JUST A HERO (BOØWYのアルバム)
『JUST A HERO』(ジャスト・ア・ヒーロー)は、日本のロックバンドであるBOØWYの4枚目のオリジナル・アルバム。 1986年3月1日に東芝EMIのイーストワールドレーベルからリリースされた。前作『BOØWY』(1985年)よりおよそ9か月振りにリリースされた作品であり、作詞は氷室京介および松井恒松、ポール・ジャンセンが担当、作曲は氷室および布袋寅泰、プロデュースは布袋が全面的に担当し、初のバンドメンバーによるセルフプロデュースとなった。 レコーディングは全国ツアー「BOØWY'S BE AMBITIOUS TOUR」の合間を縫うように日本国内の各地にて行われ、同バンドとしては最も長期間且つ多岐に亘る箇所でのレコーディング作業となった。エンジニアとして前作を手掛けたマイケル・ツィマリングが参加しており、ベルリン滞在による影響を受けた氷室による歌詞とニュー・ウェイヴのサウンドを昇華させた布袋によるアレンジを特徴としている。 本作からは先行シングルとして「わがままジュリエット」がシングルカットされたほか、本作収録曲の「Justy」がフジテレビ系バラエティ番組『いきなり!フライデーナイト』(1986年)のオープニングテーマとして使用され、BOØWYとして初のタイアップとなった。本作はオリコンアルバムチャートにおいて初登場第5位となり、売り上げ枚数は累計で約81万枚を記録した[3]。また、ローリング・ストーン日本版の「Rolling Stoneが選んだ日本のロック名盤100選」において第75位を獲得した[4]。 背景1985年、ユイ音楽工房と契約を交わしレコード会社を東芝EMIへと移籍する形で新たなスタートを切ったBOØWYであったが、初の海外レコーディングおよびライブを経験し、3枚目のアルバム『BOØWY』(1985年)リリースから4日後の6月25日には初の大ホール公演となる渋谷公会堂でのライブを行い会場は超満員となった[5]。コンサート告知は『ぴあ』に1回載せただけであり、ライブ休止中に口コミにてBOØWYの事が広まった結果地方からも聴衆が集まったという[6]。 6月からは小規模なツアーとして「BEAT TO PLATON」を6都市全8公演で開催、イベント参加としては7月20日に小樽第2埠頭にて行われた「ボートフェス」、8月3日には日比谷野外音楽堂にて行われた「アトミック・カフェ・フェスティバル」に参加した[7]。8月22日には12インチシングルとして「BAD FEELING」のリミックスバージョンをリリースし、9月より初の本格的な全国ツアーとなる「BOØWY’S BE AMBITIOUS TOUR」を実施、その後10月よりライブツアーの合間を縫う形でレコーディングは進められていた[8]。また、ツアー最終日である12月24日の渋谷公会堂の公演では、メンバーの布袋寅泰と歌手である山下久美子の結婚が報告された[9](後1997年に離婚[10])。 10月末からは山中湖のミュージックインスタジオにて本作のレコーディングが開始され、氷室と布袋により30曲におよぶ楽曲が用意された[11]。全てのレコーディング作業が終了し、12月27日にはトラックダウンを行うためにベルリンのハンザ・スタジオへとメンバーは再び足を運んでいた[12]。12月31日にはNHK総合音楽番組『ミュージック・ウェーブ85』にて放送された日本青年館でのライブ映像が反響を呼び[13]、1986年1月24日に中野サンプラザで行われた追加公演はチケットが即日完売となった[14][13]。1月27日には布袋は山下との結婚式を行った[15]。 録音、制作1985年10月24日より本作のレコーディングは開始され、28日まではミュージックインスタジオ、翌29日から31日までは河口湖スタジオ、11月15日から20日までは伊豆キティスタジオ、11月27日、28日、12月1日、2日はKRSスタジオ、12月7日にはマグネットスタジオ、12月8日には東芝EMIスタジオと合計20日、6カ所のスタジオを使用して完成した[16]。トラックダウンは同年12月29日から1986年1月6日にかけてベルリンのハンザ・スタジオにて行われた[16]。本作のレコーディングはライブツアー「BOØWY’S BE AMBITIOUS TOUR」の空き時間を利用して合間を縫うようにして1か月半程度のタイトなスケジュールで行われた[8]。メンバーからの要望によりレコーディング・エンジニアには前作を手掛けたマイケル・ツィマリングが再び参加している[17]。レコーディングは日本国内で行われたため、ツィマリングはそのために来日することとなった[18][19]。山中湖および河口湖、伊豆などリゾート・スタジオと呼ばれる場所を使用した合宿レコーディングであり、伊豆での食事の豪華さにメンバーおよびスタッフ一同は感嘆の声を挙げていたという[8]。 前作『BOØWY』のプロデューサーである佐久間正英は「サウンド・アドバイザー」の肩書で参加しているが、スタジオ作業も佐久間が仕切っていた前作とは違い布袋寅泰が主導権を握り、実質布袋1人で全てのアレンジを仕上げたため初のセルフ・プロデュースと呼べる作品となった[20]。氷室によれば佐久間はメンバーの意向を察知しており、本作においてはあくまでサポートという形での参加となった[18][19]。制作に関する段取りは全て布袋に一任され、氷室は作詞に専念するなど完全な分担作業となった[18][21]。高橋まことは自著『スネア』にてそれまでライブバンドとして活動してきたBOØWYが、初めて「音源を残す」作業に意識的になった作品であると述べている[22]。また、初めて氷室が自らの演奏によるデモテープを作成した[18][20][19]他、本アルバム制作において収録曲候補として氷室、布袋によって約30曲が作られ、その中から11曲を選曲している[21]。松井恒松は自著『記憶』にて布袋による曲はBOØWYとしてのステージを意識した曲が多く、氷室による曲はバンドとしてよりも個人的な印象の強い曲が多いため、選曲に当たっては布袋の曲が採用される事が多くなり、氷室から「自分としてはいい曲だと思うけど、松井はなぜ気に入ってくれないんだ」、「どういう曲を作ったらおまえは喜んでくれるんだ」と問われた事があったと述べている[23]。 作詞に関して氷室は、前作まではスタジオ内で2週間程度で熟慮せずに行っていたが、本作では集中するために郷里に帰省して自宅に籠って行っており、本作の詞は「深く読めない人にもラヴ・ソングにきこえて、しかし、本当にわかっちゃう人には、すごくわかっちゃうっていう詞を書きたかったんだ」と述べている[21]。また、氷室からの要請により本作にて松井恒松が初めて「LIKE A CHILD」にて作詞を手掛ける事となり、歌詞中の「クリスチャーネ」という名前は氷室が提案したものであった[24]。当時のインタビューにおいて歌唱法が優しくなっているのではないかと問われた氷室は、それまではシャウトする事で周囲から喜ばれると理解した上であえて行っていたが、毎回同じパターンでは誤解される恐れを感じた事から「今回は、一作詞家として、一ヴォーカリストとして、自分を表現したかった」と述べている[21]。1991年のインタビューにおいて氷室は、本作の歌詞に関して「あの頃だから書けたんだよね」と述べており、また現状では本作のような歌詞を全曲分制作することは不可能であると述べている[18][19]。6曲目「1994 -LABEL OF COMPLEX-」にはゲストボーカルとしてシンガーソングライターである吉川晃司が参加している[8]。当時はフィーチャリングという概念が一般的ではなく、所属レコード会社の枠を超えて別アーティストの作品に参加する事は非常に困難であったが、布袋の妻である山下と吉川が同じ事務所であったために実現した[8]。また、吉川と布袋は曲タイトルに含まれている言葉を使用した「COMPLEX」というユニットを後に結成している[8]。 音楽性と歌詞松井は自著『記憶』にて本作は氷室と布袋の両名が実験的なアプローチをしたアルバムであると述べ、ビートルズで例えるなら『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967年)のような作品であると位置付けている[25]。高橋は自著『スネア』にて本作は氷室の色が強く出ていると述べ、次作である『BEAT EMOTION』(1986年)は布袋の色が強く出ていると述べている[26]。タイトル曲である「JUST A HERO」に関して、氷室は若者へのメッセージソングであると述べ、松井は同曲のテーマは「勇気」であると述べている[21]。本作のタイトルは当初『ROUGE OF GRAY』が有力候補となっていたが、事務所プロデューサーであった糟谷銑司の強い意向により『JUST A HERO』に決定した[8]。また「ROUGE OF GRAY」はシングルカットの候補曲として、最後まで「わがままジュリエット」と競った曲であった[8]。 音楽誌『別冊宝島1322 音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にて文芸評論家の町口哲生はポップな楽曲として3曲を挙げ、「わがままジュリエット」は間奏のギターソロや歌詞の面白さが魅力、「JUSTY」はアップテンポなリズムでスパニッシュギターからエレクトリック・ギターに移行するアレンジやサビがキャッチーである事、「ミス・ミステリー・レディ」はイントロに「禁じられた遊び」(1952年)の逆再生が使用され電磁ノイズのようなギターソロが重ねられている事などが特徴であると指摘した[20]。さらにメッセージ色の強い楽曲として2曲を挙げ、「1994 -LABEL OF COMPLEX-」の着想がデヴィッド・ボウイのアルバム『ダイアモンドの犬』(1974年)に収録された楽曲「1984年」であると推測し1994年のメトロポリスを舞台に逆説的なメッセージが盛り込まれていると指摘、「BLUE VACATION」は「<レジスタンス~>といった歌詞がアルバム自体を撹乱するかのごとく挿入されている」と述べ、それぞれの曲に登場する「プロレタリア=市民社会の外部に見放された下層ブルジョア」もしくは「レジスタンス=抵抗、反抗、妨害」という言葉により「アイロニカルな意味で矛盾するように構想された楽曲」であると指摘した[27]。その他にも、「DANCING IN THE PLEASURE LAND」は、「イントロから引き込まれるダンサブルな楽曲」、「ROUGE OF GRAY」は打ち込み音が主体である事を指摘した上でデヴィッド・ボウイの「レッツ・ダンス」(1983年)のような楽曲であると指摘、「PLASTIC OCEAN」は「英詩によるストレートなロックンロールである楽曲」と触れた上で、本作の音楽性が「BOØWYのバックボーンとなる音楽が1枚にパッケージ化され、彼らならではのニュー・ウェイブ=「ノー・ウェイブ」が発揮された」と述べている[20]。 音楽情報サイト『OKMusic』にて音楽ライターの帆苅竜太郎は、耳に残る印象的なメロディーによってアルバム全編が構成されているが、「全体を通してくどくも脂っぽくもなっていないのは確かなアレンジ力によるところだろう」と指摘、さらに本作の音楽性がバラエティーに富んでおりロキシー・ミュージックやフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドなどの影響下にありながらも「影響下にあったことを忘れてしまうような構成になっていることが心憎い」と述べている[28]。また本作のサウンドメイキングはニュー・ウェイヴの影響下にあり、当時海外のニュー・ウェイヴバンドが上手くサウンドとして昇華できていなかった事例が少なくなかった中、BOØWYはそのエッセンスを自らの音楽性として導入する事に成功した稀有な例であるとした他、「派手さだけでなく、地味ながらしっかりとした構築力も聴き逃せない」とも述べている[28]。 楽曲SIDE 1
SIDE 2
リリース、アートワーク本作は1986年3月1日に東芝EMIのイーストワールドレーベルより、LP、CT、CDの3形態でリリースされた[41]。なお、「PLASTIC OCEAN」はLPには未収録となっているが、当時まだ発展途上であったCDの売上を伸ばすために、各レコード会社がCDのみ楽曲追加収録するという戦略がとられていたことから、本作でも採用されたものである[8]。本作用の写真撮影は写真家の加藤正憲によって行われた[18][19]。氷室によれば加藤の参加などにより「音楽を人に伝えてゆくための輪が完璧になりつつある頃」であり、音楽ライターが周囲に増加した時期でもあると述べている[18][19]。 本作リリース以前のシングルリリースに関して、当初スタッフ側からは「BAD FEELING」のB面曲であった「NO. NEW YORK」を改めてA面曲としてリリースするという提案が出されるもメンバーはこれに強く反対した[42]。また本作からのシングルカットとして、本作制作の過程でスタッフからはロックバンドとして相応しい「ROUGE OF GRAY」をシングル候補曲として推薦されたが、ディレクターの子安は「わがままジュリエット」をシングル候補曲として提示し、「これはBOØWYではない」と難色を示したスタッフの意見もあったものの、同年2月1日に先行シングルとしてリリースされた[42]。 後にCD-BOXである『BOØWY COMPLETE』に収録される形で1991年12月24日[43]、1993年3月3日[44]、2002年3月29日の計3回リリースされ、2002年版では初めて20ビット・デジタルリマスター版が収録された[45]。さらに2005年2月16日には24ビット・デジタルリマスター版が単体でリリース[46]、解散宣言から20年となる2007年12月24日には紙ジャケット仕様でリリース[47]、デビューから30周年となる2012年12月24日にはブルースペックCD2でリリースされた[48][49]。 その後も35周年を記念して2017年6月28日に2007年リリースの紙ジャケット盤が限定復刻[50]、同年7月26日には180gの重量盤としてロサンゼルスのマスタリングスタジオであるバーニー・グランドマン・マスタリングにてカッティングが行われたLP盤として再リリース[50]、さらに2018年3月28日にはハイレゾリューションオーディオ化された音源がFLACとして再リリースされた[51][52][53]。 プロモーション本作リリース後、メンバーは全国各地のライブハウスやイベントホールにて「BOØWY FILM EVENT - JUST A HERO SPECIAL」と題されたフィルムコンサートを実施、BOØWYの歴史を1本の映像作品としてまとめ、自らがゲストとなりファンとの交流を図るイベントとして行った[14]。 また、本作リリース前後よりテレビ番組出演の回数も増えていき[注釈 2]、2月3日放送のテレビ神奈川音楽バラエティ番組『ファンキートマト』(1978年 - 1993年)、2月21日放送のテレビ東京音楽番組『NEW AGE MUSIC』などの地方局の番組出演の他、全国ネット番組としてフジテレビ系深夜番組『オールナイトフジ』(1983年 - 1991年)に数回出演した他、本作リリースから4日後にはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオDELUXE』(1985年 - 1989年)に初出演し、「わがままジュリエット」を演奏している[15]。その際に氷室の初恋の人物が登場するシーンが放送されたが、番組側からこの企画を打診された氷室は快諾したものの後に後悔し、氷室による「テレビに出るのが大好きです」との発言は「完全に皮肉だった」と高橋は述べている[54]。 その後も3月28日および4月4日放送の毎日放送音楽番組『TV音楽館』や4月26日放送の中京テレビ放送バラエティ番組『5時SATマガジン』(1981年 - 1993年)において「ロックスターボウリング大会」と題した企画に出演してメンバー全員がボウリングを行い、5月3日にも同番組に出演、5月30日放送のフジテレビ系バラエティ番組『いきなり!フライデーナイト』(1986年 - 1989年)に出演する[15]などテレビ番組への露出が格段に増していった[55]。また、収録曲である「JUSTY」がメンバー自身も出演した『いきなり!フライデーナイト』のオープニングテーマとして使用され、BOØWYとして初のタイアップとなった[4]。 ツアー本作をリリース後に行ったフィルムイベントを受ける形で、1986年3月24日の青山スパイラルホールを皮切りに、「JUST A HERO TOUR」と題して全国25都市37公演が行われた[56]。チケットは発売と同時にほとんどの会場で即完売、ステージセットは映画『ブレードランナー』(1982年)を意識したものとなっていた[14]。5月1日の高崎市文化会館公演はビデオ撮影が行われ、後にBOØWYとして初の公式ライブビデオとなる『BOØWY VIDEO』(1986年)に収録された[57]。 ツアー最終日である7月2日には初の日本武道館単独公演が行われ、後にその模様がライブアルバム『“GIGS” JUST A HERO TOUR 1986』(1986年)としてリリースされた[58]。当日はザ・ビートルズ日本公演から20年後にあたり、氷室による「ライブハウス武道館へようこそ!」というMCが当時話題となった[14][59]。高橋は当時ライバル視していたARBやルースターズよりも先に日本武道館公演が達成できた事を誇らしく思うとともに、ビートルズ公演と同じステージに立てた事に感無量であったと述べている[60]。動員数は1万人となり、演奏曲は全17曲で本作収録曲以外にも「ホンキー・トンキー・クレイジー」や「IMAGE DOWN」、「GIVE IT TO ME」など幅広く選曲された[61]。アンコールでは「DANCING IN THE PLEASURE LAND」と「NO. NEW YORK」が演奏され、午後8時30分に至らずに終幕となった[61]。 批評
本作に対する批評家たちのサウンド面に関する評価は概ね肯定的な意見となっており、音楽誌『Player』1986年3月号では、本作が前作『BOØWY』を土台としてその上に積み上げられた作品であると位置付けた上で、「彼らの新しい側面、強靭なファンク・ビートから浮遊感漂うエスニック・サウンドまで、1コマごとに明度と輝度を変え、めくるめく音の洪水を浴びせてくれる」と称賛[3]、音楽誌『別冊宝島653 音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』にてライターの根本桃GO!は、「音の面では意外とハード。聴きようによっては紛れもないロックといっていい部分が多々ある。リズムとビートは強固で全体にうねりのようなものが出てきた。曲自体の完成度も高い」と称賛[63]、音楽誌『別冊宝島1322 音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』にて文芸評論家の町口哲生は、「全体的にリズムを強調したタイトなサウンドに、氷室のあの独特な歌い回しと、布袋の電磁ノイズのようでいて計算され尽くしたギターが一体となり、しかもポップなメロディで聴きやすい」として「文句なしの一押しのアルバム」と評価した他、「日本の現代文化の『複合性』や『馴化』といった問題を考える上でも、本アルバムは『自己適応化』と『自己外来化』がうまくマッチした稀有な一枚」と絶賛[41]、音楽情報サイト『CDジャーナル』では「リズムを強調したタイトなサウンドと氷室京介のノリの良いシブめのヴォーカルが一体となり、自信に満ちたアルバムに仕上がっている」と評した[64]他、「親しみやすさと彼らのオリジナルなスタイルの確立が両立」した作品であるとして、メンバーおよびファンからの評価が最も高く「金字塔的な作品のひとつ」であるとして絶賛[65]、音楽情報サイト『OKMusic』にて音楽ライターの帆苅竜太郎は、評価ポイントとして全曲が良質なメロディーを持ちキャッチーである事や歌に絡みつくギターが同様に全編通してキャッチーである事を絶賛し、また両者が相殺し合っていない事を指摘した上で「どちらがリードするわけでもなく、互いに絡み合って昇華していくさまは、今聴いてもスリリングで素晴らしい」と絶賛した[28]。 一方で歌詞に関しては一部で否定的な意見が挙げられ、音楽誌『ミュージック・マガジン』では、歌詞が聴き取れず、歌詞カードを見ても理解できなかったと述べた他、歌謡曲のようであるとして否定的に評価したものの、布袋のギターに関しては「今回はバッキングに徹していて無理がない。歌謡ロックって太っ腹なのだ」と一部肯定的に評価し、10点満点中6点の採点となった[62]。また音楽誌『別冊宝島653 音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』にて根本は歌詞が「バブリーな記号に満ち溢れ、なんだか分からないオシャレなアーバンライフ風のイメージで埋め尽くされている」とした上で洋楽志向のリスナーから本作が忌避された原因ではないかと主張した[63]。その他、ローリング・ストーン日本版の「Rolling Stoneが選んだ日本のロック名盤100選」において第75位を獲得した[4]。 チャート成績オリコンアルバムチャートにおいて、本作のLPは最高位第5位の登場週数37回で売り上げ枚数は10.2万枚となった[2]。BOØWYのアルバムとしては初のベスト10入りを果たしたが、世間一般では「ギタリストが山下久美子の旦那のバンド」という程度の認知度であったため、何故本作がランクインしているのか理解できないメディアが数多く見受けられたと布袋は述べている[66]。また氷室によれば本作は「表現としてやるべきことはすべてやった」ことと、「それが受け止められて評価やセールスになる」という2つの意味でピークを迎えた作品であり、10万枚という売り上げに対して「あぁ、売れちゃったって。親戚も困っちゃうだろうなとか。実際、大したことなかったんだけど」と述べている[18][19]。また、本作の完成度に満足していたことから解散に関する予兆が出始め、元々メンバー間で「ある程度頂点まで行ったらそれを維持するみたいな姿はやめようね」という共通認識があったのではないかと氷室は推測し、「何かけっこうピークは目の前だなって気はすごいした」と述べている[18][19]。その他に本作がヒットした事で、事務所からメンバー全員に100万円の臨時ボーナスが与えられた[67]。本作はその後も売り上げを伸ばしていき、最終的な累計では売り上げ枚数は約81万枚となった[3]。 オリジナル版はBOØWYのアルバム売上ランキングにおいて第12位となったほか[68]、2012年版は第37位[69]、2017年版は第44位となっている[70]。ねとらぼ調査隊によるBOØWYのアルバム人気ランキングでは2021年および2023年の2回の調査において第1位となった[71][72]。 収録曲LP版
CT・CD版
スタッフ・クレジット
BOØWY参加ミュージシャン録音スタッフ
美術スタッフその他スタッフチャート
リリース日一覧
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
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