舞鶴市
舞鶴市(まいづるし)は、京都府北部の中丹地域に位置し、若狭湾の支湾である舞鶴湾に面する市。もと京極氏・牧野氏3万5000石の城下町。旧称、田辺。人口7万7千人。 舞鶴港の東港は、かつては旧日本海軍の軍港で、舞鶴鎮守府の所在地であった。現在は海上自衛隊の基地港であり総監部(舞鶴地方隊)が置かれる。西港は、北前船の時代から現在に至るまで商港として利用されている。地域おこしとして、広島県呉市と共に肉じゃが発祥の地を名乗っている。 地理地名の由来元来この地域は「田辺」と呼ばれていたが、明治時代に山城(現・京田辺市)や紀伊(現・和歌山県田辺市)にある同名の地名との重複を避けるため、田辺城の雅称である「舞鶴城」より「舞鶴」の名称が取られた[1]。田辺城が「舞鶴城」の別名を得たのは、城型が南北に長く、東の白鳥峠から眺めるとあたかも鶴が舞っている姿のように見えるからであるとされている[2]。 地形山地舞鶴市の周辺は丹波高地が広がり、代表する山岳には、福井県との県境部に位置する青葉山があり、「若狭富士」の異名をもつ。市域にはほかにも宇野ヶ岳、赤岩山など600メートル級の山々が連なっている[3]。 河川市域の大半を山林地域が占めているが、1級河川の由良川や西舞鶴の高野川、伊佐津川、東舞鶴の与保呂川、志楽川流域などでは沖積地が発達している[3][4]。 海岸北は日本海の若狭湾に面し、その最も深く湾入したところが舞鶴湾である。リアス式海岸など景勝地に富んでおり、オオミズナギドリ繁殖地として国の天然記念物に指定されている冠島や沓島といった島々も舞鶴市に属している[5][3]。 島嶼気候舞鶴市は日本海側気候の山陰区に属しており、春は山地より乾燥した南風が吹き下ろすフェーン現象が起こりやすく、夏は高温多湿で晴天の日が続く。冬は北西の季節風が吹き、雨や雪の日が多い。年平均気温は摂氏14.8度程度と比較的冷涼に見えるが夏季は最高気温が30度を超え、冬期は最低気温が0度以下になることもある。なお、12月から2月にかけては積雪がみられ、豪雪地帯にも指定されている[6]。
地域舞鶴市の市街地は田辺藩の城下町・商港から発展した西舞鶴と、海軍の軍港から発展した東舞鶴のふたつに分かれており、両地区とも特徴的な市街地を形成している。舞鶴市にはほかに中舞鶴・加佐・大浦の3地区が存在する[3]。 人口人口は79831人と減少傾向にあるものの、京都府で5番目に大きい自治体であり、北部地域の中心的地位を保っている[9]。
平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、3.33%減の88,681人であり、増減率は府下26市町村中13位、36行政区域中22位。 出生率・高齢化率京都府全体の高齢化率(19%)に比べ、舞鶴市は若年層の域外流出が多く、高齢化率は比較的高めである。また東西市街地の高齢化率が近年高まっており、府と市では対策に乗り出している。出生率は1.8を超えるなど全国的な傾向からは高いものの、2004年には人口動態が初めて自然減となっている。
隣接自治体丹波高地北部に位置し、東は福井県高浜町、南は京都府綾部市と福知山市、西は宮津市と接している。 歴史先史市内でもっとも古い遺跡は由良川沿いにある志高(しだか)遺跡で、縄文時代前期初頭の土器が出土している。 市内の縄文時代前期の遺跡としては、同じく由良川沿いに地頭遺跡・和江遺跡があるほか、大浦半島にも浦入(うらにゅう)遺跡がある[10]。 縄文時代中・後期には入植が市内全域に広がったとされ、東舞鶴の朝来(あせく)遺跡や西舞鶴の今田遺跡などが見つかっている。浦入遺跡からは丸木舟の遺構が発見されており、隠岐産の黒曜石や北陸産の蛇紋岩製耳飾りなどが見つかっていることから、当時舞鶴に住んでいた人が海を介して遠隔地の人と交流していたことが分かっている[11]。 弥生時代には志高遺跡をはじめとして、由良川の自然堤防上に複数の集落が形成され、水田の開発も市域の周辺部にまで広がっていった[11]。志高遺跡からは銅鐸や銅剣形石剣が発見されており、当時豊作祈願や、収穫を祝う祭礼が執りおこなわれていたと想像されている。また、当地では方形周溝墓や貼石墓、弥生時代末期になると方形台状墓が作られるようになった[12]。 古代弥生時代以降、由良川下流域を見渡す山の上に墳墓が築かれるようになり、その立地から由良川の水運を掌握した首長らの墓であると考えられている。鉄製農具の普及や灌漑設備によって農業生産力が向上したことにより各地の豪族が力をつけ、舞鶴地域には300基を越す古墳が作られた。その多くは6世紀後半に作られた横穴式石室を備えるものであり、これは大和朝廷の支配の影響であると見られている[12]。また、東舞鶴の妙見山古墳のように、農民の有力者が作ったと考えられる古墳も現れるようになった[13]。 651年(白雉2年)に作られたとされる、法隆寺旧蔵・東京国立博物館所蔵の銅造観音菩薩立像には「辛亥年七月十日に崩去した笠評君のため、その日、遺児と伯父の二人が造像を発願した」との銘が彫られており、これは同地域についての記述としては最も古いものであると考えられている[14][15]。ほか、藤原京からは「丹波国加佐郡白薬里[注 1]大贄久己利魚腊[注 2]一斗五升和銅二年四月」と書かれたものなど、あわせて5枚の木簡が見つかっている[15]。713年(和銅6年)には丹波国から加佐郡を含む5郡が割かれて、丹後国が成立した[15]。 奈良時代の初期、志高遺跡では里長などの一部階級をのぞいては、ほとんどの人が竪穴建物に住んでいたが、奈良後期から平安時代初頭には村人の家も掘立柱建物となった。浦入遺跡では奈良時代後半から製塩・鍛冶が盛んになり、生産活動の拠点として人や物資が集まった[16]。延喜式神名帳には加佐郡の式内社として11座が掲載されており、うち名神大社に列せられた大川神社は、名神祭の際には朝廷から絹糸や真綿といった頒幣にあずかった[17][18]。ほか、古代に建立されたと考えられる寺院には、多禰寺・円隆寺・松尾寺・金剛院などがある。平安時代中期より末法思想が流行すると舞鶴地域でも油江(ゆご)、天台などで経塚が造営された[16]。 中世・近世村上天皇の女御が寄進したとされる志高荘を皮切れに、舞鶴地域でも荘園の成立が進み、『丹後国諸荘園郷保惣田数帳』によると1288年(正応元年)にはすでに市域全域で中世的な荘園や郷が成立していた[16]。『吾妻鏡』によれば、1195年(建久6年)に志楽荘の住民が地頭後藤基清の乱暴狼藉を鎌倉幕府に訴えている[19]。南北朝時代において、丹後国はおおかた北朝勢力下にあったとされるが、1337年(建武4年)には岡田荒張城(現舞鶴市)の南朝勢力と北朝の吉川経久が戦争を行っているなど、時勢は単純ではなかった[19][20]。 南北朝期の丹後国守護は目まぐるしく変わったが、1391年(明徳2年)に起こった明徳の乱ののちは一色氏の領国となった[19]。この乱で戦功を残した一色満範は足利義満より、もと山名氏の領国であった丹後国を与えられ、八田(現舞鶴市の田辺)に守護所を置いた[21]。一時若狭武田氏が丹後守護に任ぜられた時期はあったが、守護の名実を問わず一色氏が勢力を保ち続けた[19][22]。戦国時代には舞鶴地域は一色義清・一色九郎ら一色氏内の各派閥と武田氏が相争う戦場となり、一色九郎方の丹後守護代・延永春信が現在の舞鶴市行永にある倉橋城に立てこもっている[23][24]。1582年(天正10年)より細川藤孝・明智光秀の連合軍が織田信長の命を受けて丹後に攻め入り、一色氏は滅亡した[25]。舞鶴市鹿原/小倉を支配する小倉(真迫山)城主・大倉播磨守、同じく但馬谷城主・市村出羽守(大倉氏の一族か)も、細川氏によって滅ばされた。 1580年(天正8年)より丹後国は細川氏所領となった。当主・細川忠興は宮津城に、忠興の父藤孝は田辺郷八田村に田辺城を築き、居住した[2]。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで両人は東軍に属し、藤孝は田辺城にて西軍1万5000人あまりを60日間にわたって引きつける大功を立てた[26]。戦後の論功行賞で細川氏に豊前国・豊後国に計39万9000石が与えられ、忠興が豊前中津城に移ったのち丹後には京極高知が入国、田辺城に住した[27][23]。 1622年(元和8年)高知の遺訓により遺領は3人の息子に分与され、次男の高三が丹後田辺藩3万5000石を立てた[23]。上方全域を譜代大名領にする幕府の政策により、 1668年(寛文8年)に京極高盛が但馬国豊岡藩に移封されたのち牧野親成が入封、幕末まで牧野氏の領国となった[28][29]。 近代・現代1872年(明治2年)の版籍奉還後、田辺藩は紀伊田辺藩との混同を避けるために田辺城の雅称「舞鶴城」より「舞鶴藩」に改名された[30][23]。舞鶴藩は廃藩置県ののち1876年(明治9年)に京都府に編入、1880年(明治12年)に加佐郡役所が置かれた[23]。 1889年(明治22年)には舞鶴湾に日本海軍の基地が設置されることが決定、舞鶴港は軍港になることになった。周辺地域では実測183町(およそ1.81 km2)の土地が買収されたが、対象地域の農民には移転先の問題を含め、多大の犠牲がもたらされることとなった。1901年(明治34年)には正式に舞鶴鎮守府が発足し、日本海側唯一の軍港である舞鶴は重要な軍事基地となった[23]。中舞鶴・東舞鶴はこのときに計画的な都市設計が行われ、海軍の枢要地としての陣容が整えられた[31]。舞鶴鎮守府はロシアの日本侵入を防ぐために作られたものであり、1905年(明治38年)の日露戦争終戦を受けて同港の最重要目的は達成されたものの、1904年(明治37年)の鉄道開通により同市が陸海上交通の結節点となっていたこともあり、市の人口は増え続けた[31]。ワシントン海軍軍縮条約にともなう軍縮により、1923年(大正12年)に舞鶴鎮守府は一時廃止され、規模も縮小されたが、1939年(昭和14年)には太平洋戦争にともなう軍備拡張のため再指定されている[5]。戦争末期の1945年(昭和20年)7月29日にはアメリカ軍により模擬原爆が投下され97人が死亡、翌日には舞鶴港に停泊していた艦船が攻撃を受け、83人が死亡した[32]。 戦後舞鶴は引き揚げ港に指定され、1958年(昭和33年)の引揚援護局閉局までにソ連や満州、朝鮮などから帰還した邦人66万4531人、遺骨1万6269柱を受け入れたほか、中国に3936人、朝鮮に2万9061人を送還している[5][33]。鎮守府の解体により多くの市民が生活基盤を失ったが、1950年(昭和25年)の旧軍港市転換法が制定され、新たな産業の創出が押し進められた。具体的には、旧海軍工廠の施設を利用した造船業・鉄道車両の製造などが行われたほか、軍需工場であった繊維工場が再開され、くわえて化学肥料工場とガラス工場の誘致が行われた。また、木材を輸入して木製品・家具を作る産業が発展した。しかし高度経済成長期の終焉とともに造船業・繊維業などが構造的不況に陥り、企業城下町的経済体制のもとにあった舞鶴市は特定不況地域中小企業対策臨時措置法・特定業種関連地域中小企業臨時措置法・特定地域中小企業対策臨時措置法などの下でこうした構造的不況に取り組んでいくこととなった[34]。 1950年(昭和25年)に警察予備隊が創設されると舞鶴にも駐屯が始まり、1952年(昭和27年)には警備隊舞鶴地方隊が編成され、舞鶴地方総監部・舞鶴航路啓開隊などが発足した。その後1954年(昭和29年)には自衛隊が発足し、警備隊舞鶴地方隊は海上自衛隊舞鶴地方隊に改称された[35]。 海上自衛隊は、旧軍の用地をほぼそのまま利用しているが、旧軍用地の一部は公共施設や宅地、国道になっている。東舞鶴西部に所在する赤レンガ倉庫は、いずれも旧軍が建設したものであるが12棟が現存、8棟は国や市の文化財となり、博物館や観光施設に改装されている棟もあり、自衛隊基地と併せ貴重な観光資源となっている。なお、残る4棟は現在も海上自衛隊が倉庫として使用中である。 1951年(昭和26年)11月13日、昭和天皇が市内を行幸(昭和天皇の戦後巡幸)。東舞鶴駅に到着した際に駅前奉迎が行われた後、市役所、飯野産業舞鶴製作所、明倫小学校を訪問した[36]。 1953年(昭和28年)9月25日には台風13号の接近に伴い集中豪雨が発生。市内の河川が氾濫が発生して1934年の室戸台風以来の大水害となった。死者・行方不明者45人、負傷者80人[37]。 市域の変遷舞鶴市は1889年(明治22年)4月1日の町村制施行により誕生した、加佐郡舞鶴町を前身とする自治体である。舞鶴町は旧田辺藩(舞鶴藩)の城下町であり、町村制施行時点では同郡唯一の町であった。その後、舞鶴鎮守府の誕生とそれに伴う軍港都市の整備により、1902年(明治35年)には余部町[注 3]、1906年(明治39年)には新舞鶴町が誕生した。 軍港誕生による人口急増は、旧来の中心地であった舞鶴町にも影響を及ぼし、1936年(昭和11年)8月1日には貿易促進とそれによる工場誘致のため舞鶴町が周辺5ヶ村と合併し、2年後に市制施行により舞鶴市となった。同日には海軍の強い要望により、軍港周辺の自治体であった新舞鶴町・中舞鶴町と周辺3ヶ村が合併し、東舞鶴市が誕生した。1939年(昭和14年)に、軍縮により一時要港部となっていた舞鶴鎮守府が復活し、東舞鶴市外にも軍事施設が建設されるようになったため、1942年には新たに3ヶ村が東舞鶴市に併合された[38]。 戦時にともない舞鶴港の重要性が上がっていくにつれ、海軍は両舞鶴市の合併を強く要請するようになった。旧城下町の舞鶴市と軍港都市の東舞鶴市は全く気質の異なる都市であり、合併は困難であるとみられていたが、舞鶴市に軍施設が拡大していったこともあり、鎮守府に押し切られる形で両市は1943年(昭和18年)5月27日をもって合併した[注 4]。終戦後、西舞鶴(旧舞鶴市)側から市の再分離が提案され、1950年(昭和25年)の住民投票では過半数の賛同を得たものの、実際に市町村区域の変更権を持つ京都府議会にて提案が否決されたため、分離はかなわなかった。1955年(昭和30年)には当時国と府が進めていた町村合併政策にしたがい5村が合併、加佐町が誕生し、1957年(昭和33年)には舞鶴の分離問題が下火となり、雪解けの雰囲気が広がる中で舞鶴市への編入を実現させた[39]。 行政市長
市の機関
国の機関舞鶴市は、京都府北部の経済・行政の中心の1つとして、また舞鶴港を有することから国の出先機関が置かれている。 京都地方裁判所舞鶴支部は、北部の4支部のなかで、地裁の合議事件、家裁の少年事件を受け持っている他、法務省管轄施設である拘置所も北部では、舞鶴拘置支所のみである。
府の機関
姉妹都市・提携都市2015年時点の姉妹都市は3都市。なお、日本国内に姉妹都市・友好都市はない。
議会市議会
府議会
→詳細は「京都府議会」を参照
衆議院時の内閣:第1次岸田内閣 解散日:2021年10月14日 公示日:2021年10月19日 最終投票率:58.43% (全国投票率:55.93%(2.25%))
経済2010年(平成22年)の国勢調査によれば、第1次産業の従事者4.2パーセント、第2次産業の従事者23.4パーセント、第3次産業の従事者72.4パーセントである。産業別に見ると卸売業ないし小売業に就業しているものが最も多く(14パーセント)、ついで公務(13パーセント)、製造業(12パーセント)、医療・福祉(11パーセント)となっている[44]。男性に限って言えば公務従事者は全体の18パーセントを占め、これには海上自衛隊関連施設の存在が影響している[44][45]。 舞鶴港は日本海側の重要港湾であり、船舶の大型化や荷役のコンテナ化に対応する港湾にするべく舞鶴国際埠頭が整備された。 中心市街地の人口は1985年度の約8,400人から2000年度には約6,300人に減少、実質商品販売額も約170億円から約110億円と35%も減少している。 東舞鶴駅前を中心に高層マンションが建設され、駅北口には北近畿最大級の家電量販店ケーズデンキ東舞鶴店が入る、JR東舞鶴駅NKビルが建っている。 第一次産業農業農林業就業者数は全体の約2.7パーセント(1178人)であり[44]、耕地面積は舞鶴市全体の4.2パーセント(1270ヘクタール)である。2015年のデータによると市内には2041世帯の農業経営者がいるものの、そのうち販売農家は714世帯、そのなかでも専業農家は245世帯のみである。最も多く育てられているのは米(548経営体・316ヘクタール)で、ほかには小豆(78経営体・25ヘクタール)、茶(19経営体・10ヘクタール)、ダイコン(162経営体・11ヘクタール)なども栽培されている[46]。京野菜の万願寺とうがらしは舞鶴発祥であり、「万願寺甘とう」の名称で2017年(平成29年)、京都府内でははじめてGI登録を受けた[47]。 舞鶴市は由良川水源地と与保呂川水源地をもち、市の耕作に用いられる土地は全体の4.7%の1,620haである。そのうち水田率は77.8%であり、主にコシヒカリを生産している。また畑に用いられる土地は368haで、主に普通畑である。総人口に占める農家人口は、1990年には15%強あったが、2000年には11.9%、2,831戸まで低下している。全国と同じく農業就労者の高齢化も進んでいる。 林業林業については、市内に2万6957ヘクタールの林野があり、主にスギ・ヒノキ材を生産している[46][48]。中丹地域(福知山市・綾部市・舞鶴市)の由良川流域で育った木材は品質がいいということから、「丹州材」のブランド名がついている[49]。 市全体の林野率は79.0%で27,015ha、人工林率は34.0%で8,597haである。国有林率は民間林の26,261haに比べ、754haで全体で2.8%になっている。林家数は1,239戸で、総世帯数に占める林家数の割合はわずか3.6%でしかない。ちなみに保安林は4,322haで全体の16.0%にあたる。 水産業若狭湾に面する舞鶴市では漁業も営まれており、イワシ・サワラ・ブリなど2493トンが水揚げされている[46]。舞鶴市内に属する漁港には、舞鶴漁港のほか田井漁港・野原漁港・竜宮浜漁港・水ヶ浦漁港・成生漁港・瀬崎漁港・西大浦漁港・神崎漁港などがある。 2000年現在で387世帯が漁業に携わっており、個人漁業経営体332世帯で、 漁業従事者世帯は55世帯である。舞鶴市でも就労者の高齢化が進んでおり、漁業就業者数に占める65歳未満の割合は59.3%まで低下している。なお舞鶴漁港ではいわし類やあじ類が多く水揚げされており、近年では舞鶴近海でとれる岩牡蛎を「舞鶴牡蛎」としてブランド化しようとする動きがある。
市内に所在する漁港は以下のとおり。 畜産業畜産業も行われており、市全体で乳牛が190頭、採卵鶏が13万9100羽飼育されている[46]。 第二次産業
工業終戦後、日本海軍の解体により大きな経済基盤を失った舞鶴市は、旧海軍の工場施設を活用することによって復興の道を歩んだ[51]。舞鶴海軍工廠を前身とするジャパン マリンユナイテッド舞鶴事業所は、日本海側にある造船所としては唯一8万トン級の船舶が建造できる施設であったが、中国や韓国との競争激化を理由に2021年には造船事業を撤退、以後は艦船・船舶修理専従事業所として操業している[52]。同様に、肥料メーカーの日之出化学工業・繊維メーカーの大和紡績舞鶴工場も戦中軍需施設として使われていた施設を活用したものである[53]。 市内の工業のなかで重要な位置を占めるものとしては、ほかにガラス工業と木製品加工業があり、特に前者は市内の工業生産額の約半分を占めている。ガラス工業については、1952年(昭和27年)に日本板硝子が舞鶴工場を設置しており、1991年(平成3年)時点で1021人を雇用していた[54]。木製品加工業については、1968年(昭和43年)に丸甚合板工業・林ベニヤ産業・丸玉木材が工場を建設し、平工業団地を形成している[55]。 鉱山かつては銀・銅・硫化鉄を産出する舞鶴鉱山や、銅・鉛を産出する大俣鉱山などがあったが、現在はいずれも閉山している[56]。
第三次産業商業舞鶴市の商業は細川氏により、田辺城とその城下町が建設されて以降発達した。江戸時代に西廻り航路が開かれて以降は、藩内の由良湊が航路中の要津となった。また、城下町を流れる高野川筋にある竹屋町は商業の中心地となり、廻船問屋や商家、川の両岸には舟小屋や細工場が立ち並んだ[5]。終戦後まもない1958年(昭和28年)、舞鶴市は産業貿易館を設け、輸出産品の陳列を行い、貿易商の斡旋などにも力を入れた[57]。 商圏・都市圏舞鶴都市圏は舞鶴市全域を含め福井県大飯郡高浜町の全域とおおい町の一部、綾部市・宮津市の一部を含んでおり、商圏人口は約12万人である。 近年では東舞鶴駅前に平和堂系列の「らぽーる」(本社:舞鶴市、1995年開業)が進出し、西舞鶴にも駅東側にさとう系列の「バザールタウン舞鶴」(2000年開業)、駅前に「さとう舞鶴店」が出店しており、また東西両舞鶴市街地を結ぶ白鳥街道(京都府道28号小倉西舞鶴線)沿いや、西舞鶴の国道27号・国道175号沿いには郊外型飲食店や娯楽施設、大規模小売店などが立地するなど、北近畿の商業地域として近隣市町村にその商圏を広げている。 なお、前述した白鳥街道にはバイパス計画や4車線化計画があるものの、既に市街地が形成されていることなどから事業が進んでおらず、白鳥街道の旧道を拡張しバイパスとする新たな道路計画がある。 卸売業卸売業については2016年(平成28年)現在で168事業所1213事業者、小売業については644事業所4154事業者存在するが、事業所数・販売額ともに減少し続けている[58]。また、巨大な港湾を持つ舞鶴市では貿易も盛んであり、2018年(平成30年)で輸出額4429万2959円、輸入額7140万1949円となっている[59]。輸入品では石炭・コークスおよび練炭が(4546万6087円)、輸出品では輸送用機器(2678万3528円)が最も多い[60]。 観光業舞鶴市内には旧海軍施設である舞鶴赤レンガ倉庫群や田辺城、古社・古刹といった様々な観光資源が存在するが、同市はその中でも「赤れんが」と「海・港」を活かした魅力づくりを推進している[61]。2016年(平成28年)次の推計観光客数は240万人を超えており、統計を取り始めた平成23年以降で過去最高を記録した[62]。 拠点を置く主な企業製造業
運輸・物流小売店
金融機関以前には舞鶴市内に本店を置く金融機関は東舞鶴信用金庫、舞鶴信用金庫などがあったが、いずれも2002年(平成14年)の京都北都信用金庫との合併により消滅しており、市内に本店機能を有するところはJFのみ。 なお、福井県を地盤とする福井銀行、福邦銀行が支店を有する他、小浜信用金庫も舞鶴市を営業エリアとしている。 市内に本店・支店・出張所等の窓口を置く金融機関一覧は以下のとおり(2010年〈平成22年〉8月現在)。
情報・生活マスメディア新聞社放送局ライフライン電力ガス上下水道電信市外局番は、市内全域が「0773」である。 医療・福祉舞鶴市には国立病院機構舞鶴医療センター、市立舞鶴市民病院、舞鶴赤十字病院、舞鶴共済病院と大型総合病院が4つあり、他にも9つの大型病院が集積している(この大型総合4病院は再編に向けて市議会で協議中)。また、中小規模の病院を加えると約75もの病院が市内各地に点在している。市内に拠点をおく医師は211人。宮津市や与謝郡、福井県大飯郡からの通院者も多い。 さらに、京都府北部の医療拠点としての位置付けられていて、京都府立の子ども療育センターや盲・聾学校などが置かれている。 子育て
高齢者福祉
図書館郵便局郵便番号は以下の通り(2006年9月19日時点)。
教育小学校、中学校、高等学校、工業高等専門学校(高専)、大学の研究所、2005年に建設された府立の養護学校(現特別支援学校)といった学校教育施設のほか、海上保安庁の施設等機関である海上保安学校、公共職業能力開発施設である職業能力開発短期大学校がある。 2003年(平成15年)より京都精華大学と協同で、舞鶴自然文化園の活用による地域づくりなど様々な分野で連携を深めており、2005年(平成17年)3月3日には市と京都精華大学が「舞鶴サテライト事務所」を設置することで合意、それに先立ち「準備室」が開設された。 大学
専修学校高等専門学校
高等学校3校が設置されている。 中学校7校が設置されている。
小学校20校が設置されている。
特別支援学校学校教育以外の施設
交通鉄道広域的な交通として、西日本旅客鉄道(JR西日本)の特急列車が乗り入れまたは接続している。なお、乗り入れる特急は東舞鶴駅を始終着駅としているほか、西舞鶴駅にも停車する。 なお、北陸新幹線の敦賀駅以西のルート検討で、福井県小浜市・舞鶴市を経て京都駅へ繋ぐ「舞鶴・京都ルート」案があり、京都府関係者が強く推していたが、国土交通省の調査結果では費用対効果が得られないこともあり、与党の整備新幹線建設推進プロジェクトチームが小浜市から京都駅へ直行する「小浜・京都ルート」を採用し[63]、実現の可能性はほぼ消滅している。
バス京都・大阪・神戸への高速バスがある。 1991年(平成3年)8月11日に舞鶴と東京を結ぶシルフィード号が、京都交通と京浜急行電鉄(現・京浜急行バス)の共同運行で運行開始した[64]が、2019年(令和元年)5月12日の運行をもって運行終了となった[65]。 道路1991年(平成3年)3月26日に舞鶴自動車道(現・舞鶴若狭自動車道)の福知山IC - 舞鶴西IC間が開通し、市内初の高速道路が開通した。また1998年(平成10年)3月8日には京都縦貫自動車道の舞鶴大江ICが開通、同年3月18日には舞鶴西IC - 舞鶴東IC間が開通し、ようやく高速道路網が整備された[66]。 2006年(平成17年)11月8日に舞鶴市東地区と綾部市上林地区を結ぶ、府道舞鶴和知線の「菅坂バイパス」(延長2.3キロ)が開通した[67]。 2018年から国道27号西舞鶴道路の整備が開始された。同道路は通過交通向けの西舞鶴市街地回避バイパスであり、慢性的に交通集中が起こりがちな市街地内国道の渋滞・交通量減少に期待が持たれている[68]。 なお、これは南北に市街地をバイパスするものであり、別計画で東西に市街地をバイパスする臨港道路上安久線・和田下福井線が以前より事業中であるが、こちらは最終区間の工事が遅々として進んでいない[69]。 高速道路国道府道
市道
船舶韓国の釜山港、東海港、ロシアのウラジオストク港、日本の神戸港などと国際貨物を運ぶ定期航路が結ばれている[70]。舞鶴 - 束草(韓国) - ザルビノ(ロシア)航路が検討されたことがある。旅客用には下記のほかに休止中の日韓露フェリー航路がある。 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事室町時代から安土桃山時代にわたって丹後国の国府として発展し、数多くの史跡がある。また、かつて舞鶴鎮守府が設置されていた関係で、旧海軍に由来する施設も多い。 「倉庫群と舞鶴湾」を望むコースは、遊歩百選にも選ばれている。 2021年12月18日から2022年2月27日の期間限定で、年末年始除く土・日・祝日には、点在する観光名所を循環する舞鶴ループバスが運行されていた[71]。 名所・旧跡国の文化財・天然記念物など
木
遊覧船建物
博物館等施設
神社寺院
公園・体験型施設
海水浴場渡し船によるスキューバダイビングも行われている。 宿泊施設
祭事・催事
文化・名物方言舞鶴市では近畿方言の一種である舞鶴弁が話される。舞鶴市は旧丹後国であるが、舞鶴弁は宮津市などで話される丹後弁とは違いが大きく、綾部市などで話される丹波方言に近い。 7月下旬に開催される「みなと舞鶴ちゃったまつり」に代表される「ちゃった(~された)」という方言があり、舞鶴弁のことを俗に「ちゃった弁」と呼ぶ。 ローカルヒーロー「舞鶴防衛戦隊チャッタマン」の名称はこれにちなむもの。この「ちゃった」は丹波方言や播州弁などでも使われる軽い敬語で、例えば「あの人が来ちゃった」は、舞鶴では「あの人が来てしまった」ではなく「あの人が来られた」という意味になる。「ちゃった」の現在形は「てや」または「てです」。[要出典] このほか、舞鶴弁では「しとってん」を「しているの?」という意味で使い、大阪弁のように「していたんだ」という意味では使わず、アクセントも異なる。[要出典] 名産・特産
出身関連著名人出身著名人
ゆかりのある人物
舞鶴市を舞台・撮影地とした作品舞鶴フィルムコミッションがロケのサポートを担っている[74]。 映画
テレビ・ドラマ
参考文献
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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