千葉工業大学 (ちばこうぎょうだいがく、英語 : Chiba Institute of Technology )は、千葉県 習志野市 津田沼 2丁目17番1号に本部を置く日本 の私立大学 。1942年 創立、1942年 大学設置。大学の略称 は「千葉工大(ちばこうだい)」または「工大(こうだい)」、英称では「CIT」または「ChibaTech」。
概観
大学全体
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第一期生入学式記念写真(1942年 6月8日 、玉川学園内にて撮影)
千葉工業大学は、成城学園 の創立者である澤柳政太郎 と玉川学園 の創立者である小原國芳 が、明治 から昭和 にかけて行ってきた教育活動とその研究に基づいて設立された理工系大学 でした[ 1] 。明治以来一般的だった単なる専門家 や技術者 といった養成を超えて、国家や世界を導く創造的なリーダーの育成を目指して設立されました。大学の教育理念は、欧米の進歩主義教育と、江戸時代の吉田松陰 や広瀬淡窓 などの先哲たちの思想を融合したもので、松下村塾 や咸宜園 の精神を基盤とし、20世紀初頭の欧米で起きた新教育 運動の影響を受けています(詳細は「興亜工業大学設立趣意書」参照)。
大学は、第ニ次世界大戦中に、大戦後の創造的な人材の育成も視野に設立され、初代学長は京都帝国大学 の元総長である小西重直 が務めました。大学の教育は理工系人材たる前に紳士たれという理念のもと全人教育 を基本にリベラルアーツ 教育と人間教育などが重要視され、制服は一般的な学生服ではなく、紳士服を採用し、日本の「ジェントルマン」たる姿勢を備えた人格形成を目指し、個性の伸長にも注力しました(千葉工業大学50年史より)。
日本の多くの教育機関(帝大、陸士、海兵、その他の私学の多くも)が西欧主義に偏り、西洋の専門的な知識を一方的に詰め込む教育が主流[ 2] となる中、千葉工業大学は個性や自主性、リーダーシップを尊重する教育を重視しました。この設立背景には、日本が世界で生きていくためには人材教育が重要であるという考えのもと、国際社会で活躍できる「人づくり」の重要性が強く意識されていました[ 3] 。
しかし、当時の日本社会と教育には、大きな問題がありました。日本は西洋化 の過程で欧米の制度や文化を取り入れましたが、その中で個人的自覚を促す思想(後に利己主義 に変質してしまう)の他、エリート と呼ばれる階級主義や権威主義 的な価値観も広まりました。日本は欧米のエリートによる統治体制に習い、試験と学歴による選民システムを構築しました。しかし、段々と選民主義で選ばれたエリートたちは自分の地位や能力に過度の自負や優越感を持つようになり、利権や特権を築いたり、学閥や派閥を作って自己の利益を追及したり争うようになりました。このエリート主義と社会的風潮を下支えしたのが学校と日本人の社会的な意識で、日本人の誰もが競争を通じて良い点数を取ってエリートになる(出世する)ことを目指すようになりました。さらにこの風潮は、学校に通う子供たちを取り巻く親たちの思想にも伝統的に大きな影響を及ぼしており、子供の親たちが教育現場に強い影響力を持ち、教育に干渉することもよくありました[ 4] 。このため、子供たちはそうした親たちの声や思想の刷り込みもあり、テストの点数を取る(良い成績を取る)ことに集中してしまい、成績さえ良ければ良い、試験さえ取れれば何でも良いという偏った風潮や信仰[ 5] が広まり、教育の本質的な側面を見誤るケースも多くありました。
教育者・小原國芳は「何のために学ぶのか」といった教育の本質的な意味や目的が見失われ、ただ点取り合戦をしている当時の教育現場の惨状を見て危機感を抱き「点取り虫」「棒暗記」「一夜漬け」「攻略法教育」「試験勉強」「カンニング問題」といった表現を用いて、社会的な風潮や現状の教育の偏りを批判しました。小原は、現状の教育や評価基準は、薩長出身者優位の是正を目的に導入されたものの、「試験の点数を人物評価の中心に置く方法」に偏っていると指摘し、科学的視点に基づいた教育と評価の必要性を強調すると共に、暗記と試験を中心とする点数競争による教育から脱却し、本質的な知識と資質の育成を重視するべきだと訴えました[ 6] 。そして生徒の創意や工夫、発明、アイデアを大切にする教育の必要性を訴え、ただ教師などに言われたことが出来る様に訓練するための教育では無く、生徒があらゆる困難な状況や時代に置かれたとしても自分自身の頭を使って創造しながら問題を解決していける力を養うための教育を重視するべきだと主張、生徒たちが実際の問題に向き合い、それを克服する過程で責任感や根気強さを培うべきだと現状の教育方針の転換を求めました[ 7] 。彼の提唱は、現状の教育の価値観や方向性を見つめ直す契機となり、より幅の広い視点での教育改革を模索するきっかけになりました。そして歴代の海軍兵学校校長関係者を中心に賛同者を得る様になり、合同教育研究会などが度々開かれるようになった。
さらに明治以降、日本のエリート教育とそれを取り巻く状況は人事や任官にまで影響を与え、学校の成績や順位を基にした「ハンモックナンバー 制度」によって人選が行われていました。第ニ次世界大戦(太平洋戦争 )中の日本では、この学校の成績や順位を基にした「ハンモックナンバー 制度」によって柔軟な人材配置の妨げとなり敗戦へとつながったといわれています。このように創立者たちは、国家を左右する人間を人選する際に、対象者の性格や能力、個性といったもっと広い観点から人選せず、こうした状況下の学校の成績や年功序列だけで本当に国家の未来を担う人材を決めて良いのかということを戦争前から危機感を抱いていました[ 8] 、そして、日本や世界を担うリーダーを一から新しく養成するために本学の設立を計画するようになりました。
計画当初、小原ら関係者は滝川事件 などの経験から国立教育の限界[ 9] を感じ、自由と多様性がある私学こそ国家を支える人材を養成するのに相応しい環境であると考え「明治維新 の大業は私学 が成した[ 10] 」と私学教育の重要性を説いた。幕末期の日本の松下村塾やヨーロッパのパブリックスクール などの影響を受け、当初「玉川塾工業大学 」として玉川学園 が経営するプライベートの全寮制 大学として計画された[ 11] が、当時の社会的風潮(全体主義や軍国主義)に反する教育理念(個性尊重や自由主義)を掲げていたため、軍部や旧来の教育をする関係者からの反発や圧力が強く、設立は難航しました。しかし、橋田邦彦 文部大臣 をはじめ、皆川治広 東京市 教育局長、小西重直 元京都帝国大学 総長、本多光太郎 元東北帝国大学 総長、平賀譲 東京帝国大学 総長、八木秀次 東京工業大学 学長、西田幾多郎 京都帝国大学名誉教授、波多野精一 同教授などの教育界関係者はじめ、政治家の東郷実 、森コンツェルン の森矗昶 ・森曉 親子、東京川崎財閥 の川崎守之助 をはじめとする財政界の支援を受けていた。また、数は少なかったものの、皇族 で、陸軍大将の東久邇宮稔彦王 を筆頭に、大日本帝国海軍 では永野修身 元帥 海軍大将 や財部彪 海軍大将、山梨勝之進 海軍大将などが、大日本帝国陸軍 では菱刈隆 陸軍大将 や土肥原賢二 陸軍大将などの軍関係者も小原の考えに共感し、長年に渡って小原を支援していた。特に、激しい反対・抵抗勢力がいる中で、大学設立計画が成功したのは東久邇宮稔彦王・永野修身海軍元帥の働きかけと、橋田邦彦文部大臣の尽力が寛大だったと言われている。大学設立申請の途中(近衛文麿 内閣時)で、文部省 (現:文部科学省 )の指導によって、日本だけでなくアジアや世界を視野に国策 的な意図をもった大学 へと発展して、太平洋戦争 (大東亜戦争 )中の1942年 5月15日 (東条英機 内閣時)に「興亞工業大學 」の名称の6年制の理工系大学として玉川学園 内に設立されました[ 12] 。
戦前当時の日本で6年制の理工教育を行うことを許可されていた大学は帝国大学 各校と東京工業大学 、そして私立大学 では早稲田大学 理工学部と慶應義塾大学 理工学部(旧藤原工業大学)と千葉工業大学(旧興亞工業大學)の3校のみであった。また、当時の旧制大学の中では珍しく創立時から大学院 の設置も構想されていたという[要出典 ] 。
大学設立の際には東京帝国大学 と東京工業大学 から全面的な支援を受けたが、不足していた実験設備や実験機器などは東大・東工大の取り計らいにより共同利用させてもらうことで対処した。
創立時は戦争中だったこともあり、日本全体が国への奉公一辺倒の時代だったが、興亜工業大学(現・千葉工業大学)では、まだ自由な雰囲気があり急な大学設置で、開校当初はすべての建物がまだ完成していなかったため、大学予科の英語や音楽、古典、道徳などの教養科目の授業を青空教室で行なったという。だが結果的に、この授業方式は生徒と先生との関係(先生を囲んでの授業)において建学の精神である「師弟同行」に近いものとなり、好まれたという。当時の在校生の回想録では『いずれの授業も和気あいあいとした授業で、文字通り、いい意味での「エコール・ビュイソエール(みどりの学園)」であった』と称している。授業は学内のみでなく神社や寺、河川敷、喫茶店などでも行われ、ある時は「百聞は一見に如かず」「百聞は一労作に如かず」との教育理念のもと、小原國芳の発案で観光バスを連ねての東京名所の見学会が行われたり、第一ホテル などでテーブルマナー の講習会などが行われたりもしたという[要出典 ] 。このような環境は、学生と教員との関係を深め、自発的な学びを促進しました。しかし、当時の学生の中には軍国思想に染まっているものも少なくなく、こういった自由な雰囲気に馴染めず、大学を中退して軍学校などに入りなおす者もいたという。
1944年(昭和19年)には大学本部と本科を東京都千代田区 に大学予科を神奈川県 川崎市 へ移転。この時、学徒出陣によって空となっていた上智学院の校舎に移転した際、同学院との合併問題が文部省筋で浮上、実際に合併した際の校名を『麹町大学』とし具体的な要綱も作られ併契約書の案文を作成するところまできたが、上智学院側の役員だったナチスドイツ の神父の署名が得られず、交渉は1945年(昭和20年)5月22日に打ち切りとなった。
戦時を通じ一部の理工系学生は徴兵を猶予されていたため、1943年(昭和18年)に実施された学徒出陣壮行会には出席していない。代わりに1944年(昭和19年)8月23日から学徒勤労令に基づき、兵器開発や生産など、陸軍・海軍関係の研究所や工場、松代大本営 の造営などに動員された。この時、航空工学科の学生は東大航空研究所(現・宇宙航空研究開発機構-JAXA)に派遣され、糸川英夫のもとで航空機の研究開発を手伝った。中島飛行機三鷹工場の動員先では空襲で学生1名、引率の教員1名が犠牲となっている。また、この時期になると技術将校養成の高まりから陸軍士官学校 や海軍兵学校 などの士官学校と合同訓練が行われるようになった。
太平洋戦争 が終結すると1946年 (昭和21年)には千葉県 君津町(現・君津市 )へと移転し、校名を「千葉工業大学 」と改称[ 13] 。一時は創設準備中の千葉大学 や芝浦学園 、早稲田大学 、中央大学 、法政大学 等との合併も検討されたが[ 14] 、1950年 (昭和25年)に同県津田沼町(現・習志野市 )の津田沼 校地へ移転し現在に至っている。
設置科は3学部11学科、大学院 3研究科修士 課程8専攻・博士 後期課程3専攻で、学生数は約1万名[ 15] 。また津田沼駅 前にある津田沼キャンパスと新習志野キャンパス、および東京スカイツリー キャンパスの3つのキャンパス を有する。
2018年度の志願者数は78,905人で日本の私立大学[ 17] の中で第10位である。2023年度には志願者数は14万5128人で、全国第2位[ 18] に達している。
現在、千葉工業大学は、日本の私立理工系大学としては藤原工業大学 (後の慶應義塾大学 理工学部 )に続き、国内で2番目に古い歴史を持ち、現存する私立理工系大学としては最古の歴史を有する[ 12] [ 19] 。なお国公立の理工系大学を含めても東京科学大学 (旧東京工業大学 )に次ぐ歴史を持つ(2024年10月に東京工業大学が東京科学大学へと統廃合したため、日本国内の工業大学 としては現存最古の大学となった)[ 注 1] 。
教育および研究
大学全般
本学の基礎は、教養教育においては小西重直 博士、小原國芳 博士、本間俊平 によって、工学教育においては本多光太郎 博士、八木秀次 博士によって築かれた(千葉工業大学五十年史刊行委員会『千葉工業大学五十年史』千葉工業大学、1992年を参照の事)。
研究活動の特徴
2003年 には全国初の学校法人直轄の研究所 として「未来ロボット技術研究センター 」を設置している。同じように2009年には「惑星探査研究センター 」を、2015年には「人工知能・ソフトウェア技術研究センター」を、2016年には「国際金融研究センター」と「次世代海洋資源研究センター」を設置した。
運用システム
2005年 より、多機能ICカード 型の学生証を導入している。
2007年 より、NTTドコモ の端末が当時の芝園校舎全教室(翌年からは津田沼校舎も)に設置され、全授業でICカードによる出欠確認システムの運用が開始されたが、2015年度をもって使用終了し、端末も2016年度後期までに撤去された。
2016年より、入学時に貸与されるiPad miniにインストールされているアプリ を用いた出席システムの運用が開始された。
組織
学部・学科
工学部
機械工学科
機械電子創成工学科
先端材料工学科
電気電子工学科
情報通信システム工学科
応用化学科
創造工学部
先進工学部
未来ロボティクス学科
生命科学科
知能メディア工学科
情報科学部 (2024年4月学生募集停止)
社会システム科学部 (2024年4月学生募集停止)
情報変革科学部 (2024年4月開設)
未来変革科学部 (2024年4月開設)
大学院
工学研究科 (博士前期課程 ・博士後期課程 )※2019年度入学生まで
機械サイエンス専攻
電気電子情報工学専攻
生命環境科学専攻
建築都市環境学専攻
デザイン科学専攻
未来ロボディクス専攻
工学研究科(博士前期課程・博士後期課程) ※2020年度入学生から
機械工学専攻
機械電子創生工学専攻
先端材料工学専攻
電気電子工学専攻
情報通信システム工学専攻
応用化学専攻
創造工学研究科(博士前期課程・博士後期課程) ※2020年度入学生から
先進工学研究科(博士前期課程・博士後期課程) ※2020年度入学生から
未来ロボティクス専攻
生命科学専攻
知能メディア工学専攻
情報科学研究科 (博士前期課程・博士後期課程)
社会システム科学研究科 (博士前期課程・博士後期課程)
廃止された学科
(旧制大学)
工学部
航空工学科 (1942-46・機械学科に編入)
工業経営学科 [ 注 2] (1942-46・機械学科に変更)
機械学科(1946-50・機械工学科に学科名変更)
冶金学科 (1942-1950・金属工学科に学科名変更)
(新制大学)
工学部
機械工学科 (1950-2003・機械サイエンス学科に改組)
金属工学科 (1950-2003・機械サイエンス学科に改組)
工業経営学科(1950-2001・社会システム科学部に改組)
電気工学科 (1953-2003・電気電子情報学科に改組)
電子工学科 (1961-2003・電気電子情報学科に改組)
工業化学科 (1961-2003・生命環境科学科に改組)
土木工学科 (1963-2003・建築都市環境学科に改組)
建築学科 (1963-2003・建築都市環境学科に改組)
精密機械工学科 (1966-2003・機械サイエンス学科に改組)
工業デザイン学科 (1988-2003・デザイン科学科に改組)
情報工学科(1988-2001・工学部から情報科学部に改組)
情報ネットワーク学科(1997-2001・工学部から情報科学部に改組)
プロジェクトマネジメント学科(1988-2001・工学部から社会システム科学部に改組)
(工学部再編前)
沿革
年表
創設時に校舎が存在した玉川学園 (1942年 )
一時期校舎を構えた上智大学 (1944年 - 1945年 )
移転当初の津田沼 キャンパス(1950年 )
津田沼キャンパス(2012年 )
年
月日
沿革
1929年
4月
小原國芳 が成城学園 から分離し、町田 に財団法人玉川学園 を設立。幼稚部 ・初等部 ・中等部 を設置する。
6月
永野修身 海軍兵学校 長が学園視察に来訪。最高学府である大学設置構想を説明する。
1939年
9月
大学設置に向けて中等部の上に専門部(玉川塾 )を設置し、森矗昶 の協力を得て産学連携 による実践教育を開始。
1940年
9月
東久邇宮 が学園視察に訪れ、大学設置の構想が本格化する。
1941年
6月
「玉川塾工業大学」設置許可申請を文部省 (現・文部科学省 )に行うが受理されず。
12月8日
太平洋戦争 開戦 興亞工業大學設置許可申請文部省(橋田邦彦 文部相)受理[ 注 3] 。
1942年
5月15日
東京府 町田町 (現東京都 町田市 )の玉川学園 内に「興亞工業大学」の名称で創立(予科 3年・本科 3年)小原國芳 が理事・学監、東郷実 が理事長、小西重直 が学長、本多光太郎 が顧問に就任。
5月24日
成城中学 、早稲田中学 で第1回入学試験を実施。
6月8日
開校式を実施。航空工学科(50名)、冶金学科(50名)、機械学科(60名)の160名が入学[ 注 4] 。
1943年
7月
小原國芳が理事・学監を辞任。森曉が2代目理事長に就任。
10月30日
顧問(顧問教授)の本多光太郎の後任として、東京工業大学学長の八木秀次 が相談役に就任し、新体制が決定する。
1944年
4月
玉川学園内から予科・財団本部が、皇居 近くの東京市 麹町区 紀尾井町 上智学院(上智大学 )内に移転。
9月
神奈川県 川崎市 大師河原 の日本冶金川崎製造所 構内に学部(本科)仮校舎の使用許可を取得。
10月1日
日本冶金川崎製造所内に工学部 (本科)を開設。
1945年
4月13日
東京空襲 によって麹町本部・予科校舎が全焼。
5月25日
東京空襲の余波で川崎 学部校舎も罹災。
9月
東久邇宮内閣 によって太平洋戦争(第二次世界大戦 )の日本の降伏文書 調印。君津 の旧海軍施設の借用認可を申請、東京残留学生の授業を東京工業大学 に委託。 戦災による実験設備の損失から学生 を東大 、東工大 、東北大 などに預け、卒業研究を開始。
11月11日
君津の旧海軍第2航空廠八重原工員養成所設等の施設(君津校舎)の設営管理を開始。
1946年
3月30日
東京から千葉県 君津町 に移転、教員・学生の意見一致のもと校名を「千葉工業大学」に改称。
12月4日
玉川学園側との会談の結果、小原國芳 から寄贈された土地・建物を清算して不動産 を所有しない大学となる。
1947年
2月7日
君津校舎のうち寮、食堂、図書館などを含む3/4が漏電 による火災で延焼。
3月
公職追放 の影響を受けて2代目理事長の森曉 、学長の小西重直 などが大学を去る。
9月30日
第1回卒業式。
1948年
4月
田中航空機器製作所津田沼 工場の施設を学部校舎・寮として使用する為に文部省に認可申請。 予科寮を旧君津海軍病院 施設に移転。
12月
千葉大学 (当時設立準備中)への統合案が出るが教員・学生が反対し回避される。
1949年
4月
新制大学 となる。
11月26日
PPA創立。
1950年
旧鐵道第2聯隊 跡地(現・津田沼校舎)を取得し、大学機能を移転。
1953年
11月
校歌制定。電気工学科 を増設。
1954年
10月7日
大久保の旧軍施設(旧陸軍習志野学校 )を取得。
1955年
電気工学科第2部を増設。
1961年
3月10日
電子工学科 、工業化学科 を増設。
1962年
8月
千種校地を取得。
12月20日
土木工学科 、建築学科 を増設。
1964年
4月1日
日本私立大学協会常務理事校となる。
1965年
8月11日
大学院修士課程(工業化学科、金属工学科)を設置。
8月11日
飯岡研修センターを開設。
1967年
3月31日
千種寮が完成。
1968年
千葉市千種校地に電子計算センター完成。
1972年
千種校地に硬式野球場・武道館完成。
1986年
芝園校舎(現・新習志野校舎)が完成。
1987年
茜浜運動施設(茜浜校地)完成。
1988年
工学部第一部情報工学科、工業デザイン学科を新設。
1989年
大学院工学研究科博士課程(金属工学専攻・工業化学専攻) 修士課程(機械工学専攻・電気工学専攻・電子工学専攻・建築学専攻)を増設。
1990年
第2部電子工学科・情報工学科・建築学科を増設。 大学院工学研究科博士課程(土木工学専攻)修士課程(精密機械工学専攻)を増設。
1991年
第1部既設学科(金属工学科を除く)の定員を増加。 大学院工学研究科博士課程(機械工学専攻・電気・電子工学専攻)を増設。
1992年
大学院工学研究科博士課程(建築学専攻・精密機械工学専攻) 修士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設。
1994年
大学院工学研究科博士課程(情報工学専攻・工業デザイン学専攻)を増設。
1995年
大学院工学研究科修士課程(経営工学専攻)を増設。
1997年
第1部情報ネットワーク学科・プロジェクトマネジメント学科を増設。
1999年
工学部に社会人 対象教育を充実するために昼夜開講制 を導入。 ハイテクリサーチセンター開設。
2001年
工学部を改組し、情報科学部・社会システム科学部を新設して3学部制に移行。 3学部全学科に昼夜開講制を導入。
2002年
鯨生態観測衛星 「観太くん」の打ち上げに成功。
2003年
工学部9学科を5学科に改変してフレックス制を導入 (機械サイエンス学科・電気電子情報工学科・生命環境科学科・建築都市環境学科・デザイン科学科の5学科)。 未来ロボットセンターを開設。 日本の大学としては初めてとなる完全直収型光ファイバー (FTTD)LAN を構築。 大学としては世界初となる「非接触型手のひら静脈認証技術」および「多機能IC カード」を大学内諸施設へ導入。
2004年
大学院工学研究科11専攻を3研究科(工学研究科・情報科学研究科・社会システム科学研究科)7専攻に改組。
2005年
文部科学省 の特色ある大学教育支援プログラム に採択、現代的教育ニーズ取組支援プログラム に選定される。
2006年
工学部に未来ロボディクス学科を新設。
4月
御宿研修センター開設。格付投資情報センター (R&I)による格付けフォローアップ調査の結果「AA-(ダブルA・マイナス)」を維持。
2008年
フレックス制を廃止し、全学部学科とも昼間部に移行。
2009年
4月
社会システム科学部に金融・経営リスク科学科を、また、大学院工学研究科に未来ロボティクス専攻を設置。 惑星探査研究センターを開設。
2012年
5月22日
東京スカイツリーイーストタワー に東京スカイツリータウンキャンパスを開設。
2014年
2月23日
東京スカイツリータウン(R)キャンパスAreaII開設。
4月
新学生寮(桑蓬寮・椿寮)完成
2015年
3月3日
キャンパス内に千葉銀行 と共同で、千葉工大ひまわり保育園を設置。
4月1日
人工知能 ・ソフトウェア技術研究センター STAIR Labを設立。
2016年
4月
国際金融研究センター(GiFr)、次世代海洋資源研究センター(ORCeNG)を設立。
2019年
9月26日
玉川大学と連携に関する協定を締結[ 20] [ 21] 。
2023年
5月
第14代学長に伊藤穰一 を選出。任期は2023年7月1日 から2027年6月30日 までの4年間[ 22] [ 23] 。
新聞広告「科学者に告ぐ」の公示
2022年5月千葉工業大学は『千葉日報 』に「科学者に告ぐ」という表題の全面広告を掲載した。これは科学技術が軍事力に転用されることに警鐘を鳴らすものである[ 24] 。
基礎データ
所在地
大学本部(津田沼キャンパス本号館・〒275-0016 千葉県 習志野市 津田沼 2-17-1)
津田沼校地(津田沼キャンパス・千葉県習志野市津田沼)
芝園校地(新習志野キャンパス・千葉県習志野市芝園 )
茜浜校地(茜浜運動施設・桑蓬寮・椿寮・千葉県習志野市茜浜 )
千種校地(千種寮・千葉県千葉市 花見川区 千種町)
象徴
逍遙歌
桑蓬の歌
1946年 (昭和21年)学生作詞、学生作曲。
たれ邯鄲の夢に酔ひ
1946年 (昭和21年)松藤淳 作詞、山口猛 作曲。
あゝ狂瀾の
?年(昭和?年)作詞、? 作曲。
饗宴の賦
?年(昭和?年)逍遙歌。? 作詞、? 作曲。
スクールカラー
紫紺色でDICカラーガイド のDIC256が指定されている。
モニュメント「永久の環」(芝園校舎)
メビウスの帯 と無限 の記号「∞」をモチーフにしたアルミ製のモニュメント。
東日本大震災 後の修復工事の際に撤去された。
所有施設
附属の研究所
千葉工業大学工学研究所
1970年 から1975年 にかけて設置されていた、社会貢献 や産学連携 に主眼を置いた研究所。
地球学研究センター
2019年7月設立。分析化学 など自然科学 と、人文科学 に属する考古学 の学際 的研究に取り組む。古代エジプト のツタンカーメン 墓所副葬品 である鉄剣の解析などで実績を上げている[ 25] 。
学校法人直轄の研究所
未来ロボット技術研究センター
2003年 (平成15年)6月1日から、morph3の研究開発チームは科学技術振興機構 の北野共生システムプロジェクト から千葉工業大学・未来ロボット技術研究センター(fuRo)に移籍。「人とロボットの共生」をテーマに未来のロボット技術に関する研究を行っている。
惑星探査研究センター
2009年 (平成21年)4月から、松井孝典 前東京大学 新領域創成科学研究科 教授を所長に「惑星探査研究センター」を学内に開設した。センターではロボットによる宇宙探査を視野に入れ、研究を実施している。
人工知能・ソフトウェア技術研究センター
2015年に米澤明憲 を所長に迎え、学内に設立された研究所の一つ。センターでは幼児の言語獲得や学習過程の解明などを目標として研究をしている。
国際金融研究センター
2016年に小林孝雄 を所長に迎え、学内に設立された研究所の一つ。国際的な金融システムの創造や創出などを目的に研究をおこなっている。
次世代海洋資源研究センター
2016年に学内に設立された研究所の一つ。日本の次世代を担う海洋資源の調査や、新たな関連産業の創出・発展を目的とした研究がなされている。
研究
中島「橘花」
基礎科学にも優れた同大教授で海軍航空技術廠 所属の中口博 海軍技術大尉を中心に開発が進められた日本のジェット航空機。当初は中島飛行機 内で開発が進められていた単座式エンジンをもとに計画されていたが、不調だった為、計画を大幅に変更し、石川島播磨重工業 (IHI)の永野治 によって開発されたネ20 をベースに、大日本帝国海軍 の双発ジェット戦闘攻撃機としてナチス・ドイツ のメッサーシュミット社 よりデザイン等概要図を受け、日本国内で手に入るパーツや燃料等の材料で製造できるように細部を含め内部構造設計された。日本初の国産ジェット機でもある。
鯨生態観測衛星「観太くん」
この取り組みは謎が多い鯨の生態を、衛星を使って宇宙から解明することを目的に立ち上げられた試みである[ 26] 。このプロジェクトは、学生達が人工衛星 の設計、制作に携わる日本で初めてのケースとなった[要出典 ] 。また、衛星は学内の学科の域を超えて電気・電子分野、土木分野、機械工学分野、工業デザイン分野、建築分野などの学生が参加して開発された[要出典 ] 。鯨生態観測衛星「観太くん」は、2002年 12月14日 に種子島宇宙センター からH-IIAロケット 4号機で打ち上げられ、予定の軌道上に乗った[ 27] 。「観太くん」から送られてきた観測情報は、学内外で研究に役立てられている[ 28] 。
レスキューロボット・原発調査ロボット
東日本大震災 後に福島第一原子力発電所 へ最初に投入された国産ロボット「Quince 」は、千葉工業大学と東北大学 の共同開発である[ 29] [ 30] 。また、千葉工業大学は遠隔操縦ロボット「SAKURA」を原子力緊急事態支援センターで試験運用したり、NEDO のプロジェクトによる「櫻壱號」の開発を行ったりしている[ 31] 。
流星観測カメラシステム「メテオ」+流星観測衛星「S-CUBE」
アメリカ航空宇宙局 (NASA)と協力して行われた流星観測プロジェクト。
はやぶさ2
宇宙航空研究開発機構 (JAXA)と協力して行われている観測プロジェクト。
水星探査
宇宙航空研究開発機構 (JAXA) や欧州宇宙機関 (ESA) と協力した水星探査計画。
教育
採択されているプログラム
特色ある大学教育支援プログラム
2005年、文部科学省]が選定する「特色ある大学教育支援プログラム 」に「マルチメディア 教材による教育・学習支援」(副題:シミュレータをベースにした理工学教育 e-Learning)が採択された[要出典 ] 。情報インフラの整備、学生の授業評価や国内外の教育機関による第3者評価などを行い、シミュレータをベースにしたマルチメディア教材の作成と、それらを補助教材とする教育による教育効果が評価され採択された[要出典 ] [ 32] 。
学生生活
サークル活動
以下の学生を主体とした自治組織によりサークルの運営・企画などが行われている(2020年(令和2年)5月現在)。
体育会
38サークル(28部、6同好会、4愛好会)が所属する。
例年『体育会誌』が発行されている。
文化会
35サークル(30部、5同好会)が所属する。
2012年 (平成24年度)より『文化会誌』が発行されるようになった[要出典 ] 。
イベント
文化の祭典
毎年5月下旬に文化系サークルを中心に学生の企画・運営で開催される文化祭。
スポーツフェスティバル
毎年10月中旬に体育会を中心に学生の企画・運営で開催されるスポーツイベント。自由参加で体育会(部活)に所属していない学生も参加できる。卓球やサッカーなど球技が主体。
津田沼祭
毎年11月下旬に津田沼祭実行委員会・学友会執行委員会を中心に学生の企画・運営で開催される学園祭。1970年代 頃からキャンパスが立地する地域との交流促進のため、当地の地名を取って「津田沼祭」と呼称するようになった。 [要出典 ]
大学関係者と組織
大学関係者組織
千葉工業大学同窓会 - 学生・卒業生・教職員による同窓会[ 33]
千葉工業大学PPA - 保護者・教職員による後援会組織[ 34] 。
大学関係者一覧
施設
キャンパス
津田沼キャンパス
津田沼キャンパス正門
所在地:千葉県習志野市津田沼
使用学年:3・4年、大学院
使用学部:全学部
使用研究科:stub
使用附属施設:工作センター
敷地面積: 53,961.00 ㎡
交通アクセス
2006年 からのキャンパス再開発5か年計画によって、2008年 に新1号棟が完成した。2010年 に学生ホールが、2011年 に新2号棟が完成した。2013年 に、新1号棟を2号館、新二号棟を1号館、学生ホールを3号館と名称変更した。
新習志野キャンパス
新習志野キャンパス正門
所在地:千葉県習志野市芝園
使用学年:1・2年
使用学部:全学部
使用研究科:stub
使用附属施設:クラフトハウス
敷地面積:123,574.00 ㎡
交通アクセス
鉄道:JR東日本京葉線 新習志野駅 下車、南口より徒歩6分
バス:京成バス「千葉工業大学入口」停留所下車、徒歩3分
幕張新都心 に隣接している。千葉工業大学では「環境と人にやさしいキャンパス」と標榜している。2013年 4月に、芝園キャンパスから新習志野キャンパスに名称変更した。
東京スカイツリータウンキャンパス
東京スカイツリー ソラマチ 8階に設けられたサテライトキャンパス 。レスキューロボットや超巨大ロボティックスクリーンなどが展示されている。
運動施設
茜浜校地(運動場)
所在地:千葉県習志野市茜浜
敷地面積:98,304.00 ㎡
交通アクセス
鉄道:JR東日本京葉線新習志野駅下車徒歩20分
バス:京成バス(習志野市ハッピーバス)「海浜公園」停留所下車すぐ、
新習志野(芝園)キャンパスの南方に存在し、野球場、サッカー場などがある。1987年 に設置された。
寮
男子寮の名称は「桑蓬」と称する。この名称は中国の故事「桑蓬之志」に由来。
桑蓬寮(そうほうりょう)
新習志野キャンパス傍にある男子寮で、2014年に完成。
椿寮(つばきりょう)
新習志野キャンパス傍にある女子寮で、2014年に完成
対外関係
他大学・高専との協定(国内)
包括提携校
大学
高等専門学校
単位互換協定校
四年制大学
短期大学
連携大学院
中高等学校との協定
その他
海外学術交流(大学/機関)
文部科学省資料[ 38] による。
アジア地域
中東地域
アフリカ地域
ヨーロッパ地域
アメリカ地域
留学プログラム
語学研修
グアム大学(英語)
コンピエーニュ工科大学(フランス語)
ハルビン工業大学(中国語)
短期留学
ハルビン工業大学(中国)
パシフィック大学(アメリカ)
コロラド大学ボルダー校(アメリカ)
長期留学
ハルビン工業大学(中国)
スウェーデン王立工科大学(スウェーデン)
コンピエーニュ工科大学(フランス)
ペンシルベニア州立大学(アメリカ)
産官学間での連携
千葉工業大学では、企業、研究機関及び自治体、地域組織と連携して共同研究を行っている。
主な連携団体(判明分)
企業との連携
自治体との連携(協定)
千葉県
研究・教育機関との連携(協定)
工大の煉瓦門(文化財)
千葉工業大学通用門(旧鉄道第二連隊 表門)
現在千葉工業大学が使用している通用門は、かつて同敷地内にあった鐵道聯隊が使用していた営門を残したもので、銀杏並木がならぶ通用門は国土の歴史的景観に寄与しているとして、1998年 に登録有形文化財 に登録された[ 43] [ 44] 。一般には「工大の煉瓦(れんが)門」[ 43] [ 44] 、または「工大の赤煉瓦(あかれんが)門」[ 45] と呼ばれている。
メディア
撮影協力・製作協力
事件・不祥事等
2012年 に千葉工業大学側の報告によって経済産業省 からの研究費使用に関して不正のあったことが発覚した[ 46] 。具体的な不正の内容としては、千葉工業大学の研究者が物品などを購入していないにも関わらず、取引業者より購入したとする偽装工作を行い、同研究費から業者に物品購入代金として金を支払っていたというのが一点[ 46] 、もう一点は千葉工業大学の研究者が同研究費を私的目的に使用し、その金の流れを取引業者に研究目的のための物品購入であったことを偽装工作させるなどした[ 46] 、というものであった。これら千葉工業大学の不正に関し経済産業省は、交付した研究費の返還、一定期間研究費交付停止、などの処分を行った[ 46] 。
2017年 1月10日に大学教員が学生の成績情報などの個人情報をメールに添付し外部の複数の人物に送信してしまう事件が発生した[ 47] 。流出した情報は、学生の氏名や学籍番号、成績などであったという[ 47] 。
企業からの評価
出世力
ダイヤモンド社 の2006年年9月23日発行のビジネス誌『週刊ダイヤモンド 』94巻36号(通巻4147号)「出世できる大学」と題された特集の出世力ランキング(日本の全上場企業3,800社余の代表取締役を全調査[ 48] [ 49] )で、千葉工業大学は、2006年時点で存在する全国の744大学中、第50位にランキングされた[ 50] 。
脚注
注釈
^ 理工学部を持つ総合大学 である旧帝国大学 はどれも数に含めず、対象を「現存する単体の理工系大学」に限定した場合。1929年に国立の東京工業大学が設置され、1942年に私立の興亞工業大學(千葉工業大学の前身) が設立された。東京工業大学と同時に昇格した官立の大阪工業大学 (1929年設立)は、1933年に大阪帝国大学 に吸収されたため数に含めない。日本最初の私立理工系単科大学である藤原工業大学(1939年設立)も、1944年に慶應義塾大学に併合されて同大学の工学部 となったため数に含めない。1881年に設置された専門学校である東京物理学校 を前身とする東京理科大学 は理工系単科大学として昇格したのが1949年であるため数に含めない。これら以外の現在存在する国立:私立の理工系大学は全て戦後に設立されたものである。
^ 設置が計画されたが戦時のため、機械学科に変更された。戦後に生産工学、経営工学 分野を扱った学科として早稲田大学に次き2番目に設置された
^ 日本人 (東洋人 )を代表してクリスチャン で、教育家 の小原國芳 が大学設立趣意書を提出(アジア解放を望んだ日本国民 の自発性を尊重すると共に、再起と誡めの契約を結ぶ)
^ 急な開校指令だったこともあり全ての建物が完成していなかったため、講義を屋外で行う
出典
参考文献
千葉工業大学PPA・千葉工業大学同窓会『千葉工業大学校歌・寮歌・応援歌集』
小原國芳編『全人』No.113 玉川学園出版部、1942
千葉工業大学二十五年史刊行委員会『千葉工業大学二十五年史』千葉工業大学、1967
小原國芳 著、南日本新聞社 編『教育と我が生涯 小原國芳』玉川大学出版部、1977年11月。ISBN 978-4472028724 。
玉川学園五十年史編纂委員会『玉川学園50年史』玉川学園、1980年。
日本冶金工業『日本冶金工業六十年史』日本冶金工業、1985年11月。ASIN B000J6OBRI 。
千葉工業大学五十年史刊行委員会『千葉工業大学五十年史』千葉工業大学、1992年。
戸高一成 『[証言録]海軍反省会』PHP研究所 、2009年8月。ISBN 978-4569709703 。
千葉工業大学70年史刊行委員会『千葉工業大学70年のあゆみ』千葉工業大学、2012年。
“興亜工業大学 ”. 玉川学園について . 玉川大学・玉川学園 (2013年6月5日). 2015年2月16日 閲覧。
“入学案内2015 ”. デジタル図書館 . 千葉工業大学. 2015年2月17日 閲覧。
関係文献
関連項目
Wiki関係他プロジェクトリンク
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
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設置科 研究科 付属研究所 スポーツ 関連項目 設置計画のあった教育機関
帝国大学令 施行前
帝国大学
1886年 1897年 1907年 1911年 1918年 1924年 1928年 1931年 1939年
両大戦間期
1919年 1920年 1921年 1922年 1923年 1924年 1925年 1926年 1928年 1929年 1932年
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