ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)
ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73(ピアノきょうそうきょく だい5ばん へんホちょうちょう さくひん73)は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが遺したピアノ協奏曲の一つ。『皇帝』(こうてい)の通称で知られている。 概要いわゆる「傑作の森」と評される時期に生み出された作品の一つであり[5]、ナポレオン率いるフランス軍によってウィーンが占領される前後に手がけられている。ベートーヴェンが生涯に完成させたオリジナルのピアノ協奏曲全5曲の中では最後となる作品であり[6]、かつ初演に於いて他のピアニストに独奏ピアノを委ねた唯一の作品でもある。 経緯についてスケッチそして作曲1808年12月末頃にスケッチ着手[6]。同月22日にアン・デア・ウィーン劇場に於いて『ピアノ協奏曲第4番ト長調』や『交響曲第5番「運命」』、『同第6番「田園」』などの新作の初演を兼ねた4時間に及ぶ長大な演奏会を開いていることから、当該演奏会の直後に当楽曲のスケッチに取りかかったものとみられている[7]。この演奏会ではベートーヴェンが自身によるピアノ即興演奏や、自身の新曲の一つとして発表され、後に『交響曲第9番「合唱付」』のルーツ的存在の一つとして知られることになる『合唱幻想曲』の初演のピアノ独奏を務めたりもしていたことから、この演奏会が当楽曲の創作に向けて刺激を与えたとの指摘も存在する[7]。 翌年1809年の4月頃までにスケッチを完了させ、同年夏頃までに総譜スケッチを書き上げたものとみられるが、出版に漕ぎ着けるには更に1年程度の期間を要している[7]。 折しも、当楽曲のスケッチおよび作曲に取り組んでいる最中にあった1809年、ナポレオン率いるフランス軍がベートーヴェンが居を構えていたウィーンを完全包囲し、その挙げ句にシェーンブルン宮殿を占拠した。これに対しカール大公率いるオーストリア軍は奮戦するもフランス軍の勢いを止める事は出来ず、遂にウィーン中心部を砲撃され、フランス軍によるウィーン入城を許してしまった。その後フランス・オーストリア両軍の間で休戦協定が結ばれるも、当時のオーストリア皇帝フランツを初め、ベートーヴェンを支援してきたルドルフ大公を初めとする貴族たちもこぞって疎開、ウィーンに於ける音楽活動は途絶えてしまう[5][7][8]。 ちなみにこの頃のベートーヴェンはというと、彼の住居近くにも砲弾が落ちたことから弟カール宅の地下室に避難、不自由な生活の下でも作曲を続けていたものの、たまりかねてウィーンの街中を我が物顔で歩くフランス軍将校とすれ違った際に将校に向かって拳を上げながら「もし対位法と同じぐらい戦術に精通していたら、目に物を見せてくれように」と叫ぶこともあったといわれている[5][9]。 当楽曲は、前記総譜スケッチを終えてから1年余りを経て、1810年11月に先ずロンドンのクレメンティ社から、更に翌1811年3月から4月にかけてはドイツのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から、それぞれ出版されている[6]。 初演とその後初演については、先ずドイツに於ける初出版の2~3ヶ月前にあたる1811年1月13日に行われたロプコヴィツ侯爵宮殿に於ける定期演奏会の中で、ベートーヴェンの弟子の一人で彼のパトロンの一人でもあるルドルフ大公の独奏により非公開ながら初演を実施。その後、同年11月28日にライプツィヒに於けるゲヴァントハウス演奏会に於いてフリードリヒ・シュナイダー(Johann Christian Friedrich Schneider)の独奏による初めての公開初演が行われ、更に翌1812年2月12日にはウィーンのケルントナートーア劇場に於いて同じくベートーヴェンの弟子の一人であるカール・チェルニーの独奏によるウィーン初演が行われている[6]。 1802年に自らの聴覚障害(難聴)に憂いて「ハイリゲンシュタットの遺書」をしたためて以来、ベートーヴェンが抱える難聴は悪化の一途を辿ってきているが、それでもピアノ協奏曲のカテゴリに於ける前作『ピアノ協奏曲第4番ト長調』までは初演に際してベートーヴェン自らが独奏ピアノを務めてきた[10]。しかし、当楽曲の作曲途上に於いてもたらされたフランス軍による爆撃音は、ただでさえ進行中だった難聴をより重症化させてしまい、ついには当楽曲の初演にピアノ独奏者として関わることを諦め、他のピアニストに委ねるに至っている[11]。 とはいえ、当楽曲の初演は不評に終わり、その影響からかベートーヴェンの存命中に二度と演奏されることは無く、更に新たにピアノ協奏曲を自身の存命中に書き上げることは無かった[9][12][注 3]。後年、フランツ・リストが好んで演奏したところから、当楽曲は名曲の一つに数えられるに至っている[11]。 なお当楽曲は、完成後最初に行われたロプコヴィツ侯爵宮殿に於ける非公開初演の場でピアノ独奏を務めたルドルフ大公に献呈されている[8]。 「皇帝」という通称の由来当楽曲に付されている「皇帝」という通称は、ベートーヴェンとほぼ同世代の作曲家兼ピアニストであり楽譜出版などの事業も手がけていたヨハン・バプティスト・クラーマーが、雄渾壮大とか威風堂々といった当楽曲で抱いた印象から付与したものといわれ、ベートーヴェンの死後、主として英語圏で定着した[11][6][7][9][注 4]。 尤もこの「皇帝」という通称を巡っては、フランス軍に攻め込まれ、オーストリア皇帝やベートーヴェンの支援者たる貴族たちが疎開していった状況下で、不自由な生活を強いられていたベートーヴェン自身が「皇帝」を想起しつつ作曲を進めていたとは考えがたく、たとえ当楽曲の曲想が「皇帝」のイメージと結びついているとしても、作曲当時の状況から考えれば不相応といわざるを得ない、との指摘も一部の専門家から為されている[7]。 楽器編成独奏ピアノに加え、下表に示す必要楽器類から構成される管弦楽を要する。
曲の構成
全3楽章構成となっており、第2楽章と第3楽章は続けて演奏される。演奏時間は39~40分で[6][16]、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の中では最大規模を誇る[11]。
脚注注釈
出典
参考文献外部リンク
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