布袋寅泰
布袋 寅泰(ほてい ともやす、1962年2月1日 - )は、日本のロックミュージシャン、ギタリスト[5]。BOØWY、COMPLEXの元メンバー。妻は歌手の今井美樹。元妻は歌手の山下久美子。1児の父。 群馬県高崎市江木町出身[6]。ロンドン在住[7]。BOØWY時代のビーイング、Ø-con' nection[注 1]、ユイ音楽工房、BOØWY解散後のIRc2 CORPORATION[8]を経て、渡英後はDADA MUSICに所属[注 2]。身長187cm。 概要1980年末に氷室京介、松井恒松らと共に"暴威"(後に"BOØWY"と改名)を結成。1982年3月にリリースしたアルバム『MORAL』にてBOØWYのギタリストとしてデビューする。BOØWY解散後、1988年10月にソロ1stアルバム『GUITARHYTHM』をリリースし、ソロ活動を開始。 翌1989年には吉川晃司とのユニット"COMPLEX"でデビューし、翌1990年秋まで活動するCOMPLEXの活動休止後は一貫してソロ活動に専念する。 1994年、東大寺にて行われたUNESCO主催の『GME '94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI』に日本を代表するアーティストの一人として出演。マイケル・ケイメン、ジョニ・ミッチェル、INXS、ロジャー・テイラー、ライ・クーダー、レイ・クーパー、レナード衛藤らと共演した。1996年には、マイケル・ケイメンからのオファーでアトランタオリンピックの閉会式に出演。 また、「HOTEI」名義でイギリス、ドイツなど欧州やカナダでアルバムをリリースしている。イギリスのロックバンド、ジーザス・ジョーンズと親交があり、1994年にはジョイントツアーも行った。 2003年、クエンティン・タランティーノからのオファーにより、「新・仁義なき戦いのテーマ」が「BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY」として映画『キル・ビル』のメインテーマに採用される。 2007年、『HOTEI presents "SUPER SOUL SESSIONS" BRIAN SETZER vs HOTEI vs CHAR』と冠したライブにおいて、Charとブライアン・セッツァーとの競演を果たす。 長らくソロ・ミュージシャンとして活動していたが、2011年4月28日に公式サイト上にて、東日本大震災の復興支援ライブとして21年ぶりに東京ドームにてCOMPLEXの一夜限りの復活を発表。当初は7月30日のみの予定だったが、5月末には7月31日の追加公演も発表された。『日本一心』と銘打ったこのライブの動員数は2日間で10万人以上、収益は6億5431万8473円に上った。収益金は震災の復興、復旧に全額寄付された。 同じく2011年には、映画『ミッション:インポッシブル』シリーズのメインテーマを布袋がアレンジするという形で、12月に公開された同シリーズの第4作『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』の日本国内向け宣伝用楽曲を手掛けている[9][10][11]。 2012年夏、長らく住み慣れた日本を離れロンドンへと移住。音楽面をはじめ自身に多大な影響を及ぼした同地にて新たな夢を叶える旨を表明した[12]。 2015年4月、イギリス現地のレーベル『スパインファーム・レコード』と契約。同年10月にはアルバム『STRANGERS』をイギリス、欧州、日本にて同時リリースした。 2021年8月、東京2020パラリンピック開会式の「片翼の小さな飛行機の物語」の演出にて、パフォーマンスを披露した。披露後、自身のギター(G柄ギター)を国際パラリンピック委員会に寄付した。 2024年5月15日・16日、能登半島地震を受け吉川晃司と共に再びCOMPLEXとしてチャリティーライブ『日本一心』を東京ドームで開催すると公式サイト[13]とインスタグラム[14]で発表した。その後二日間に渡るライブを無事完走。 自身の音楽活動の一方、音楽プロデューサーとして山下久美子、今井美樹、相川七瀬、藤井フミヤ、JILL、TOKIOなど他アーティストへの楽曲提供や、『SF サムライ・フィクション』『新・仁義なき戦い』や『KT』などの映画音楽も手掛ける。また『サムライ・フィクション』や『新・仁義なき戦い』、日清カップヌードルや永瀬正敏との「BOSS」のCMにも出演した。 モットーは「最新のHOTEIが最高のHOTEI」。 来歴生い立ち自身の著書『秘密』によると、父親は韓国人。貿易商であり1年の大半を国外で過ごしていたため、日本に戻ることはほとんどなく母子家庭同然の環境だった[15][16][6][17]。厳格かつ伊達な人物で、父からは「寅泰くん」と呼ばれており、彼が帰宅した日の夕食は家族全員が正装して食卓につき、テーブルマナーにも厳しかったという。苦手な人物であった一方、現在の自身の趣味趣向から「悔しいかな父から受けた影響は絶大だった」とも述べている[16][6]。映画『新・仁義なき戦い』に、昌龍の役で出演を決めた理由について、「彼の生い立ちと同じく、僕も父親が韓国人で、アウトサイダーとして生きざるを得なかった」と語っている。 母親は北海道余市町生まれの樺太(サハリン)育ち、日本とロシアのハーフで日本国籍である[16][6]。かつて高崎駅前にてクラブを経営していた[6]。父親とは対照的に庶民的かつ天真爛漫な人物で布袋を「トモちゃん」と呼び、父が不在の時は布袋と妹をラーメン屋へと連れ出す気さくさがあった[16][6][18]。一方で職業柄、身だしなみには拘りが強く、布袋の授業参観には毎回メイクも髪も念入りにセットし高価な和服を着てやって来るという一面も持っていた。毎回布袋が普通の服装で来るよう頼んでも、それが叶うことはなかったという[6]。BOØWY時代初期は布袋の音楽活動に対し否定的だったが、1986年7月2日にBOØWY初の日本武道館ワンマンライブに招いた際には終演後「あなたならやると信じていたわ」と言い放ったというエピソードがある[19][20]。 生家にはふたつの表札が掲げられていた。布袋は自伝にて、父が韓国人であったため、当時の時代背景もあり両親は厳密には入籍していなかったのではないかと推測する旨を記している[6]。 妹はかつてガラパゴスのヴォーカルとして活動していた狩野環。ガラパゴスはメジャーデビューの際、布袋の個人事務所であるIRc2に所属、布袋のツアー『GUITARHYTHM ACTIVE FLY INTO YOUR DREAM』でオープニング・アクトを務めたり、布袋が同バンドの楽曲『月の流す涙』をラジオ内でカヴァーしたりと、音楽上でも交流があった[注 3]。1994年のガラパゴス解散後は、新たに"Super EGO"を結成。後に同バンドのドラマーと結婚した。BOØWY時代初期にツアーで京都市に行った際、たまたま修学旅行に来ていた環と鉢合わせしてしまい、布袋はバツの悪い想いをしたというエピソードも存在する[21]。また布袋がBOØWYでブレイクした影響により、著名人の妹という目で周囲から見られるようになったストレスで高校をドロップアウトしている[6]。 姪はシンガーソングライターのタグチハナ[22][23]。狩野環の長女であり、2015年にメジャーデビューしている。なお布袋は「ハナ」という名前を盟友であるジーザス・ジョーンズのマイク・エドワーズの女児にセカンドネームとして贈った。 義弟はかつて自身がプロデュースしたJET SETSの田口亮。狩野環の再婚相手であり、タグチハナの継父に当たる。 生家は、北欧風の佇まいで通いの家政婦がおり、当時まだ珍しかったエアコンが設置され、自家用車も所有していた他、リビングにはドイツ製のアップライトピアノや高級ステレオが鎮座し、自身や妹にも幼少期から個室が与えられ、インターホンの内線で通話するといった裕福な家庭に育つ[6]。 幼少時代にピアノを始める。母親がハリウッド映画のサウンドトラックやアルゼンチン・タンゴを好んで聴いており、彼女からのリクエストでこれらの楽曲を弾くことも多かったという[6]。父親も音楽好きであり、交響曲を中心としたクラシック音楽を好んでいた[6]。ピアノと並行し、小学校5年時にはトランペットの鼓隊にも入隊していた[24][信頼性要検証]。小学校高学年期にはエレクトーンも習っており、発表会で舞台を踏んだ群馬音楽センターは後年BOØWYやソロのライブでも使用している。小学校時代は児童会長を務め[19][注 4]、海外への留学話が挙がったこともあったという[20]。 服装にも幼少期から拘りを持っており、カブスカウトの制服に憧れたり、小学6年生になると長髪にして刺繡入りのベルボトムのジーンズを履くような少年だった[15][6]。当時の群馬県では中学生になると頭髪を坊主刈りにしなければならず[6]、詰襟と坊主頭に抵抗があったことから、これらを避けるべく私服登校が可能な中高一貫制の私立校である新島学園中学校へ進学している[15][6]。 ギターとの出会い中学時代はギターを始めるまで何にも興味が持てず、「まず勉強でドロップアウト。スポーツではバスケットボール部やサッカー部、テニス部にも入部したが練習に打ち込むための闘争心が湧かず退部。かといって不良グループは煙草を吸って、バイクに乗って、パチンコして、他校の生徒と喧嘩して、何が面白いのか全く理解できなかった」という冷めた日々を過ごしていた[6]。 14歳の時、釜石市に住む従姉の家で洋楽に触れ[15]、また同時期マーク・ボランのポスターを見て感銘を受け、ギターを始める[6][16][25][注 5]。初めて買ったギターはストラトキャスタータイプで、この時の資金は母親の財布からくすねた1万円だった[15][25][16][6]。また初めて買ったレコードはエマーソン・レイク・アンド・パーマーの『恐怖の頭脳改革』とビートルズの赤盤[6]。 中学3年の3学期、群馬県スポーツセンターで開催されたエアロスミスの来日公演を鑑賞した際、同ライブを鑑賞していた新島学園の2年先輩である小林怪[注 6]から声を掛けられたことがきっかけで、彼のバンド"キティ"に加入する[15][25][6][26]。独特なセンスの持ち主であった小林からロキシー・ミュージックやスパークス、10cc、クラフトワーク、ブリジット・フォンテーヌなど自身のスタイルに影響を与えた音楽を多数教わった[6]。 後に独特のギタースタイル、ビジュアルを確立した大きな要因として、自身の他人と同じことが大嫌いという性格を挙げている。高校時代はクラスメートがレッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどに夢中になっているのをよそに、ロキシー・ミュージックやブリジット・フォンテーヌなど当時の王道とは一線を画す音楽を聴き込んでいたのもその性格の現れである。高校1年の頃はキャプテン・ビーフハートや平沢進を狂ったように聴いていたとも述べている[27]。また当時はオキシドールで髪をオレンジに染めたり、タイトで真っ赤なスーツやJUNやBIGIの服を着用したり、デヴィッド・ボウイの『アラジン・セイン』のジャケットを真似て眉毛を剃り落としたり、好きなレコードのアルバム・ジャケットをバインダー代わりに持ち歩くなど当時の高崎界隈では風変わりな風貌で登校していた[6]。 小林の卒業後は同級生たちと"ジギー・リギー"というバンドを結成[6]。10人編成のビッグバンドで、メンバーには後にBOØWYのメンバーとなる深沢和明や、現在は群馬テレビ取締役制作局局長の中川伸一郎も在籍していた[28]。同郷の後輩であるヤガミトールによると、当時の高崎界隈では氷室京介と松井恒松が組んでいた"デスペナルティ[注 7]"と"ジギー・リギー"が人気を二分しており、両者が対バンを行うと500人規模のホールが埋まるほどで、追っかけまで存在していたという[29]。 高校3年時に両親が離婚。この時、父に韓国にも家庭があることが発覚し、同時に母が父の借金の保証人になっていた影響で生家を引き払い、母と妹と共に四畳半のアパートへ引っ越すことを余儀なくされた。これを機に父とは絶縁状態となる[16][6]。 "ジギー・リギー"で活動していた高校3年時、"ウィークリー"というバンドのボーカル土屋浩と意気投合し、新たに"BLUE FILM"を結成した[6][注 8][注 9]。程なくして"BLUE FILM"のメンバーと前橋市内にて同居生活を始めている[6][20]。"BLUE FILM"では布袋がバンドスタイルの考案、土屋がレコード店への営業活動という役割を担っていた。やがて2人は新星堂高崎店の楽器売場のチーフと懇意になり、このチーフからのアドバイスで、デモテープを制作しては東京のレコード会社や音楽事務所へ送っていた。 高校3年の3学期に新島学園高校を中退[注 10]。中退の理由は学校側から髪型を指摘されたことが原因である。その際、教師に向けて「イエス様の方が僕より長い」と言い放ったとされる[15][25][16][19][6][注 11]。一方、新島学園にも「生徒の個性を尊重すべきだ」と布袋を擁護した人物がいた。その人物とは氷室京介や松井恒松、山田かまちの小学校時代の担任で、後にかまちの作品を世に送り出す竹内俊雄であった[注 12]。実際は他人から強制されたことに嫌悪感が湧いただけで、長髪にそれほど拘りがあったわけではなく、敢えて中退した翌日に髪をパンクヘアーに切り落とした[6][16]。2017年5月26日、長年のロックミュージシャンとしての貢献が表彰され、新島学園から名誉卒業を迎えた。 高校中退と同時期、"BLUE FILM"で「EAST WEST '79」関東甲信越大会に出場した[注 13]。"FLY AWAY"名義でもA'ROCK本選会とROCK INNに出場し全国大会まで進出し、前者でアイディア賞を受賞する[31]。コンテスト後、17歳の終わりに土屋と共に上京する[6]。 上京後 〜 BOØWY結成上京後は前橋時代に世話になった先輩を頼って池袋に下宿するも、程なくして土屋との音楽性の違いからバンドは空中分解する。手持ちの資金も尽き、有楽町のコーヒー店でアルバイトを始めるが、バイト疲れからギターに触れもしない日々が続く。上京から約1年後、高校時代から交際していた同級生の女性が上京し、阿佐ヶ谷にて同棲生活を始める。同棲を始めてしばらくした後、客のカスタマーハラスメントにより起きたトラブルでコーヒー店をクビとなる。程なくして新宿の十二荘通りにあるマンションを経た後、前述の小林怪の紹介で福生市の米軍ハウスに移り住む[注 14]。ギターを大音量でかき鳴らせるという住宅環境の中で、後述のようにクラフトワークの楽曲をバックにギターフレーズを考案するなど自身の音楽スタイルを模索する日々を送る。コーヒー店をクビになった後は定職に就けず、この女性に半ば養ってもらうという生活だった[32][16][6]。 米軍ハウスに在住していた1980年7月、同郷のライバルであった氷室京介から突如連絡があり、六本木のアマンド前にて再会する[注 15]。この時布袋は、氷室の風貌が群馬時代の硬派な印象からうっすらメイクを施したニュー・ウェイブ風の外見へ変化していたことに驚いたという。ミスタードーナツで数時間話した結果[32]、両者の音楽的嗜好が近いことなどから意気投合し、2人でバンドを結成する[15][25][16][19][6]。 後日、氷室は当時の所属事務所「ビーイング」に布袋を連れて赴き、自身が所属していた"スピニッヂ・パワー"からの脱退、そして布袋と新たなバンドを結成する意志を社長の長戸大幸に伝える。長戸はバンド結成を許可し、メンバーは自分たちで選定すること、楽曲が出来たら提出することを要求した。この直後から氷室と布袋で楽曲を制作し、並行してオーディションでメンバーを探す日々を送った。BOØWYの代表曲である「IMAGE DOWN」や「NO. NEW YORK」はこの時期に制作されたものである[15][35][6]。 同年秋、かつて氷室と"デスペナルティー"で活動していた松井恒松がバンドに加入した[注 16]。後に同じく元デスペナルティーの諸星アツシ、布袋と"ジギー・リギー"で活動していた深沢和明[注 17]がバンドに加入。氷室とスピニッヂ・パワーで活動していた木村マモル[注 18]もサポートメンバーという形で合流し、年内に結成メンバーが揃う[6][35]。当初、パンクの影響であまり好んでギターソロを弾かなかった布袋のプレイスタイルに木村は違和感を覚えるも、氷室が「(ギターは)布袋でいいんだ」と返したという記録も残っている[15][25][35]。 BOØWY結成後 〜 解散まで→詳細は「BOØWY」を参照
1981年、所属事務所となったビーイングの提案でバンド名を"暴威"とされる[注 19]。同年5月11日、新宿LOFTにてデビューライブ『暴威 LOFT FIRST LIVE』を開催する。当日の観客は13名で、後のメンバーとなる高橋まこともいた。同ライブの後日、木村に代わり高橋が加入[35]。 バンドでは楽曲制作、編曲、サウンドプロデュース、バンドスタイルの考案に加え、ライブハウス時代は後述の通りライブの宣伝フライヤーの制作、他バンドの打ち上げ等でBOØWYを宣伝する広報係も担当した[6]。 翌1982年1月、メンバーからバンド名への不満が噴出した為、"BOØWY"に改名[35][6]。同年3月21日、ビクター音楽産業より、BOØWYのギタリストとして『MORAL』でメジャーデビュー。同年10月9日、諸星と深沢が脱退し、以降は解散まで氷室・布袋・松井・高橋の4人編成で活動する。同年12月から1984年7月にかけて、高橋と共に"AUTO-MOD"にも参加した[注 20]。また明確な時期は不明だが、BOØWY初期に"PETS"というバンドにも参加している。 経済面ではメジャーデビュー後もほぼ変わらず、引き続き前述の女性に頼りながら、福生の米軍ハウスを経て赤坂のアパートで生活する状況だった。しかし『INSTANT LOVE』の時期にこの女性と別れたため、高円寺へと引っ越し、池袋以来の一人暮らしとなる[6]。依然音楽だけで食べていける状況ではなく、母親からの仕送りに頼る他[19][20]、ナンパした女性に飲食代を全額支払わせたり[38][6]、居酒屋でチューハイを1杯だけ注文し別のテーブルの残り物を食べるという方法で空腹を凌いだり、夜中に酒屋の脇に積んである空きビンを失敬し翌日に何食わぬ顔でそれを換金して小銭を稼ぐなどしていた[6]。 同1983年にかつてのバンド仲間であった土屋浩をメンバーに紹介し、彼をBOØWYのマネージャーに引き入れ[注 21]、メンバーと土屋の5人体制でバンドの個人事務所"Ø-con' nection"を起ち上げる。連絡先は当時松井がマスターを務めていた阿佐ヶ谷のカフェ・バー"mint"だった[33][39]。同年秋、『INSTANT LOVE』のプロモーション用にサンプルのシングルとして制作された「FUNNY BOY」が新宿有線で3週連続1位を記録した他、この時期ごろからライブの動員も増え始め、自身にもスタジオミュージシャンとしての仕事が少しずつ入ってくるようになる。当時スタジオミュージシャンとして参加したものに、アニメ『ストップ!! ひばりくん!』のエンディングテーマ「コンガラ・コネクション」、『風の谷のナウシカ』の挿入曲「王蟲の暴走」[40][41]、サントリータコハイのCMソング提供などがある。 翌1984年にはライブ動員数の増加により、活動拠点を新宿LOFTから渋谷LIVE INNへと移し、ハイエースで全国のライブハウスを廻る活動も展開していく。やがてライブには音楽業界の関係者も姿を見せるようになる。当時訪れた業界人の中には、BOØWYの音楽性やメンバーの演奏スタイルに苦言を呈す者もおり、布袋も「ああいう打楽器みたいなギターはどうなんだ」と酷評されたことがあったという[21]。 1984年10月7日、BOØWYは事務所をユイ音楽工房へ、レコード会社も東芝EMIへと移籍する。同時に自身も再出発の意味を込めて原宿のアパートへと引っ越した[6]。 1985年6月から8月にかけて泉谷しげるのバックバンド"タワーズ"に参加。この年を機に外部参加も増え、中島みゆき、後の妻となる山下久美子、鈴木雅之、後年共にCOMPLEXを結成することになる吉川晃司等のレコーディングにも参加した。同年12月24日、BOØWYの渋谷公会堂でのライブにて山下久美子との結婚を発表。 1986年以降は、BOØWYでの活動の傍ら、山下のアルバムをプロデュース・楽曲提供し、ライブのサポートメンバーとしても参加した[42]。 1987年12月24日、渋谷公会堂のライブにて解散宣言し、翌1988年4月4日・5日の『“LAST GIGS”』にてBOØWYメンバーとしての活動を終了する。 GUITARHYTHM『“LAST GIGS”』直前の1988年3月29日、ユイ音楽工房にてBOØWYスタッフのトップを務めていた糟谷銑司と共に個人事務所"IRc2 CORPORATION"を設立[43][44][注 22]。事務所名は当時発見された新天体から命名した[38][6]。 『“LAST GIGS”』から半年後の1988年10月5日、『GUITARHYTHM』でソロデビュー。同作を引っさげた『GITARHYTHM LIVE』を国立代々木競技場第一体育館、大阪城ホールにて開催する。同ライブには松井恒松もサポートメンバーとして参加した。 COMPLEX→詳細は「COMPLEX (音楽ユニット)」を参照
1988年12月10日、BOØWY時代から公私に渡り親交のあった吉川晃司と共にCOMPLEXを結成することを発表。 翌1989年4月8日、シングル『BE MY BABY』でデビュー。活動期間中にリリースした作品はすべてオリコンチャートにて1位を獲得した[45]。 1990年11月8日に東京ドームで開催された『ROMANTIC EXTRA』にてCOMPLEXでの活動を無期限停止。実質上の解散となる。解散の理由については、「ビジネス面は一切眼中になく、本能のままに生音の楽曲を制作しシンガーソングライターとして急成長する吉川」と、「楽曲の細部にまでわたるこだわりだけでなく、活動コンセプト、作品毎の世界観、ファッション・メイク、ライブでのアレンジや演出、プロモーション等のビジネス面に至るまでを視野に入れ、音楽活動をプレイヤー視点とプロデューサー視点の双方からトータルで捉える布袋」との間に次第に溝が生まれ、最後は飲み屋での殴り合いにまで発展した[46]。活動休止公表後のインタビューでは、吉川・布袋ともにCOMPLEX結成当初から確執が生じていたことを認めている[47]。当時、世界の音楽シーンで隆盛していたコンピュータを多分に導入した隙のないサウンド作りを志していた布袋と、COMPLEXのツアーで一流ミュージシャンによる生演奏の中で唄うことの楽しさを知った吉川との間に音楽性の根本的な違いが生じたことも休止の要因と言われている[48]。 活動休止公表後のインタビューにて布袋は「COMPLEXをやった2年間はアーティストとしてはあまり前進してなかったと思う。だからすごい後悔してる部分もあるよね[47]」「商業的な成功以外、何も得るものがなかった[46]」と述べている。同時にこの時点ですでに次作の草案が浮かんでいる旨やその内容を語っており[47]、解散ライブ『ROMANTIC EXTRA』の翌日にはソロ復帰作『GUITARHYTHM II』の制作に向けて早々にロンドンへと渡英している[49]。当時の布袋の日記を掲載した著書『よい夢を、おやすみ。』には、渡英後にロンドンのオフィスで『ROMANTIC EXTRA』のビデオを観たものの「そこに映る自分がどことなく虚しくて最後まで観る気になれなかった」「解散したところで以前のような友情は戻らないだろう」と記している[49]。 1991年、布袋は「COMPLEXが本当に布袋のやりたいこととは思えない[50]」とかつて氷室がインタビューで語ったことに対して「当然だと思う」と肯定している。「だって俺、BOØWYやめてからは海外進出を目指すからって、ヒムロックと約束したんだから。『GUITARHYTHM』がそれだったんだけど、COMPLEXはそうじゃないからね。いわば約束を破ったんだから」とCOMPLEXでの活動はBOØWY解散時には構想になかったことを認めている[51]。 また1992年のインタビューでも「あいつ(吉川)といい友達だったのに、COMPLEXをやれることで離れちゃったなぁ…ということなんだよね。もしやらなかったら今でも肩並べてその辺で酒飲んでる友達同志でいたかもしれないしさ」「あいつと俺は一緒に音楽を作るふたりではなかったなあ…と思いますね」「事務所が別々だったり、何か俺らが見えないところでもうまくいかなくなっていったしね…」とCOMPLEX結成を後悔する旨を語っている[52]。 COMPLEX以降→詳細は「§ 活動履歴」を参照
COMPLEX解散後は一部単発企画を除き、2024年現在まで一貫してソロ活動に徹する。 2012年夏、ロンドンへと移住。自身に多大な影響を及ぼした同地にて新たな夢を叶える旨を表明した[12]。 音楽性BOØWY時代やCOMPLEX時代は8ビートとニューウェイヴを基調としたポップな楽曲(いわゆるビート・ロックやパワー・ポップ)をメインに制作していたが、ソロアーティストとなって以降はデジタルロック、ファンク、グラムロック、ポップ・ロック、プログレッシブ、テクノ、クラウト・ロック、ブラス・ロック、ハウス、レゲエ、パンク、ポストロック、エレクトロニカ、ドラムンベース、アンビエント、ロカビリー、ジャズなど様々な要素を取り入れたサウンドを展開しており、アルバム毎に音楽コンセプトを一変させ、世界観の異なる作品をリリースしている。このような姿勢について布袋は「日々変化してこそロックン・ロール」と語っている[53]。 自身が最も影響を受けたミュージシャンにデヴィッド・ボウイ、T・レックス、ロキシー・ミュージックを[注 23]、また自身をギタリストにした人物としてマーク・ボラン、ミック・ロンソン、クリス・スペディングを挙げている[38]。特にデヴィッド・ボウイへの敬愛は強く、インタビューなどで頻繁に名前が登場している。また自身の音楽コンセプトを毎回変えるというスタイルもボウイから受けた影響の一つである。他にも10cc、エルヴィス・コステロ、XTC、スパークス、クラフトワーク、デフ・スクール、スティーヴ・ハーレイ&コックニー・レベル、ディーヴォ、トーキング・ヘッズ、DAF、ウルトラヴォックス、ジグ・ジグ・スパトニック、ジーザス・ジョーンズ、ギャング・オブ・フォー、キャプテン・ビーフハート[27]、平沢進[27]、テレヴィジョン、デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ、ブームタウン・ラッツ、セックス・ピストルズ、リー・リトナー、アル・ディ・メオラ、ブリジット・フォンテーヌなどをはじめ多岐に及ぶ。現在でも非常に多くのミュージシャンを愛聴しており、自他共に認めるレコードマニアである。 音楽面やバンドスタイルではブリティッシュムーブメント(特にグラムロック、パンク、ニューウェイヴ)からの影響が非常に強いが、一方ギタープレイではレイ・パーカーJr.、ワウ・ワウ・ワトソン、ジョニー・"ギター"・ワトソン、アル・マッケイなど、ブラックミュージック系のギタリストを好んでコピーしていたことから、ファンクへの拘りも非常に強い。 ライブ活動には非常に精力的であり、現在でもアリーナ、ホール、ライブハウスなど様々な規模のステージを踏んでいる。「ライブアーティストでありたい」「あくまでライブをやりたいから楽曲を作る」などステージを意識した発言は数多い。ステージセットや演出への拘りも強く、代名詞ともいえるアグレッシブで独特のステージアクションを評価しているミュージシャンも多く存在する。サポートメンバーはツアー毎に入れ替わることが多く、ライブコンセプトやサポートメンバーのスタイルなどによって過去の楽曲にもさらなるアレンジを施し、時にオリジナルテイクと大きく姿を変える。基本的にほぼ毎回のライブおよびツアーの度に、新たにアレンジされた過去の楽曲が披露されている。 楽曲のみに留まらず、ファッションやビジュアル、アートワークも活動コンセプトの一端として重視している。作品の世界観に合わせてスーツや革ジャン、近未来風ファッションやゴシック調の衣装にも袖を通し、メイク・スタイリングも変える。このような姿勢はアマチュア時代から持ち合わせており、Charのファッションにも強く影響を受け「群馬のChar」と呼ばれていたとも語っている[54][55]。BOØWY結成後も当初からヘアメイクや衣装、ライブコンセプトのアイデアを度々メンバーに提案していた。『INSTANT LOVE』の時期に、青山のキラー通りにあったファッション工房"T-KIDS"に飛び込みで衣装提供を申し込み、実現させたというエピソードもある[56]。ヘアスタイルのセットに関しては、BOØWY時代から2023年現在まで一貫して自身で行っている[注 24][57]。また高校時代にレタリングの通信教育を受けていたことから、BOØWY時代初期はライブの宣伝チラシのデザインも担当していた[6]。 音楽以外に絵画やアート作品、詩、映画、文学なども好み、曲作りに影響を受けたエピソードも著書やインタビューなどで語られている。アンディ・ウォーホル[注 25]、ジャン・コクトー、アルチュール・ランボー、サルバドール・ダリ、アントニ・ガウディ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ケネス・アンガー、スタンリー・キューブリック、ウィリアム・バロウズ、小池真理子[注 26]などを趣味として挙げている。旅に出ることも多く、様々な土地でのエピソードが度々楽曲に反映されている。特にロンドンへの愛着は一際強く、2012年に同地へ移住する以前から別宅としてアビーロードやノッティング・ヒルにフラットを所有しており、レコーディングやプライベートでたびたび訪れていた。 ギタースタイル前述のような音楽趣向からビートへの拘りは非常に強く、様々な場面で口にしている。また自身のことを「ビート・ギタリスト」と称している。布袋のギタースタイルの象徴の一つとして『BAD FEELING』のリフに代表される独特のカッティングが挙げられるが、これもビートへの拘りとファンクからの影響を強く受けていることが背景にある。 ピックはオニギリ型のハードタイプを愛用[58]。ピックと爪を同時に弦に当てながら弾く(ピッキング・ハーモニクス)ため、独特のサウンドを奏でる[58][59]。一度のライブで爪がかなり消耗することから、ツアー中はコーティングを欠かさず行っている[60]。また「ギターは左手以上に右手が大事」としており、「同じフレーズでもピッキング・ハーモニクスを利かせるなど、右手の使い方次第でサウンドに個性を出すことが出来る」と語っている[61][62]。 左手に関しては、パンクやニューウェイヴからの影響でアマチュア時代からストラップを長くして腰の位置で弾くなど、テクニックよりもオリジナリティーを重視してきた結果、未だに小指はうまく使えないという[53][54][63]。一方で5弦6弦を親指で押さえるといったスタイルを多用している[62]。 布袋の手は長身ながら小さく柔らかいため[63][64][59]、この点と前述のピッキング・ハーモニクスや5弦6弦を親指で押さえるというスタイルが『BAD FEELING』や『2人のAnother Twilight』など独特のカッティングを駆使したいわゆる「手癖フレーズ」を生み出すのに功を奏したと評している[62]。マーティ・フリードマンは自身の著書にて、ギターの音を聞いただけで誰が弾いているか分かる日本の個性派ギタリストとしてChar、松本孝弘と共に布袋の名を挙げている[65]。 バッキングの際はブリッジミュートやミュートカッティングを駆使してリズムを際立たせるプレイをすることが多い。「こう見えて几帳面な性格なので、ギターもリズムをきっちり刻むスタイルの方がしっくり来た」とたびたび述べている。前述のようにギターを弾く際のピッキングのアタック感やリズム感を意識している発言も多く、様々なミュージシャンから「布袋のギターはコンピューターのような正確さだ」と評されており、スティーヴ エトウは「迷った時には彼のギターを聴けば確実」と評している[66]。 このようにリズムへの拘りは強いが、歌メロディーに踏襲したリードギターも大きな特徴である。ロック・ミュージックのギターソロやフレーズにおいて使用頻度が高いペンタトニック・スケールが布袋のギターソロ等ではほとんど使用されておらず、いわゆるドレミと同じ西洋七音階にて構成されている[67]。特にBOØWY時代は「音階は音が離れていないほうが耳馴染みがいい」「ギターソロは驚かせるものではなく、聴き手をほっとさせたい」「アドリブっぽくならないように」と、本人曰く“簡単だけど耳に残るフレーズ”を徹底的に追求した。同時にギターソロに関してはテクニックよりも感情移入主義であるとしており、「(自分は)作曲者としてはBOØWYの『MARIONETTE』やCOMPLEXの『BE MY BABY』など、基本的にメロディが湧いてくるタイプ。ギター弾きっていうのは無限のメロディを持っていなかったら成り立たないし、優れたアドリブを弾けるには優れたメロディーメイカーじゃないと不可能。最終的には解釈もコード進行も関係ないし、全部気持ちの豊かさから来るもの」と述べている[68]。 リズムパート、リードパートとも共通して、ハードロックなどの歪み系のサウンドは出すことは少ない。「ギターのノイズが嫌い」「のっぺりと歪んだギターは好みじゃなく、そういった音楽はあまり聴いてこなかった[69]」と述べている他、「メタルも(自身の好みに)イントゥしなかった[69]」ともコメントしている。2023年現在、ツアーのサポートギタリストを務めている黒田晃年によれば、布袋のアンプのセッティングは歪みを徹底的に抑えており、黒田をして「スーパードライ」なサウンドでプレイしている[70]。 後述の通り、マーク・ボランがレスポールを弾いている姿のポスターを見たのがきっかけでギターを始めるが、一方で自身にレスポールは合わないと述べている。メジャーデビュー後のキャリアで使用した機会も非常に少ない[注 27]。レスポールについて布袋は「僕のイメージしている音とかルックスじゃない。まず、音を出した時に、思ってる以上に音が甘い。そうするとボリューム上げていかなきゃいけないし、フレーズもハードロックしてきちゃう。僕はLAメタルみたいなのは嫌いだし、虎目とかのコレクター感覚もない。それに僕には持ちにくい。それでレスポールを抱きたいって感覚に全くならなかった[54]」、「(ギターの)初心者にレスポールは薦めない。重いし、弦のテンションは硬いし、音が凄く伸びるギターだからコードを練習しなくなっちゃう。どうしても音を歪ませてごまかしちゃう。コードを鳴らす快感を通り越しちゃう[72]」と述べている。 アマチュア時代は毎日クラフトワークを聴きながら楽曲のループに合わせてギターフレーズを考えていたという時期も存在し[16][6]、当時描いた理想のギタリスト像について「マーク・ボランのようなグラムな衣装で、黒人のようなファンキーなカッティングを、クラフトワークのビートをバックに踊りながら弾くギタリストという何とも奇妙なものだった[73]」と語っている。 BOØWY時代はコーラス、アナログ・ディレイ、ハーモナイザーをはじめ自らを「エフェクターの鬼」と称するほど多種多様のエフェクターを用いていたが、「(BOØWY時代は)4人バンドでコード楽器は俺しかいなかったから、広げたり飛ばしたりをやらないとすごくモノクロなロックンロールになってしまうのも手伝って、結構使ってた。BOØWYをやめた時にもうエフェクターを使う必然性はないなって[68]」という言葉が示す通り、ソロ以降その数は減少している。しかしソロ・キャリアでもデジタル要素の強い作品をリリースするなど使用率は決して低くはなく、特にアナログ・ディレイは現在に至るまで定番アイテムとして定着している。 TAKUYA、SUGIZOなど布袋からの影響を公言しているプロのギタリストも数多い。 今井寿は「影響を受けた唯一のギタリスト」として布袋の名を挙げており[74]、「ギターサウンドだけど、エレクトロ感、テクノ感がある」「ソロを弾かなくても格好いいギタープレイ」「乱暴な言い方で言えば、自分でコードを作っちゃう感じのパンクな姿勢」と述べ、総じて「洗練されたB級感」と評している[75]。 幾度も共演歴のあるブライアン・セッツァーは、「彼は古いサウンドをモダンにしてしまう才能がある」と評している[76]。 ONIGAWARAの竹内サティフォは布袋のシグネイチャーモデルである"TC-HOTEI 25th Anniversary"をメインギターとして使用している[77]。 プレイのみに留まらず、独特のステージアクションも布袋の象徴として挙げられることは多い。ギターを始めた当初からステージで演奏することを考慮し、自宅でも立って弾いていたという。BOØWYがブレイクする以前は新宿のツバキハウスや六本木のクライマックスなどのディスコへも盛んに足を運んでおり、「ギターをかき鳴らすアクションでジャンプしながら踊っていた。間違いなく自分のステージアクションの原型は、ツバキハウスとクライマックスのダンスフロアで出来上がったと断言できる」と著書に記している[6]。 作曲楽曲制作に関しては、作曲を優先(曲先)にする。ギターリフから作ったもの、ベースリフから作ったもの、メロディから作ったもの、リズムパターンから作ったものと、バラエティに富んでいる。前述の通りライブへの拘りが非常に強いため、作曲の時点ではあまり意識しないが、編曲はライブを意識して行っており、基本的に「ライブで再現出来ないことはCDでも演らない」というスタンスである。ステージでのパートはギターとボーカルのみだが[注 28]、レコーディングの際はベースやキーボードなども自らが演奏する。また一部作品ではプログラミングも行っている。 外出先などでフレーズが思い浮かんでも録音したり譜面に書き残すといったことは基本的に行わない。本人によると「忘れてしまうようなフレーズは、所詮その程度のものだということ[38]」であり、『GUITARHYTHM IV』のようにデモテープを一切制作していないというアルバムも存在する。そもそもギターの譜面に関しては自作曲を譜面に起こすことが出来ず、読むことも不得手である。コードも基本的なもの以外はよく知らないという。そのため、BOØWY時代初期にスタジオミュージシャンの仕事が入った時は、小さいサイズのコードブックを隠し持ってスタジオ入りしていた。[19] 『THANK YOU & GOOD BYE』など一部を除き、現在までほぼ全ての作品でセルフ・プロデュースを執っているが、これについては「僕のプロデューサーって立場はあくまでもギタリストの延長線。いいミュージシャン、いいギタリストでいる為には、ドラムもベースも歌も知らなきゃいけないっていう。初めて作った『MORAL』がまったく満足いかない仕上がりになってしまったことが、一番きっかけとして大きかった。これはスタジオの作業をもっと知らなきゃいけない、ただ演奏しただけでは結果的に作品としてのあるレベルには至らないと痛感した。それからミュージシャンとしての自分自身を大切に、色んなことをクリアしてプロデューサーと呼ばれるようになった[68]」としている。 高橋まことは布袋の音楽スタイル、プロデュース・ワークについて「シンプルで、インパクトがあって、しかも恰好いい。そんなリフを作らせると布袋は本当に天才的だった」「一見するとルーツが見えづらいが、敢えて言うなら「ひとりミクスチャー」。あらゆるジャンルの音楽を貪欲なまでに呑み込んで、すべて自分の中で消化して布袋色に染め上げてしまう。自らのルーツ・ミュージックに立ち返ることを布袋は決してしなかった。なぜなら彼にとってのルーツ・ミュージックとは「布袋寅泰」そのものだからだ。自分自身をルーツにしようとしていたのは間違いないだろう」、「ルーツが見えづらい上にツールも多く、ギター以外の楽器も一通り何でもこなせる。レコーディング時にはかなり具体的なフレーズを要求してくることが多かった。本人がドラムも叩けるからこそであり、意思の疎通も非常にスムーズだった」と著書に記している[78]。 人物私生活1985年12月24日、BOØWYの『BOØWY'S BE AMBITIOUS TOUR』渋谷公会堂公演にて山下久美子との結婚を発表、翌1986年1月に入籍した。山下のアルバム『BLONDE』に布袋が参加したことが馴れ初めである[17]。出逢ってから2ヶ月弱で同棲を始め[38]、半年弱で入籍というスピード婚であった。『BLONDE』レコーディング時、椅子に座ってやりづらそうにギターを弾いていた布袋が突如立ち上がって弾き始めたことでスタジオ内が騒然となったというエピソードがある[17][6]。山下との間に子供はいない。 1996年1月末に今井美樹との不倫が発覚し[17]、1997年11月に離婚した。この不倫が離婚の原因とされているが、山下の著書にはこれ以前から、BOØWYのブレイクにより布袋が自身を凌駕する存在になってしまったこと[注 29]、布袋との間に子供が出来なかったこと、『GUITARHYTHM II』を始め布袋がアルバム制作に最適な環境として度々ロンドンに長期滞在したこと、布袋がソロ活動で多忙になり自身の作品へ次第に関わらなくなっていったこと、これらに対して寂しさとすれ違いが生じていったとも記している[17]。 1999年6月6日に今井美樹と再婚。当時の週刊誌では略奪結婚を囁く報道もあった。2002年7月、今井との間に長女が誕生している。 2011年に東日本大震災で被災した宮城県南三陸町にボランティアとして訪れたことを明らかにしている[79]。 エピソード
使用ギター
フェルナンデス(ゾディアック・ワークス)
以下、テレキャスタータイプ以外でフェルナンデスで製作されたギターを記す。
ゾディアック・ワークス
ゾディアック・ネオ
ゼマティス
その他
活動履歴海外および移住後のロンドンでの活動は、全て現地時間に基づくものとする。
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
ディスコグラフィーオリジナル・アルバム
シングル
ベスト・アルバム
カバー・アルバム
ライブ・アルバム
オフィシャル・ブートレッグCD各公演のアンコール演奏曲のみ収録した期間限定販売品。規格品番の数字が公演日を表している。
その他のアルバム
デジタルコンテンツ特記がない限り、iTunes Store、Amazon Music、mora、レコチョクなど主要プラットフォームにて配信。
VHS/DVD/Blu-ray
楽曲提供他アーティスト
映画音楽
TV
ドラマ
アニメ
CMソング
舞台音楽
カヴァー
リミックス
その他
外部参加
ライブサポート
出演ラジオ
CM
映画
ドラマ
書籍著書
関連書籍
写真集
映画
ゲーム
コラボレーション
脚注注釈
出典
外部リンク
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