5]、3台とも[3][5]リタイアとなった[1][3][5]。 ポルシェ陣営は12時間で3位を走行していたワークスポルシェがオイルに乗って接触しリタイア。さらに8位で走行していたクレマーポルシェがユーノディエールで350km/hで走行中[2]に大クラッシュ、乗っていたヨー・ガルトナーが即死する事故があった[1][2]。このためペースカーが入ったがスピードが7分/周[2]とかなりゆっくりで2時間半も続き[2]、ヨーストのエンジンがオーバーヒートを起こしヘッドガスケットを吹き抜けさせてしまい首位のままリタイヤ、ワークスの勝利が決まった[1]。 結果デレック・ベル/ハンス=ヨアヒム・スタック/アル・ホルバート組[3]のポルシェ・962C、1号車が24時間で4972.731km[5]を平均速度207.197km/h[5]で走って「予定通り」優勝はしたものの、2号車と3号車がリタイアした[3]。ポルシェ勢全体でもトップ10台のうち9台を占める完勝だった[5]ものの、956と962合わせて出走14台のうち7台がリタイアとなった[3]。 日本車の完走はニッサンの16位が唯一であった[1][3]が、この完走は日本国内で大きな反響を呼び、1987年のル・マン24時間レースに対するステップになった[2]。 マツダはインプットシャフトが折れるトラブルに見舞われ、1981年以来の全滅を喫した[2]。
注釈出典
参考文献
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