|
この項目では、岐阜県にあった村について説明しています。奈良県にあった村については「野原町」をご覧ください。 |
野原村(のはらむら)は、かつて岐阜県恵那郡に存在した村である。
明治22年(1889年)10月1日の市制・町村制施行時に発足したが、僅か7か月後の明治23年(1890年)5月1日に、隣接する恵那郡浅谷村(現在の豊田市浅谷町と須渕町)・恵那郡横通村(現在の恵那市明智町横通)と合併して恵那郡三濃村が誕生したことに伴い消滅した。
現在は、愛知県豊田市の一部となっている。
大字・字
- 大字:無し
- 字:赤羽根、山口、阿瀬尾、南洞、田久谷、石畑、名柳、寺坂、藪筬、一色、新田、白坂、川西、井戸洞、城ケ洞、押場、倉久谷、上使、湯船、多幸、上切、岡田、札辻、曾良、大平峯、大平岩、小平岩、梅之郷、水洗、長洞、槇本、樫本、水別、上中、菅の澤、槇の洞、綱所、仲田、上谷久保、羽根、西羽根、猪久保、生田、大羽根、秀澤、玉ケ根、大渚、南平、日影、上貝津、六地蔵、花の木、一本松、木多橋、久々里木、下貝戸、金山、眞坂、丸根、大比良、山野田和、眞名平、中根、大入、宮の前、樋の入、猪の道、栃本、森の入、稲場、宮の洞、捕手、小阿妻、孫女、大砂、尺地、殿畑、野田久保、森下、川端、下切、平田、石原、ちくわご、間瀬口、島崎、小柳、川原、下中
歴史
概要
矢作川右岸に位置し、現在の愛知県豊田市上切町・上中町・下中町・下切町・島崎町・一色町・三分山町に相当する村域を持つ。ただし往時には美濃国恵那郡に属していた。
江戸時代には野原村と一色村があり、1603年(慶長8年)には共に旗本明知遠山氏の知行地となっている[1]。野原村には上切(かみぎり)・上中切(かみなかぎり)・下中切(しもなかぎり)・下切(しもぎり)とそれぞれ呼ばれる集落があったが、「切」とは集落のことを指し[2]、江戸時代の4切にはそれぞれ庄屋をはじめ村方三役が置かれ、切ごとに年貢の上納が行われるなどしており、1切が1村として組織機能を有していたという[3]。1875年(明治8年)には野原村と一色村が合併し[4]、1889年(明治22年)には自然村から行政村としての野原村に移行することとなる[5]。
- 上切(かみぎり)- 現豊田市上切町に相当する。
- 上中切(かみなかぎり)- 現豊田市上中町に相当する。
- 下中切(しもなかぎり)- 現豊田市下中町に相当する。
- 下切(しもぎり)- 現豊田市下切町・島崎町に相当する。
- 一色(いっしき)- 現豊田市一色町に相当する。
脚注
出典
- ^ 『旭町誌 通史編』:85ページ
- ^ 『旭町誌 通史編』:83ページ
- ^ 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』:1050ページ
- ^ 『旭町誌 通史編』:207ページ
- ^ 『岐阜県町村合併史』『恵那郡史』などでは、1889年(明治22年)7月1日に浅谷村、横通村と合併し、三濃村が発足となっており、行政村として移行はされていない。
参考文献
- 旭町誌編集研究会 『旭町誌 通史編』、旭町役場、1981年。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』、角川書店、1989年。