1991年オハイオ、日産 グランプリ、ミッドオハイオ・スポーツカーコース (前から順に)トミー・ケンダル とウェイン・テイラー (両方ともイントレピッド・RM-1 )、勝者のデイビー・ジョーンズ (ジャガー・XJR-16 )、続いてジェフ・ブラバム とチップ・ロビンソン (両方とも日産・NPT-91 )、ラウル・ボーセル (XJR-16)とジェームズ・ウィーバー (ポルシェ・962 )[ 1] [ 2]
IMSA GT選手権 はかつて開催されていた、国際モータースポーツ協会 (IMSA)が主催したスポーツカーレース シリーズだった。レースは主に米国 で行われ、カナダ でも行われた。
歴史
シリーズは1969年にジョンとペギー・ビショップ[ 3] とビル・フランス・シニア [ 4] によって設立された。レースは1971年に始まり、当初はFIA のストックカーカテゴリーの2つを対象としており、GT (グループ3 および4 )およびツーリング (グループ1 および2 )クラスにそれぞれ2つのクラスを走らせた。最初のレースはバージニア・インターナショナル・レースウェイ で開催された。ドライバーと観客が集まり、予想以上の成功を収めた[ 5] 。
翌年、ジョン・ビショップはスポンサーのR.J.レイノルズ・タバコ を招き、1975年に新しいカテゴリーであるオールアメリカングランドツーリング(AAGT)を導入した。1977年にシリーズは大きな変更をした。IMSAは、ターボチャージャー 車のレースへの出場を初めて許可し、翌年にグループ5 のルールに基づいて新しいカテゴリーであるGTXを導入した。1981年、ビショップはFIAが新たに導入したグループC 規定に従わないと決定した後、スポーツプロトタイプ 用のGTPクラスを導入した。1989年、ビショップは自身の組織、IMSAを売却した。1990年代初頭にシリーズが衰退した後、1993年にオープントップのスポーツプロトタイプカテゴリーが導入され、1994年に最高峰のGTPクラスに取って代わった。FIAによるクラスの命名で、当時の別のシリーズであるヨーロッパのフランス西部自動車クラブ (ACO)によるスポーツプロトタイプのル・マン・プロトタイプ のシリーズとは異なり、新しいクラスはIMSA ワールドスポーツカー(WSC)に指定された。
複数の所有者がいた期間の後、組織はプロフェッショナルスポーツカーレーシング(PSCR)に改名され、最終的に組織はドン・パノス が所有した。1999年、PSCRはACOと提携し、ACOのルールブックを採用することを決定し、シリーズの名称をアメリカン・ル・マン・シリーズ (ALMS)に変更した。シリーズは、さまざまな名称あるが、通称「IMSAシリーズ」と呼ばれていた。1999年-2013年までのALMSと現在のユナイテッド・スポーツカー選手権 が、IMSA GT選手権を引き継いだシリーズと見なされている。
初期のクラス分け
1981年IMSA ロードアトランタで開催されたレースでの、GTO、GTU、GTPマシン[ 6]
1971年が最初のシーズンであり、6レース開催された。シリーズの初期には、ヨーロッパのグループ2 およびグループ4 クラスと同様に、4つのグループに分けられたGTカーが登場した。
GT選手権の歴史
キャメルGT時代
最初のGTUクラスチャンピオンは、ポルシェ914-6 GTU の、ピーター・グレッグ とハーレイ・ヘイウッド だった。IMSAの初期の勝者の多くは、ポルシェ・911カレラRSR とシボレー・コルベット だった。キャメル は2シーズン目からにタイトルスポンサーになり、シリーズはキャメルGTチャレンジシリーズとして知られるようになった。スポンサーの企業デカールは、すべてのレースカーの左右に表示され、はっきりと見える必要があった。また、キャメルの企業ロゴパッチは、ジョーキャメル が笑顔でタバコを吸う姿が特徴で、レーシングスーツ の胸部にも必要だった[ 7] 。
当初すべての車は、どのカテゴリーに参加したかを示すカテゴリタグで識別されていたが[ 8] 、1975年シーズンの半ば以降、すべての車には、ロゴが組み込まれた長方形のIMSA GTのデカールが必要だった。 左側に大きなGTのタグと[ 9] 、ジョー・キャメルのデカールが続いた。
1975年、GTOでのポルシェ の優勢に対抗する為に、新しいカテゴリーであるオールアメリカングランドツーリング(AAGT)が導入された。
1981年、ボブ・シャープ レーシングチームはルールの抜け穴を突いて日産・プレジデント のV8エンジンを搭載した、日産・280ZX (英語版 ) を米国内で製作した。だが、新しいGTPカテゴリーが設定されたときに廃止された[ 10] 。TUは1976年に段階的に廃止され、TOは翌年に廃止された。
ポルシェ・935 ブルモス・レーシング
ターボチャージャー の使用は1977年シーズン半ばまで許可されなかった。しかし76,77年のGTOタイトルを獲得したアル・ホルバート のAAGT車の、シボレー・モンツァ を検査した後、ポルシェのモータースポーツ部門による抗議もあり許可された。1977年以前から、ポルシェのプライベーターは、AAGT車に対して旧型の911 カレラRSRで苦戦を強いられた[ 11] 。
エンジンサイズは、排気量対最低重量の公式を使用して、公正な競争を決定するための一連のルールを考案したIMSAの職員によって決定された。ターボチャージャーは、回転動力、燃料噴射、および他の多くのエンジン機能と同様に考慮された[ 12] 。
1978年から、GTX(FIA のグループ5 に基づいた、グランドツーリング・エクスペリメンタル)として知られる新しい最上位クラスでは、ポルシェ・935 がシリーズを支配した。1970年代の最も成功したドライバーは、1971年、1973年、1974年、1975年、1978年、1979年にチャンピオンシップを獲得したピーター・グレッグ だった。1982年、ジョン・ポール・ジュニア が改良されたポルシェ・935でGTPクラスで優勝した後、ツインターボ は、使用禁止となった。
GT スペースフレーム時代
1984年、すべてのGT車は、車がどのカテゴリーかを識別するために、大きな正方形のデカールを表示する必要があった。GTU車は、白地に黒のU [ 13] 、GTO車は黒地に白のO文字だった [ 14] 。他に標準のIMSA GTデカールもあった[ 15] 。
1980年代の規定の重要な変更の1つは、GTUの排気量2.5Lの制限が3.0Lに引き上げられ、GTOの最大排気量6.0Lの制限が引き続き適用された[ 12] 。3Lの最低重量は1,900 lb (860 kg)。一方、6.0Lの車は2,700 lb (1,200 kg) だった。イコールコンディションにするために、2バルブターボチャージャーの重量は15%増加し、4バルブターボチャージャーの重量は20%増加する必要があった。電子制御燃料噴射 が一般的になったが、グラウンド・エフェクト・カー はまだ禁止されていた[ 12] 。
ステアリング、ブレーキ、トランスミッション、サスペンションはコンストラクターに任された。より大きく、強力なエンジンは、ホモロゲーション 規定の下で許可された[ 12] 。バルブ、ポート、スパークプラグの数は変更することは出来なかった。
トヨタ・セリカ T160型 IMSA GTO
AAR ・トヨタ チームは、トヨタが米国市場向けに第4世代のセリカ を発表し、チームが最初にGTOカテゴリに参入したときに(GTUタイトルを1回も獲得していなかったにもかかわらず)[ 16] 、ルールに関する問題に遭遇した。チームは、IMSAにルールを変更するように説得し、それによって車が元々のドライブトレイン 以外で再設計されたシャーシを使用し、レースできるようになるまで、前輪駆動車 でレースする必要があるという可能性があった。AARの希望通りに、IMSAはルールを変更し、車は後輪駆動車 に改造された[ 17] 。この車の特徴の1つは、サファリラリー で優勝したグループB の前身である、4T-GTE エンジンで、475 hp (354 kW)を発生した[ 12] 。クリス・コード 、ウィリー・T・リブス 、デニス・アース などによってドライブされたこのマシンは、1987年日本車初のGTOクラスタイトルを獲得、チームがGTPクラスに移行するまで、GTOクラスで勝利した。他チームもこれに従い、シボレー・ベレッタ (トランザムシリーズ)やマツダ・MX-6 (IMSA GTU)などの注目すべき車を使用した[ 17] 。
セリカは、初期のGT派生車から独立した数少ない車の1つだった。フルスペースフレーム シャーシで、本格的なレースカーになった。1987年までに、このカテゴリーはファクトリーチームによって支配されるようになり、テストセッションが一般的になり、ルールも彼らを拒否せず、歓迎する様に調整された。フェンダー を広げてトレッド を79インチ (2,000 mm)まで増やすことはできるが、車は生産車の形状を維持する必要があった[ 12] 。
Hoerr Racing GTO オールズモビル のロビン・マッコール (1987)
ほとんどのチームが取り外し可能で修理が簡単なグラスファイバー を好んだため、ボディの材質に制限は無かった(車の生産時から残るのパネルは、スチール製のルーフだけだった)。
ルールを利用した車では、アウディ・90 があった。その高度なクワトロ四輪駆動 システムで、車は1989年シーズンを支配する可能性があった。車自体はうまく機能したが、2つのファクトリーチームからの激しい競争に直面した。ラウシュ・レーシング のマーキュリー・クーガーXR7 とクレイトン・カニンガムレーシングの日産・300ZX (英語版 ) でこれらが15戦のうちの7勝を挙げた。アウディ はシーズン序盤の耐久クラシック(デイトナ とセブリング )は参戦しなかった。その結果、ハンス・ヨアヒム・スタック がドライブしたが、ドライバー、マニュファクチャラータイトルを逃した。
一連の勝利を記録した他メーカーはマツダ だった。マツダ・RX-2 とRX-3 が一定の成功を収めた後、マツダ・RX-7 は1979年と1982年から1993年まで12年連続でデイトナ24時間レース でGTUクラス優勝した。[ 18] また、1980年から1987年まで8年間連続でIMSA GTUクラスのチャンピオンを獲得した。さらにRX-7は、1990年9月2日に100勝目の勝利を収め、他のどのモデルの車よりも多くのIMSA GT選手権で優勝した[ 19] 3ローター 搭載のGTOクラス、最終的には4ローター搭載のGTPクラスにも進出、1995年までにIMSA GT選手権合計117勝という輝かしい戦績を残した[ 18] 。
GTP 時代
トヨタ・イーグルMk.III
日産・GTP ZX-T
GTPのデカール (1986-1993)
1981年、IMSA GTP (グランドツーリングプロトタイプ)が登場し、これは1982年から世界耐久選手権 に導入される新しいFIA グループC カーに似ていた。だが2つのカテゴリーの主な違いは、燃料使用総量が規制されたグループCと異なり、GTPは燃費について規制が無かったことである。デレック・ベル は「レースファンはエコランを見に来ているのではない」と強調した。ブライアン・レッドマン はGTPマシン、ローラ・T600 (英語版 ) ・シボレー をドライブしGTPカーで初優勝した。1982年にGTXに代わりGTPクラスが創設され、マーチ もプロトタイプカー、マーチ・83G を製作し、アル・ホルバート がシボレーエンジンで1983年GTPチャンピオンを獲得し、シーズン後にポルシェ エンジンに変更した。翌年はランディ・ラニアー はシボレーエンジンでチャンピオンになった。1984年に、85年から87年までシリーズを支配したポルシェ・962 も発表された。その後日産・GTP ZX-T が、IMSA GT選手権新記録の8連勝を達成し1988年にドライバーズタイトルを獲得。翌年から1991年まで、ジャガー 、ポルシェ 、トヨタ からの追撃をかわし、日産がドライバーズ、マニュファクチャラーズ部門共に制覇する。トヨタは、GTP時代の終盤に最速だった。ダン・ガーニー のオール・アメリカン・レーサーズ が走らせたトヨタ・イーグルMkⅢ は、1992年にダブルタイトルを獲得、1993年にはデイトナ含め出場したレース全勝でタイトルを連覇した。
GTPクラスには、URD、スパイス・エンジニアリング (英語版 ) 、イントレピッド 、ゲブハートなど、多くのメーカーが参戦していた。1992年からはGTOクラスからステップアップした、北米マツダ がRX-792P で参戦した。
GTPライトと呼ばれる軽量、低出力(排気量3L以下のNA エンジン)のプロトタイプカテゴリが1985年に導入された。アルゴレーシングカーズ が初代「ライト」チャンピオンで、スパイス・エンジニアリング (英語版 ) がそれに続いた。他のよく知られているチームは、ティガ 、ロイヤル 、アルバ 、ファブカー、クッズがあった。NSX のエンジンを搭載した、アキュラ ・スパイス SE90CL が1991年より3年間、GTPライトクラスに参戦。ドライバーズ、マニュファクチャラーズの両タイトルを3年連続で獲得した。
1986年シーズンから、GTPカテゴリには独自のデカールがあった。これはIMSA GTのサイドデカールに似ており、カテゴリを示すためにP が追加されている[ 20] 。キャメルライトの車も同じデカールを使用していた[ 21] 。
GTPの終焉
1987年にビショップは心臓手術が成功した後、自分の優先事項を再考し始めた。彼は、タンパ・レースサーキット の所有者であるマイクコーンと、ジェフパーカーから連絡を受けた。1989年1月、ビショップとフランスはシリーズをコーンとパーカーに売却した。新しいオーナーは、IMSA本部をコネチカット からタンパベイ に移転した。その後コーンとパーカーはシリーズをビジネスマンのチャールズ・スレーターに売却した。
1992年までに、GTPカテゴリーの減少につながった多くの要因があった。1988年に、アル・ホルバート はポルシェ・962 がジャガー・XJR-9 やエレクトラモーティブ の日産・GTP ZX-T のような車両によって時代遅れにされつつあると気付いた。ホルバートはカスタマーチームのためにポルシェのインディカー 用エンジンを搭載したオープントップのレース車両を160万米ドルで作ることを計画した[ 22] 。しかしそのプロジェクトは、その年の10月に航空機事故でホルバートが亡くなったために計画したようなカスタマー販売は実現しなかった[ 23] 。ワークスチーム がシリーズに参戦することを許可した組織にもあった。ビショップの当初のビジョンの下では、プライベーターとワークスチームは、平等に競争することができた。しかしワークスチームが台頭し、プライベートチームは撤退、日本経済が下り坂になり始め、これらの要因で、日産 とマツダ はシリーズを去った。このため1993年についにGTPクラスは廃止が決まった。[ 23] GTPマシンは、1993年10月2日、フェニックス・インターナショナル・レースウェイ で最後のレースを行った[ 24] 。
GTPカテゴリーは、ABS 、トラクションコントロール 、アクティブサスペンション など、米国での多くのイノベーションとして評価された。 1980年代初頭のデイブ・カワートとケンパー・ミラーのレッドロブスター がスポンサーのチームは、レースチームのホスピタリティを革新し、その後、他のチームでも採用された[ 23] 。
ワールドスポーツカー (WSC)
ライリーアンドスコット・MkⅢ
コストの上昇とファクトリーチームがシリーズから離れ、エントリーの減少と利益が減少し、IMSA GT選手権は1993年に新しいプロトタイプ カテゴリーである、ワールドスポーツカー(WSC)を導入した。WSCは、翌年、GTPとGTPライトのクローズドボディーに取って代わった。WSC車はオープントップで、生産車のエンジンを備えた、フラットボトムのスポーツプロトタイプだった。生産車エンジンのレーシングバージョンのGTPマシンとは対照的だった。
1993年、WSC車は、マイアミグランプリ でデビューした。しかしリタイアに終わった。セブリング12時間レース を欠場した後、このカテゴリーは残りのシーズンは4台未満の車による非選手権ラウンドに出場することとなった。
1994年にタイトルスポンサーはキャメル からエクソン に置き換えられた。WSCが最上位カテゴリーとして引き継ぐことになってはいたものの、その信頼性が開幕戦のデイトナ24時間レース で試されることになった。8台のWSC車が競う中、2台がフロントロウからスタートしたにもかかわらず、WSC車はGTの陰に隠れ、最高位は9位に終わり、他に2台が完走したに過ぎなかった。 WSCカーは第2戦セブリングで初の表彰台を獲得し、デイトナで優勝したGTSクラスの日産・300ZX に次ぐ2位と3位を獲得した。このため、GTSカテゴリにおいて、GTP用エンジンの使用を禁止するという規則変更が行われた。ロードアトランタ 戦で新型、フェラーリ・333SP がデビューし、デビューレースに勝利した。その後、毎ラウンドで安定して表彰台を獲得したが、途中参戦だった為、オールズモビル がフェラーリ を4ポイント上回ってマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。
1995年、フェラーリの新しいライバルに、ライリーアンドスコット・MkIII に登場した。あえて時代遅れに感じるパイプスペースフレーム シャシーとしたのは、アメリカンレース界ではポピュラーなフレームだった為で、価格の安さとメンテナンス性、純アメリカ製WSC規定初マシンであること、そして何よりその速さで一気に最大勢力となった。デビュー戦のデイトナ24時間レースでは、11周目にエンジントラブルでリタイアした。フェラーリは、セブリング12時間レースで総合優勝し、ドライバー、メーカー両タイトルを獲得した。フェラーリ333SPとライリー&スコット(オールズモビル/フォード )は、1995年から1998年終わりのIMSA GT選手権の終焉まで、シリーズの主要なマシンだった。
日産・300ZX
1992年、長年のカテゴリーであるアメリカンチャレンジがGT選手権に加わった。それはGTOカテゴリーとなり、以前のGTOカテゴリーがGTS(Grand Touring Supreme)に改名された。日産・300ZX が1990年から参戦。ドライバーのスティーブ・ミレン は1992年と1994年、ドライバーズとマニュファクチャラーの両クラスタイトルを獲得。また1994年はデイトナ24時間レース 、セブリング12時間レース で優勝、ル・マン24時間レース でも総合5位・クラス1位を獲得。その為IMSAは許容馬力を減らしてGTS-1クラスを平準化しようと、VGツインターボエンジン を1994年までで使用不可にした[ 25] 。1995年からはプレジデント に搭載していたV8エンジン を搭載し[ 26] 、その年のセブリング12時間 でクラス優勝した。
1995年、ヨーロッパのBPRグローバルGTシリーズ に近づくために、GTカテゴリーは変更された。GTSはGTS-1になり、GTUはGTS-2になった。
1997年には、別のカテゴリが追加され、GTS-2がGTS-3クラスになり、新しいGTS-2カテゴリは、既存のGT2マシン を参戦可能にするために導入された。
1996年、チャールズ・スレーターは組織をロベルト・ミュラー(リーボック の元CEO)とウォール街 の金融業者でインディカー のチームオーナーで、スカンディア WSCチームのオーナードライバーでもあったアンディ・エバンス に売却した。エバンスとKurtis Eideのマーケティング担当副社長は、IMSA GT選手権からプロフェッショナルスポーツカーレース(PSCR)に名称を変更した。
シリーズ終了後
1998年限りでIMSA GT選手権は終了となり、翌年から新シリーズの、アメリカン・ル・マン・シリーズ (ALMS)が開催された。ル・マン24時間レース を統括するフランス西部自動車クラブ (ACO)は、創設者のドン・パノス にル・マンの名前をライセンス供与し、ル・マンのレギュレーションに沿った車両によるシリーズを創設した。チームオーナーと経営陣からの多大な重圧を受けていたアンディ・エバンス は、PSCRを2001年に、ドン・パノスに売却した。[ 27] これにより1999年以来、PSCRによって認可されていたALMSを、パノスによる体制に固めた。パノスは組織名を再びIMSAに改名し、ALMS、スターマツダ シリーズ、パノス GTプロシリーズの公式認可組織となった。ALMSは、ル・マン24時間レースに基づいた規制を使用しているが、2005年にパノス側とル・マンの主催者であるACO との関係に問題が生じた。
1998年、スポーツカー・クラブオブ・アメリカ により認可され、米国ロードレーシングチャンピオンシップ の名で新シリーズが始まった。このシリーズは、アメリカンスタイルのカーレースを維持したいと考えていた競合するグループによって率いられた。しかしエントリーが少なく1999年でシリーズが終了した後、新たな米国ベースのシリーズは、NASCAR のジム・フランス の全面的な支援を受けて、グランド・アメリカン・ロードレーシング (グランダム)を設立、2000年からロレックス・スポーツカー・シリーズ を運営した。シリーズ初期は苦戦したが、デイトナ・プロトタイプ クラスの導入後、有名なドライバー、広大なフィールド、僅差での勝負、安価な参戦コスト、さらにはデイトナ24時間レース を擁しているなどの点から、ALMSに対する強力なライバルとして存続した。グランダムとALMSは、2014年にIMSAがNASCARの一部門となる形で合併し、新たにユナイテッド・スポーツカー選手権 を創設した。IMSAが運営し、IMSA GT選手権の系譜に繋がるシリーズとなっている。
歴代チャンピオン
脚注
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参照ページ
外部リンク