岐阜県
岐阜県(ぎふけん)は、日本の中部地方に位置する県。県庁所在地は岐阜市。 概要日本の人口重心中央[注釈 1]に位置し、その地形は変化に富んでいる。内陸県であり、五畿七道の東海道に含まれないものの、一般的には東海地方に属するとされ[1][2]、愛知県や三重県とともに東海3県の一つである。岐阜市など県南部の濃尾平野一帯は、大都市の名古屋市に近いことから名古屋都市圏(中京圏)に含まれ、名古屋の衛星都市(ベッドタウン)でもある。県の北部から中部は飛騨山脈(北アルプス)、両白山地などが連なる山岳地帯である。そのため、人口は愛知県に近い県南部の濃尾平野一帯に偏重している。 名称「岐阜」の名は諸説あり、一説には、織田信長の命名によるとされる。『信長公記』(太田牛一)によると、織田信長が美濃国を攻略した際に、稲葉山の城下の井口を岐阜と改めたと書かれている。 政秀寺の僧侶であった沢彦宗恩の案によって、「岐山」(殷が周の王朝へと移り変わる時に鳳凰が舞い降りた山とされ、周の文王はこの山で立ち上がり、八の基を築いた)の「岐」と、「曲阜」(学問の祖、孔子が生まれた集落があった魯国の首府にして儒学発祥の地)の「阜」を併せ持つ「岐阜」を選定して、太平と学問の地であれとの意味を込めて命名したとされる。 江戸時代中期の尾張藩の記録の『安土創業録』(名古屋市蓬左文庫蔵書、旧蓬左文庫所蔵・尾張徳川家蔵書)、『濃陽志略』(別名・濃州志略、国立公文書館所蔵)にも信長命名とあり、長瀬寛二『岐阜志略』(1885年)が『安土創業録』の記述を引用して信長が初めて岐阜と命名したとしている。 同時代史料を確認してみても、「言継卿記」永禄11年11月10日条に「三州徳川左京大夫所へ沢路隼人佑差下、予岐阜へ下向之次也」。また、ルイス・フロイスの日本耶蘇会年報にも、永禄12年5月、「我等は岐阜の町に著きたり、人口約一万なるべし」。という記述があり、信長命名以前に、岐阜という地名が確認できないことが分かる。 他にも、『細川両家記』や『多聞院日記』での岐阜の初見は永禄11年である。 一方、井口の地名の方は、永禄三年七月廿一日六角承禎の書状に、濃州井口。『歴代古案』、織田信長の書状に、(永錄七年)仍先月濃州相働、井口近所取出。このことから、信長公記にある1568年(永禄11年)に、信長が井口を岐阜と改めた以前に、岐阜であった事実は確認できない。 岐阜は信長命名以前にすでに使用されていたという異論もある。『岐阜市案内』(岐阜市教育会編、1915年)では、「一説には、古来、岐府、岐陽、岐山、岐下と書き、明応永正のころより旧記に岐阜と見えたれば、信長の命名にあらず」と記載。 『美濃国諸旧記』(寛永正保の作か?作者が不明である)には、稲葉山城があった稲葉山を岐山、里を岐阜と呼び、信長が岐阜・中節・井ノ口・今泉・桑田を合併して、岐府と称したとし、岐阜は古来の字で、信長は岐府と府の字を使ったと主張されている。 ただし、忠節・今泉は近世地名(江戸時代の地名)であり、岐阜を岐府と別称した文書はない。 また、仁岫録、東陽英朝の語録;少林無孔笛、明応8年孟夏日・土岐成頼画像;東陽英朝賛にいずれも岐阜鐘秀。万里集九の梅花無尽蔵に、岐陽という語句が頻出、岐下風流、雖退去于岐阜陽、とあるが、同書物中では岐陽とは何かについての具体的な説明はなく、梅花無尽蔵注釈;市木武雄において、岐蘇川(木曽川)の陽(北)に位置し、鵜沼・岐阜一帯を指すとするが、同書物中には、木曽川となっており、木曽陽あるいは木陽でないとおかしいし、岐蘇川としても岐蘇陽という表現がないのもおかしいという疑問もある。 ※木曽川(岐蘇川)由来説の最大の問題点は、承和2年の太政官符に、「尾張・美濃両国堺墨俣河」という記述があり、古来は墨俣川と呼ばれていることである。 当然、川の名前由来で、岐阜岐陽は、成り立たない。1586年(天正14年)6月24日に、織田家領内の木曽川の大洪水が起こり、古来の河道が大変化をした。ほぼ現状の河川地形となったのである。 また、信長は、井口を岐阜と改めたとしているのに、万里集九の『梅花無尽蔵』には、「濃之井口有祥雲院」という記述があり、井口を岐陽としていない。 さらに、「濃之革県、濃革手」という記述もあり、革手府を岐阜(岐陽)と呼んでいない。井口から相当離れた鵜沼(各務原市東端)を井口と一帯として岐陽と呼ぶのも無理がある。同書物中には、河陽=駿河国とする記述もあり、となると、岐陽=美濃国=濃陽という広範囲すぎる呼称となり、やはり、信長が井口を岐阜と改めたという事実と矛盾する。 なお、万里集九以前に、五山の学僧に岐陽方秀がおり、道号は初め岐山、のち岐陽と改めた、讃岐国出身であることから、岐山=岐陽=讃岐国を意味するか。岐阜県教育会編『濃飛両国通史』(1923年)、花見朔巳『安土桃山時代史』(1939年)にも、岐阜命名は信長以前説を唱えている。 阿部栄之助の『濃飛両国通史』を見ると、永禄4年に崇福寺の快川国師(紹喜)が斎藤義龍を「岐陽賢太守」と呼んだとするが、出典不明であり、永禄沙汰には「永祿3年12月24日美濃齋藤義龍、同国の禅家をして、伝燈寺に帰附せしむ、尋で、同国崇福寺紹喜(快川)等、之を憤り、国外に出奔す」という記述があり、永禄4年の段階で、美濃国外退去になりすでに崇福寺の住職ではなく、憤慨した相手の斎藤義龍を賢太守と褒めたとは疑問である。 『御湯殿上日記』には、天正9年9月6日正親町天皇が、前妙心寺住持快川(紹喜)に大通智勝国師の号を賜ふ、という記述があり、永禄4年の段階で国師であったはずがないなど、明らかにおかしな記述である。 地理・地域県域のほとんどは旧美濃国と旧飛騨国とで構成される。近年には長野県から旧神坂村・旧山口村を越境編入して県域が変更された。国の境目だった一部村落の分離などの境界変更で一部に旧越前国、旧信濃国、旧尾張国、旧伊勢国だった地域も含まれている。 広袤国土地理院によると2021年(令和3年)1月18日現在の岐阜県の広袤(こうぼう)は以下の通り[3]。
地形北部の飛騨地方の大部分は、標高3,000m級の飛騨山脈をはじめとする山岳地帯で、平地は高山盆地などわずかしかない。 一方、南部の美濃地方は、愛知県の伊勢湾沿岸から続く濃尾平野が広がり、低地面積が広い。特に南西部の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)合流域とその支流域には、水郷地帯が広がり、海抜0m以下の場所もある。この地域には水害から身を守るための輪中と呼ばれる堤防で囲まれた構造あるいはその集落があり、このような岐阜県の地形の特徴を表して、飛山濃水という言葉で表される。 各県との県境はほとんどが山地山脈である。ただし、愛知県の尾張地方との県境の大部分および三重県との県境の一部は、木曽川、長良川、揖斐川などの河川となっている。 山地
高原
河川
平地
その他の地形
自然公園
気候飛騨地方の大部分と美濃地方の一部は日本海側気候、美濃地方の大部分は太平洋側気候、飛騨地方・美濃地方の各一部は中央高地式気候となっており、標高差も大きいため同じ県内であっても気候差が大きい。県内全域で内陸性気候をあわせ持ち、一部地域は豪雪地帯・特別豪雪地帯でたびたび大雪に見舞われる。標高の高い地帯の西側に当たる為に雨雲が発達しやすく、年平均降水量は1700mm~2500mm程度と比較的多い。 冬は乾燥した晴天の日が多く、岐阜県西部では、伊吹おろしという乾燥した冷たい風が吹く。このため体感温度が北日本並みに一気に低下する日もある。強い冬型の気圧配置になると雪雲が流入し、岐阜県西部で局地的な大雪に見舞われることがある。 美濃地方は低い山に囲まれているということもあって、夏は暑く冬は寒いうえ、気温の日較差も大きい。特に東濃の多治見市では、その年の国内最高気温を記録することもある(2007年(平成19年)8月16日、埼玉県熊谷市と並び国内の過去最高気温となる40.9°Cを記録した)。夏期には内陸性の気候に加え、ヒートアイランド現象、さらに西風が吹いた際には、近畿地方の熱風が伊吹山系にぶつかりフェーン現象を起こす。こうして高温を記録することが多い。 飛騨地方は標高も高いこともあり、気温は美濃地方と比べると低いが、高山盆地では夏期に猛暑日を記録することもある。2018年(平成30年)8月6日午後2時2分には、下呂市でも南部に位置する金山地域(旧・益田郡金山町)のアメダス金山観測所において、高知県四万十市と並ぶ日本国内における最高気温歴代2位タイとなる気温41.0℃を観測した[4]。ただし、湿度が低いため比較的すごしやすい。冬期は内陸山間部では気温が低く、特に高山市荘川町六厩(むまや)は、亜寒帯湿潤気候で本州では寒い地域の1つとも言われており、1981年(昭和56年)2月28日には-25.4度を記録するなど-20°C以下まで下がる日も多い。
行政区画
美濃地方
飛騨地方
旧国名主な旧国名は、「飛騨国」「美濃国」。わずかに「越前国」「信濃国」「伊勢国」「尾張国」の区域も含む。
地方区分分類人口愛知県境にほど近い、県中南〜西南部の濃尾平野地域が岐阜県の可住地の大部分であり、県人口全体の半分を占める上位6市(岐阜市、大垣市、各務原市、多治見市、可児市、関市)は全て同エリアに集中する。一方で飛騨地方と県南東部(旧恵那郡・旧土岐郡)は小規模盆地が点在する地形となっており、人口10万人以上の都市が存在しない。
外国人
県南部を中心に、日系ブラジル人やフィリピン人などの外国人が数多く暮らしている。近年では在日中国人も増えている。特に美濃加茂市では人口の1割は外国人で、工場などで労働者として働いているケースが多い。1990年(平成2年)の入国管理法改正以降、急速に増えていった。彼らの最大の問題は子どもの教育で、日本語が理解できないなどのために不就学になる場合もある。ブラジル学校は県内に数校あるが、大半が無認可である。2008年(平成20年)の世界的経済危機を受けブラジル人が母国へ帰国するケースが少なからずあり、岐阜県は彼らの帰国旅行費用について支援している。
近年は中国人に対する日本入国の条件の緩和などにより、主に高山市や白川村など飛騨地方を中心とする県内の観光地では外国人観光客が大幅に増えている傾向がある。 人口重心5年ごとに実施される国勢調査の結果、日本の人口重心が決められるが、岐阜県内を東(東京方面)に移動中。
都市
隣接都道府県歴史先史時代本県でも約3万年前に始まる後期旧石器時代には、濃尾平野北辺部の段丘上や台地(日野遺跡・寺田遺跡・椿洞遺跡)に人々が活動していた遺跡が確認されている。他にも山中の狭い細尾根にある遺跡(揖斐川町藤橋村徳山寺屋敷遺跡)や低湿地の遺跡(飛騨市宮川村宮ノ前遺跡)が確認されている。 それらの遺跡から石を割ってで切る剥片でつくった石器、例えばナイフ形石器・削器・細石刃・尖頭器など、また調理に使ったと考えられる礫郡、加工痕のある木片などの生活用具が確認されている[5]。 古代4世紀の前期には、美濃西部が大和政権の勢力下に入り、4世紀後期には飛騨地方にまで支配が及んだ。開化朝に三野前国造が不破郡に設置され、次いで成務朝には三野後国造が各務郡に、額田国造が大野郡に、牟義都国造が武儀郡に、斐陀国造が大野郡に設置された。 その他本巣国造の記載も見られる(『先代旧事本紀』、『古事記』)。 律令制以降は上記の国造国が合併され、令制国の美濃国(18郡・131郷)と飛騨国(3郡・13郷)の二国になった(和名類聚抄)。美濃は「御野」(大宝2年:702の正倉院文書)、飛騨は「裴陀」(養老令)と書かれた。ヒダの国名の表記法が「飛騨」に定着したのは8世紀の前半である。 美濃と飛騨国は、東山道に属し、畿内からの本線は近江・美濃を通り、信濃上野へと向かうから美濃から飛騨へは東山道の支線であった[6]。 この東山道は古くから利用された。ヤマトタケルの征服伝説にも登場する(『古事記』)。 美濃国は、日本のほぼ中心として、東国と畿内を結ぶ重要な軍事拠点であったので、日本の歴史上で重要な合戦が多く起こっている地域である[7]。古くは大海人皇子がこの国を拠点に挙兵した壬申の乱(672年)があり、関ケ原町の藤古川付近で激戦が行われた。 8世紀には、国府が垂井町府中に置かれた。国分寺は大垣市青野町に国分尼寺は垂井町平尾に其々建てられた。一宮は南宮大社(現:垂井町宮代)となった。 中世中世に入ると、美濃国は土岐氏が、飛騨国は京極氏が守護を務める。戦国時代になると、美濃国は斎藤道三や織田信長の活躍の舞台となる。飛騨国は姉小路氏が支配し、その後羽柴秀吉に従った金森氏が支配した。 徳川家康と石田三成による関ヶ原の戦い(1600年)が関ケ原町、垂井町、大垣市の西濃地域で天下分け目の合戦が行われた。 近世江戸時代に入ると、先の関ヶ原の戦いによる論功行賞などにより藩の改易・転封などを含めながらも、美濃国は依然として戦略的に重要な地であり石高も多いことから幕府によりいくつかの小藩に分割された。幕府領としては笠松陣屋の美濃郡代が支配した。 美濃国内藩としては、最大でも大垣藩の10万石の他、苗木藩、岩村藩、郡上藩、高富藩、加納藩、大垣新田藩や尾張藩附家老の竹腰氏の今尾藩、尾張藩分家の高須藩が成立する。美濃国外藩としては尾張藩の12万石のほか、磐城平藩、備中岡田藩が領地を有した。 また、旗本知行地としては明知遠山氏や交代寄合の竹中氏陣屋など複数あった。飛騨国は当初飛騨高山藩があったが、元禄期に山林資源や鉱山資源に目をつけた幕府が藩主の金森氏を上山藩に転封し、その後は幕府領として高山陣屋の飛騨郡代が支配した。 また、律令時代から整備された東山道を元として、戦国時代に各地の戦国大名によって整備された道を繋ぎ、中山道が整備された。 近・現代
当初の県庁は笠松陣屋。(この時点では美濃国のみ) 県令は長谷部佳恕連(元福井藩)、権参事は小崎利準(元亀山藩)。その後県庁舎が手狭になり、今泉村(岐阜市)八寺地内に新庁舎を建設。1874年(明治7年)6月21日に移転。
政治行政県知事
→「岐阜県知事一覧」も参照
財政
県有施設
議会県議会→「岐阜県議会」も参照
衆議院
参議院県全域で岐阜県選挙区を構成する。定員2、改選数1。
経済第一次産業農業林業県の多くが山岳地のために林業が盛ん。ヒノキの産出量では国内有数の量で、県内には木材を扱う業者が多い。また、切り出した木を使用した木工品などの工芸品の生産に力を注いでいる。 酒造長良川などの清流が県内を流れているため、県を挙げて日本酒・焼酎の生産の振興に乗り出している。 第二次産業工業
繊維工業
岐阜市では戦後、軍服や古着を売る繊維問屋街ができ、さらに布を仕入れて服を作って売るアパレル産業が盛んになり、全国的な産地となった。2000年代中ごろ以降は東京や名古屋に押されて問屋街は苦戦しており、ファッションの産地としての生き残りを図るには岐阜の個性ある特徴を打ち出すのが課題となっている。岐阜市には一般社団法人岐阜ファッション産業連合会などのファッション産地団体組織があり、定期的にファッションイベントを開催している。 IT産業ハイテクパークである大垣市ソフトピアジャパン、各務原市VRテクノジャパン(テクノプラザ)を設立し、ベンチャー企業の育成を図るなど、IT産業の育成に力を注いでいる。 第三次産業商業恵那市で創業し、多治見市に本部があるバローホールディングスの子会社であるスーパーマーケットバローが県内に71店舗ある(全国では310店舗)。また、バローホールディングスの子会社である中部薬品が運営するV・drugが県内に156店舗存在する(全国では469店舗)。他にスポーツクラブ188店舗(全国)、ホームセンター156店舗(全国)、ペットショップ111店舗(全国)などを運営する(2021年時点)。バローグループは連結売上7,000億円を超える岐阜県を代表する流通企業である。 2010年代後半にはドラッグストアが多く出店し、激戦区となった。V・drugに加え、ゲンキー、クスリのアオキなど県外資本のドラッグストアも出店し、2018年末には店舗数が408店となった。人口10万人あたりの店舗数は約20店(2018年末)で全国最多である[12]。 金融機関本店を置く金融機関
生活・交通交通鉄道県内最大のターミナル駅は岐阜駅であり、一日平均乗降人員は4万人を上回る。当駅の所属線である東海道本線と、当駅を起点とする高山本線が乗り入れ、分岐駅となっている。 新幹線は、東海道新幹線が岐阜県の南部を通り岐阜羽島駅が県内唯一の停車駅である。2023年現在はほぼ全時間帯で「ひかり」と「こだま」が毎時1本ずつ停車し、新大阪まで約50分、東京まで約2時間20分で結ぶ。
鉄道事業廃止及び廃業鉄道会社
バス
道路
空港定期便が飛ぶ空港は県内に存在しない。近隣の空港は名古屋飛行場と中部国際空港(いずれも愛知県)、富山空港(富山県)がある。 自動車登録番号標
警察発電所医療・福祉→詳細は「Category:岐阜県の医療機関」を参照
教育教育機関公立 私立
学校登山
マスメディア新聞岐阜県には地元紙の岐阜新聞が存在するが、シェアは愛知県名古屋市に本社を置く中日新聞が圧倒的に強い。2019年においては、県内における中日新聞の発行部数は360,852部で全体の55.93%を占めるが、岐阜新聞の発行部数は159,511部で全体の24.72%である。[22] テレビジョン放送名古屋市に本社を置く民放各局(県域局のテレビ愛知を除く)およびNHK名古屋Eテレ(教育テレビ)が本県に中継局を設けている。 美濃地方西部の大半や東濃地方の一部(可児市や土岐市以南)では愛知県の県域放送(NHK名古屋総合テレビ[23]、FM放送[要出典]とテレビ愛知[23]、FM AICHI[24]、ZIP-FM[25])や三重県の県域放送(三重テレビ[26]、FM三重[27])が受信可能エリアになる。 地上波
ケーブルテレビ→詳細は「Category:岐阜県のケーブルテレビ局」を参照
観光→詳細は「岐阜県の観光地」を参照
世界遺産日本遺産
有形文化財建造物→詳細は「岐阜県指定文化財一覧」を参照
国宝重要伝統的建造物群保存地区名所・旧跡→詳細は「中部地方の史跡一覧 § 岐阜県」を参照
その他市町村別
中山道関連
文化・名物祭事・催事
方言食文化→「Category:岐阜県の食文化」も参照
→詳細は「日本の郷土料理一覧 § 岐阜県」を参照
名産・特産名物
伝統工芸
→詳細は「日本の伝統工芸品の一覧 § 岐阜県」を参照
民謡
お婆々どこへ行きゃるナーナーナー お婆々どこへ行きゃるナ 三升樽さげてソーラバエ ヒュルヒュルヒュードンドン 嫁の在所へナーナーナー 嫁の在所へナ ささ孫抱きにソーラバエ ヒュルヒュルヒュードンドン
郡上の八幡 出ていく時は 雨も降らぬに 袖しぼる 天のお月様 ツン丸こて丸て 丸て角のて そいよかろ 郡上の殿様 自慢なものは 金の弩標(どひょう)に 七家老 金が出る出る 畑佐の山で 銀と鉛と 赤がねと 向(むかい)小駄良の 牛の子を見やれ 親が黒けりゃ 子も黒い 唄も続くが 踊りも続く 月の明るい 夜も続く 泣いて分かれて 松原行けば 松の露やら 涙やら 忘れまいぞえ 愛宕の桜 縁を結んだ 花じゃもの 雪の降る夜は 来ないでおくれ かくし切れない 下駄の跡 スポーツ→「Category:岐阜県のスポーツチーム」も参照
プロ野球に関しては、岐阜県は愛知県に隣接していることから、愛知県に本拠地を置く中日ドラゴンズのファンが多いとされる[31]。 サッカー
バスケットボール
バレーボールハンドボール
対外関係姉妹自治体・提携自治体海外
国内
岐阜県を舞台とした作品→詳細は「岐阜県を舞台とした作品一覧」を参照
CM出身関連著名人→詳細は「岐阜県出身の人物一覧」を参照
岐阜県名誉県民岐阜県名誉県民の称号は、1958年(昭和33年)11月29日に制定された岐阜県名誉県民条例(昭和33年11月29日岐阜県条例第32号)に基づき、「社会文化の興隆に功績があつた者」へ贈られる(条例第1条)[34]。対象者は「公共の福祉の増進又は学術、技芸の発展に寄与し、もつて県民の生活及び文化に貢献し、その功績が卓絶で県民の尊敬を受ける者」、「岐阜県に十年以上居住し、若しくは居住していた者で、広く社会文化の興隆に貢献し、その功績が卓絶で県民が郷土の誇りとしてひとしく尊敬する者」であることが定められているが(条例第2条)、後者の居住期間については特に必要があると認められるときには短縮することが可能である[34]。名誉県民号の贈呈については、岐阜県知事が岐阜県議会の同意を得て選定することが定められている(条例第3条)[34]。名誉県民に選定された者には、表彰状と名誉県民き章が贈呈される(条例第4条)[34]。
脚注注釈出典
参考文献
関連項目→「Category:岐阜県」も参照
外部リンク
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