池田幸司 (歌手)
池田 幸司(いけだ こうじ、1965年8月6日[1][2][3] - )は、主に1980年代中期頃に活動した日本の元歌手、シンガーソングライター。愛称及び別名義はCOJIE(コージ)[4][1]。岡山県岡山市出身[1][2][3]。田辺エージェンシー[1]・キャニオン・レコード[1]に所属していた。 来歴・人物岡山県生まれ。3歳から5歳まで家の仕事の都合で、長崎の母の実家で育つ[5]。小さい頃は「ポケットモンキー」とも言われたほど木登りが得意だったという[6]。5歳の時からクラシックピアノを習い始め[2](本人曰く「押し付けられて」[1])、小学6年生までやっていた[5]。その小学6年生の時にNHK-FMの『サウンドストリート』『軽音楽をあなたに』などを聴き始め、レオ・セイヤーの『When I Need You』を聴いて泣くなどして、それからクラシック・ピアノからポップスの世界へ入っていく[5]。中学入学後、13歳の時からギターの弾き語りを始める[1]。クラシック・ピアノを辞めたのは「ビートルズがすごいと思ったから」と話していたことがある[7]。かぐや姫、さだまさし、アリスなどのフォークソングの曲を演奏しようと、ギターを独学する[2]。少年時代は他人とは違うテクニックでの演奏を目指そうとして、毎日のようにハードロック、ブルース、ラグタイムなどの洋楽を聴きこんでいた[8][2]。そしてふと邦楽に立ち返った高校1年生の秋にアルフィーのアルバム『讃集詩』に出会って「これだ!」と思い、これがきっかけでアルフィーが自分の“理想の音楽”だとして見つけたアーティストとなった[8][2][5]。音楽の他には大藪春彦のハードボイルド小説や[9]、片岡義男、村上春樹の小説が好きで、自分でも日頃からエッセイを書き溜めていたことがあった[8]。また「三島由紀夫の生き方が好き」とも話していたことがある[10]。 岡山県立岡山朝日高等学校に入学[4]、高校では、音楽部、応援団に所属していた[8]。高校入学後に自ら作曲を始める[11]。この頃は殆んどピアノで作曲していた[11]。一方でその高校生時代にニッポン放送のラジオ番組『坂崎幸之助のオールナイトニッポン』へ自分のはがきやデモテープを送り続け、同番組で名が売れるようになる[1]。同番組ではアルフィーのミキサーの鈴木千春の名を借り「岡山の千春」を名乗っていた[1][5]。 1983年1月、地元・倉敷駅でコンサートツアー移動中のアルフィーのメンバーらと直接出会い、自分の音楽論や意気込みなどを直接伝える機会を得る[12]。ここで「面白い奴だ」と認められるなど[12]、このユニークさと熱意、音楽的志向の強さにアルフィーのスタッフが強く反応し、アルフィーの他のスタッフらファミリーに紹介される[1][2]。1983年3月、坂崎幸之助から直接ラジオを通じて「上京したら番組に出してあげよう」と発せられたメッセージを受け早速翌週に上京[5]、番組で自己PRをするなど出演させてもらえたが、そこでスタッフから“プロ修業準備期間”を与えられるような形で「これから高校卒業までの1年間で何が出来るかやってみて、それからだ」といったことを言い渡される[5]。そして地元・岡山に帰り早速ビートルズの全曲のコピーを始める[5]。また一方ではピアノの特技を活かしてエルトン・ジョン、アルフィーを「誰にも負けないくらい」コピーした[11]。同年8月10日に開催されたアルフィーの大阪城音楽堂でのライブにて前座で出演し「僕が岡山の千春です!」と自己紹介。大声援の中、アルフィーの『ロックンロール・ナイトショー』を歌う[1][2]。同年12月23日、アマチュアとしては最後となったソロ・コンサートを岡山ビブレホールで行い、満員約500人の観客を動員、約200が入れなかったという盛況ぶりだった[4]。 1984年3月の高校卒業後上京、メジャー・デビューに向けて「Cojie's Projectチーム」が結成される[1]。同年9月21日、キャニオン・レコードよりシングル『BETTY, I LOVE YOU』でメジャー・デビューする。このデビュー曲はビートルズの『ミッシェル』、『ガール』に触発される形で制作したという[5]。 その後シングル4枚、布袋寅泰らがレコーディングに参加したアルバム『BOY'S STREET←→GIRL'S AVENUE』を発表。FM愛知のラジオ番組『池田幸司のトランジスター・ムーン』が1987年9月いっぱいで終了後、引退。 ディスコグラフィーシングル
アルバム「BOY'S STREET←→GIRL'S AVENUE」(1985年11月21日)
参加ミュージシャン
楽曲提供
出演ラジオ
脚注出典
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