東洋大学
東洋大学(とうようだいがく、英語: Toyo University)は、東京都文京区白山五丁目28番20号に本部を置く日本の私立大学。1887年創立、1928年大学設置。大学の略称は東洋(とうよう)。 概観大学全体東洋大学は、1887年(明治20年)に井上円了が創設した「哲学館」を前身とする私立大学であり旧制大学である。 建学の理念建学の精神建学の精神として「諸学の基礎は哲学にあり」「独立自活」「知徳兼全」[1][注 2] を掲げている。 建学の精神の変遷について1896年(明治29年)に「護国愛理」を学是とし[2][3][4][5]、1927年(昭和2年)建学の精神であると確認されたが[6]、1970年代以降は入試案内などで用いられなくなった。 1957年(昭和32年)の入学案内から「諸学の基礎は哲学にあり」が建学の精神として用いられるようになっている[7][注 3][注 4][8][9]。 哲学館の三恩人「哲学館」の設立と発展を支援した勝海舟、加藤弘之、寺田福寿の3人を「哲学館の三恩人」としている。 とくに創立期の台風による校舎倒壊、資金難などの存亡の危機に立ち、支援の手を差し伸べた勝海舟を、井上円了は「精神上の師」と仰いだ[10]。 夜間学部の充実「哲学館」は、「余資なく優暇なき者」(資産や時間に余裕がない人々)に、「哲学を学べる場を」という趣旨で設立された。 そのため東洋大学は、日本の大学で唯一、都心キャンパスに設置した全ての主要学部に夜間学部を設置しており、さらに他大学が夜間学部を閉鎖する中、21世紀に入っても新規設置を続けており、教育格差の是正に貢献している。 東京23区内に所在する大学キャンパスのうち、東洋大学だけが全文系学部において夜間学部を継続して設置している[注 5]。さらに日本全体で「役割を終えた」として夜間学部を廃止する方向にある[11] 中、夜間学部の拡充に努めている極めて珍しい大学となっている。具体的には、2001年には社会学部に第2部社会福祉学科を新規設置した[12]。また、2009年4月に郊外型の板倉キャンパスから都心へ移転した国際地域学部には、移転時点では夜間部が設置されていなかったが、2010年に国際地域学部国際地域学科を2専攻とし、地域総合専攻を夜間部として開設した[13]。 教育および研究都心から郊外へ移転した日本の大学としては日本初の全面的な都心回帰を実施、主要学部の教育および研究は都心で実施されている。さらに現在でも都心回帰を進めている。2020年3月には、板倉キャンパス(群馬県甘楽郡板倉町)の機能を東京都区部や埼玉県へ移す計画を発表した[14]。 哲学の普及を目的とする哲学館[注 6] を起源とし、1903年に専門学校令に基づく哲学館大学を設立(1906年に東洋大学と改称)、1928年に複数の哲学系学科を有する旧制大学へと発展した。戦後も哲学に関する学科が多く設置されていたが、インド哲学科と中国哲学文学科は2013年に東洋思想文化学科に再編された。サステイナビリティ学連携研究機構において共生哲学分野の研究を担うなど、哲学研究においては日本有数の実績を持っている。 学風および特色入試ガイドにアニメキャラクターであるムーミンを使用する、日本の大学が主催して行う児童・生徒・学生を対象とした各種イベントの先駆けとなった現代学生百人一首を開催する、毎年新入生に同内容のアンケートを行って継続発表をした。 沿革大学令による旧制大学昇格が遅れた理由については境野事件も参照。 略歴1887年に井上円了が哲学館を創設。その後、専門学校令に基づき哲学館大学となり、井上引退後の1906年に東洋大学と改称した。1918年に大学令が公布されると東洋大学もいち早く昇格運動に取り組んだものの、資金不足と学校騒動により大学昇格は大幅に遅れた。第二次世界大戦後は仏教団体や経済界からの支援を受けて拡張を続け、現在は4キャンパスに14学部18研究科を設置している。 年表
基礎データ所在地
象徴校歌
校章1893年に前身である私立哲学館が定めた制帽の図案(八咫鏡)にならい、「知の徳」を象徴するマークである。 スクールカラースクールカラーは鉄紺(ごく暗い紫みの青)。1994年に設定されたコミュニケーションマークは、青を基本色、赤を補助色として定めていた。創立125周年(2012年)に現在のブランドマークに変更された[79]。
教育および研究組織学部
詳細は「東洋大学大学院社会学研究科・社会学部」を参照。
詳細は「東洋大学大学院情報連携学研究科・情報連携学部」を参照。
詳細は「東洋大学大学院理工学研究科・理工学部」を参照。
詳細は「東洋大学大学院総合情報学研究科・総合情報学部」を参照。
研究科
短期大学部東洋大学短期大学は1950年に夜間帯に講義を行う東洋大学短期大学部として設置された。1963年には1部を設置、1966年には東洋大学短期大学と改称した。 しかし、短期大学を志望する受験生の減少や白山キャンパスの効率利用の観点からまず2001年に観光学科を国際地域学部国際観光学科として改組、2002年には英文学科を文学部英語コミュニケーション学科として、日本文学科を文学部国文学科と統合して文学部日本文学文化学科として、それぞれ改組した。これをもって短期大学は廃止となり、現在は東洋大学に短期大学部は設置されていない。 通信教育課程2017年度の入学生をもって募集を停止した。[80]
東洋大学では1950年代後半にテレビジョンを使用した学内教育およびを実現するための研究が行われていた。文学部社会学科の米林富男を中心に大学教育におけるテレビの利用研究が行われていたが、その後遠隔地での大学通信教育にテレビを使用する研究が中心となっていった。1950年代当時、在日米軍が使用していたVHF12チャンネルが返還されるらしいという情報を元に東京証券取引所会員各証券会社は、証券取引に関する情報を東京都内の各証券会社支店へ配信するために日本証券テレビの設立を検討していた。東洋大学では日本証券テレビの空き放送時間帯を利用して大学通信教育を実施しようという計画を持っていた。さらにテレビ放送と同時にラジオ放送による通信教育も検討されており、1958年7月には超短波FM試験電波の割り当て申請を行っている。12月20日に東洋大学に学内放送用のスタジオを設置した際には超短波でテレビ・ラジオともに試験放送の送出可能な設備が設置された。まずは超短波放送からスタート、将来的にはテレビ放送も実施してラジオ・テレビの両面から勤労学生や社会人が学習できる環境を構築しようという壮大なものであった。この構想自体は、各大学の大学教員が教鞭をとり、テレビとFMラジオで講義を実施している現在の放送大学とかなり酷似しているが米林の構想が母体となっているかどうかは不明である。また、米林の論文によれば、将来的には首都圏の各大学が得意とする分野を分担して担当する大学教育放送局を立ち上げる構想もあり、塩狩(北海道)・仙台・大阪・福岡に支局をつくるという具体的なプランまで示されていた。さらに文部省はこの構想に興味を示しており、実際に1958年までの数年間にわたって、研究助成金を出していた。また、郵政省も電波行政の観点から大学による教育放送局に賛成しており、東洋大学と東海大学の試験局には一部補助金も拠出していた。 その後、超短波FM放送の試験放送自体は実施されたが、日本証券テレビ構想の挫折、郵政省と文部省の方針転換、VHF12チャンネルがなかなか返還されなかったことなどが重なったことからテレビ放送を断念することとなった。当初よりラジオのみの構想であった東海大学がFM東海から実放送局(→FM東京。現在のTFM)へ発展できたとは異なり、テレビ放送を念頭に置いていた東洋大学は構想の縮小を余儀なくされ、学内ケーブルテレビを使用した学内向けの放送授業へ転換することとなった。 附属機関かつて大学附置研究所と言う名称であったが、現在は附属研究所・センターと呼んでいる。
研究21世紀COEプログラム21世紀COEプログラムとして、1件のプロジェクトが採択された。
私立大学学術研究高度化推進事業文部科学省よりそれぞれの事業分野に関して以下のセンターが採択を受けて研究が行われている。
学術研究推進センター
教育
学生生活サークル活動
学園祭学園祭は各キャンパスごとに実施されている。白山祭は、学生運動、ロックアウト等で中断したため、工学祭→こもれび祭より開催回数は少ない。また、文系5学部が都心回帰する前は朝霞祭という名称で白山祭と同時開催であった。
スポーツ
大学関係者と組織大学関係者組織
大学関係者一覧施設キャンパス
東洋大学のキャンパスは白山を中心に4カ所に散らばる。白山から見て朝霞と川越は交通の便が不便であるが、これは都営地下鉄三田線の延伸・東武東上線乗り入れ計画を念頭に置いて校地取得を行ったためである[要出典]。この計画は凍結されたため、東洋大学ではキャンパス間の交通の便の悪さが懸案のまま残ってしまった。なお、文系5学部を白山へ統合した背景には交通の便の悪さもあるのではないかと学内で発行されている学生メディア[要文献特定詳細情報]が書いている。 白山キャンパス1897年に東京市本郷区駒込蓬莱町から小石川区原町字鶏声ヶ窪(現在地)に移転した時から存在するキャンパスで、戦前は「原町校舎」と呼ばれていた[23]。文学部、経済学部、経営学部、法学部、社会学部、国際学部、国際観光学部が使用。 →詳細は「東洋大学白山キャンパス」を参照
赤羽台キャンパス2017年設置[73][87]。現在は情報連携学部、福祉社会デザイン学部、健康スポーツ科学部が使用。 →詳細は「東洋大学赤羽台キャンパス」を参照
川越キャンパス1961年設置。現在は理工学部、総合情報学部が使用。 →詳細は「東洋大学川越キャンパス」を参照
朝霞キャンパス1977年設置。文系学部の教養課程を講義するために建設されたキャンパス。2024年から、生命科学部、食環境科学部が使用。 →詳細は「東洋大学朝霞キャンパス」を参照
清水町キャンパス2011年設置。東洋大学総合スポーツセンターが開設されている。 サテライトキャンパス過去に存在したキャンパス白山第2キャンパス国際地域学部、法科大学院、国際地域学研究科などで使用されていたキャンパス。既存施設を全て解体し、延べ約1万9900㎡規模の新校舎を建設する。2015年度より京北中学校、京北高校が使用している。 →詳細は「東洋大学白山キャンパス」を参照
板倉キャンパス1997年設置。2024年、生命科学部、食環境科学部が朝霞キャンパスへ移転したため使用学部なし。 →詳細は「東洋大学板倉キャンパス」を参照
学生食堂白山キャンパス
赤羽台キャンパス
かつて東洋大学の学生食堂の一つに、16階建ての白山2号館に設置されたものがあった。周囲に高い建物が文京区役所くらいしかないため、大変に見晴らしが良く、特に夜景を楽しめる学食として学生教職員に親しまれていた。また、『東京ウォーカー』が東京都内の学食を特集した際に夜景がきれいな学食として紹介して以来、学生教職員以外の利用も増えており、安く夜景が楽しめるレストランとしても利用されていた。そして6号館の地下食堂は、テレビ東京の『アド街ック天国』が白山・千石を特集した際に第5位にランキングされた[88]。 学生寮かつて小石川寮と西片女子寮が存在していたが、現在は廃寮となっており、小石川寮は現在は運動部の合宿所となっている。 セミナーハウス対外関係海外拠点
他大学との協定 (海外)
他大学との協定(国内)
委託聴講制度における協定校
高大連携地方自治体との連携社会との関わり哲学堂東京都中野区にある哲学堂公園は、元々哲学館大学の移転先として確保されていた土地である[94]。創立者である井上円了はこの土地を大学へ譲渡していたが、引退後に大学から買い戻して哲学を感じることのできる公園として整備をした。こうした関係から、東洋大学では井上円了の遺言に従って以下の概要で哲学堂祭を挙行している。 鉄道駅名1904年以降の電車の開通までは、交通機関として板橋から万世橋まで往復の乗合馬車があったが、馬車は哲学館前に来ると、「鶏声ヶ窪哲学館前」と乗降客に連呼して知らせたという[95]。 1914 - 15年頃、曙町停留所を東洋大学前とする学生の働きかけがあったが、千人以上の学生がいなければと東京市から断られた[96]。当時はまだ170 - 180名程度の学生数に過ぎなかった。 戦前から昭和30年代にかけての受験案内や鉄道地図では東洋大学の最寄停留所を曙町としているものが多く、旺文社の『全国大学大観』(昭和30年版)でも「国電巣鴨または水道橋駅より都電にて5分曙町下車」と記されている。 現在では東洋大学白山キャンパスの最寄り駅は都営三田線白山駅または千石駅、東京メトロ南北線本駒込駅となっている[97]。
川越、朝霞とキャンパス開設時には東武鉄道へ駅名の変更(鶴ヶ島駅→東洋大川越キャンパス前、朝霞台駅→朝霞東洋大前)を要請したが、いずれも受け入れられなかった[要出典]。また、営団地下鉄(東京メトロ)南北線開業時にも本駒込駅を東洋大前にするように働きかけたようだが[要出典]地元地名が付けられた。そのため、板倉キャンパス開設時に「板倉東洋大前駅」という名前の駅が出来たことは東洋大学関係者にとっては悲願達成だったらしく[要出典]、板倉キャンパス開学式典で当時理事長だった塩川正十郎は駅名が付いた喜びを語っていたほどである[要出典]。 竹中平蔵を批判する立て看板事件2019年1月、文学部哲学科4年の学生が、「竹中平蔵による授業反対!」と書いた立て看板設置し、ビラを配り、グローバル・イノベーション学科教授で元総務大臣の竹中平蔵を批判(※以下)を行った
10分後に大学関係者に撤去された後、学生課の男性職員4、5人に2時間半にわたって事情聴取され、その中で、
などとの発言も受けた。 キャンパス撤退における地元自治体との事案東洋大学は、少子化で学生の確保が難しくなり競争率や偏差値の低下を懸念し、学生からの人気が高まっている都内近郊へキャンパスを集約する方針を示した。その流れで東洋大学板倉キャンパス(※都内の北千住駅から東武日光線で最寄りの板倉東洋大前駅まで急行で約1時間かかる)を撤退し、東洋大学朝霞キャンパス(埼玉県)に移転する表明をした。 キャンパス移転の連絡を受けた際、群馬県知事は2人の副知事を含む関係部局の幹部を招集し、東洋大学に移転を考え直してもらうため「県として提供出来る最大限の支援策[注 19]」を盛り込んだ、東洋大に提出する「県の支援のパッケージ」の中身を練り上げた。東京(白山)のキャンパスで、知事自身がこの提案を、理事長を含む幹部たちの前でプレゼンを行った。また大学側から(再三に渡り)「通学の鉄道ダイヤが不便だ」という指摘があった為、東武鉄道の社長とも面会した。しかし、その後、大学側から事実上の撤退声明となる文書が公表された。 群馬県知事の山本一太は、県議会の質疑答弁において、東洋大学の板倉キャンパス撤退を以下の理由により「県・地域と東洋大学との長年に渡る信頼関係を踏みにじるかのような大学側の『あまりに配慮に欠けた対応』」として、憤懣の意を表した[111][112]。
板倉町は、県、大学、町の三者で話し合いの条件整理を含め他大学の撤退例等を参考に話し合いを進め、東洋大学側に対して町の姿勢は示してはいるが、東洋大側からは「キャンパスは移す」以外具体的な方向性は示されていない現状に対し、以下の様に、大学側の姿勢に対し不信感を示している 地元でも懸念の声が広がっており板倉町商工会は「地元には学生向けアパートを経営している不動産業者やキャンパス内で店舗を運営している企業もあるので、先行きを心配している」との見方を示した[114]。 ライフデザイン学部が北区の校舎に移転する際も、朝霞市議会の黒川滋が「地方がほしがっている大学から、あっさり去られたのは残念です。とりわけこれからの地域運営に重要な戦略となる福祉政策のブレーンであった東洋大学ライフデザイン学部がなくなったことは、ボディーブローのようになってくるように思います。 また地域のさまざまな福祉活動をしている団体にとっても、学生ボランティアとの連携を受けているとこも少なくなく、影響は小さくなさそうです。」との意を示している[115] 大学の都心回帰により、大学が撤退した街の住民からは「大学誘致を決めた行政には、もっと地域の開発に責任を持ってもらわないと困る」などの意見が出ており、実際に(キャンパス移転後の)跡地がどのように活用されるかは見通せない状況は、各地で見られるが、東洋大学が都心回帰により志願者を増やしたケースが他大学の都心回帰も促したとする意見もある[116]。 入試制度への文部科学省から「ルール違反」との指摘東洋大学が2024年から、開始した新入試制度が、文部科学省より「ルール違反(実施要項に反している)」との指摘を受けた。 東洋大の新入試は、年内(12/1)に行われ、生徒と学校長の名前を書いた推薦書を提出するものの、実質的に「英語・数学」か「英語・国語」の2教科のテストで合否が決まり、合否は12/10に発表される。 しかし、文科省が公表する「大学入学者選抜実施要項」(※全国の大学や高校ごとの団体などが参加した「大学入学者選抜協議会」で合意されている)には、学校推薦型を含めて「個別学力検査の試験期日は2月1日から3月25日までの間」と明記されている、すなわち「学力試験を課す東洋大の新入試はルールに反する」というものである。 上記の試験期間に加え、学校長からの「推薦書」のあり方も問題点も指摘されている。
10月の協議会の会合では、(東洋大と名指しはしなかったものの)高校側から以下のような強い批判が出でいる[119]。
文科省大学入試室の担当者は「(東洋大の新入試は)実施要項に反している。大学にも『検討のうえ対応を』と伝えた」と明かした。
この状況を受け、東洋大と難易度が同程度といわれる都内私大の関係者は「うちを受けてくれたはずの、一定の学力のある学生を奪われるので、ディフェンスのためにも追随せざるをえない。ただルール違反という指摘は気にしており、準備をしつつ最終判断はもう少し先になる」と打ち明け、他大学も追随する可能性をほのめかしている。同様の入試が広まった場合、以下の様な影響が想定されている[126]。
文科省は、今後、関西の大学にも実施要項に定めた試験期日を守るように要請し、協議会で対応を決める方針[132]。 附属学校現在、以下の学校が東洋大学の附属学校となっている。 過去の附属学校
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出典
参考文献
外部リンク |