ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフンに近い[注釈 1]、1770年12月16日頃[注釈 2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家、ピアニスト。音楽史において極めて重要な作曲家の一人であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる[2]。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆とされ、後世の音楽家たちに多大な影響を与えた。 生涯![]() 1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンにおいて、音楽家の父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ・ケーヴェリヒ・ライムの第二子として生まれる[3]。マリーアは7人の子供を産んだが成人したのは3人のみで、長男のルートヴィヒ・マリーア(1769年4月2日に洗礼)が生誕6日後に死去したため、その3人の中ではルートヴィヒは長男だった[4]。他の二人は、カスパール・アントン・カールとニコラウス・ヨハンである[5]。 ベートーヴェン一家は、ボンのケルン選帝侯宮廷の優れた歌手かつ鍵盤楽器奏者として知られ、楽長として宮廷の音楽家たちを率いていたベートーヴェンと同姓同名の祖父ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの援助により生計を立てていた[4]。幼少のベートーヴェンも祖父ルートヴィヒを敬愛しており、同時代人からも尊敬されていた[4]。敬愛していた証拠として、ベートーヴェンは祖父の肖像画を何年間も自身の部屋に飾っている。 父ヨハンも当地のオペラ劇場などで活動していた[6]宮廷歌手(テノール)[7]であった。しかし、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちだった。1773年12月24日に祖父が亡くなった後ある程度の遺産を相続したが、1784年までにほとんど浪費してしまった[8]。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能をあてにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、デビューを果たす[9]。 1782年からはベートーヴェンにとって最初の重要な教師とされるクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した[10]。そして、ネーフェは、当時まだ作品の大半が知られていなかったJ.S.バッハの作品を与え、「平均律クラヴィーア曲集」などを弾かせている[11]。また、同年に作曲した『ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲』が出版されている。(これは、ベートーヴェンにとって初めての出版作品である) 1787年春、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問した。この時代のウィーンは音楽が盛んで、ヨーロッパ中から音楽家が集まり、貴族、外交団、ブルジョアジーなどが音楽家たちを支援していた[12]。カール・チェルニーの伝える所によれば、ベートーヴェンはこの地でモーツァルトの即興演奏を聴き、彼の演奏を「すばらしいが、ムラがあり、ノン・レガート」と語ったという[13]。また、この際の旅費を負担したのは、ヴァルトシュタイン伯爵であるとフランツ・ヴェーゲラーは述べているが、実際はボンでのベートーヴェンの最大の支援者であるマクシミリアン・フランツであるとされている[14]。 ウィーンで2週間程滞在した頃、ベートーヴェンは母親の危篤の報を受けてボンに戻った[15]。母は二か月後の7月に死没した[16](肺結核)。[7]一方で父親のアルコール依存症と鬱病は悪化していった[16]。 1789年には、家計を支えられるように父親の年収の半分を直接自分に渡してほしいという旨を、父親が無給になった場合にはどこかの村に追放するという条件付きで、選帝侯に嘆願している[17]。しかし、このことを恥じた父ヨハンは自身の給料の半分を年4回の分割で、自らベートーヴェンに渡した[17]。そして、仕事ができなくなった父に代わっていくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、養育と学校教育が必要な二人の弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした[注釈 3]。 一方、この頃からベートーヴェン家は、リース家とフォン・ブロイニング家から生活面で助けを得ていた[18]。ブロイニング家には、ヘレーネ・フォン・ブロイニング夫人、娘のエレオノーレ、息子のクリストフ、シュテファン、ローレンツがおり、ベートーヴェンは特にシュテファンと交流を結んだ[18]。ベートーヴェンは多くの時間をこの家で過ごし、ベートーヴェンの親友のヴェーゲラーも頻繁にこの家に訪れていた[18]。ボン時代の後援者としては、マクシミリアン・フランツ以外にフェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵が知られている。 1790年12月には、イギリスに行く途中で当時絶頂期だったハイドンと興行主ザーロモンがボンに立ち寄り、また1792年7月にロンドンからウィーンに戻る途中でも、ボンに立ち寄っている[19]。どちらの時期かは定かでないが、その際ベートーヴェンはハイドンに自身のカンタータ、『皇帝ヨーゼフ2世の葬送カンタータ』WoO.87か『皇帝レオポルト2世の即位のためのカンタータ』WoO.88のどちらかを見せている[19]。ハイドンはベートーヴェンの才能を認め、1792年7月には弟子としてウィーンに来れるよう約束が交わされた[20]。 1792年11月2日の早朝に出発し、フランクフルト、ニュルンベルク、レーゲンスブルク、パッサウ、リンツ等を経由しながら1週間かけてウィーンに到着した[21]。そして、ベートーヴェンはこれ以降、二度とボンに戻ることはなかった[22]。 当時、ウィーンではフランス革命の影響を受けて報道の自由が規制され、革命支持者に対する措置が厳しくなっており、そのことは1794年にボンに送った手紙の内容からもうかがえる[23][注釈 4]。一方で、ウィーンの貴族のサロンは若い音楽家たちの活躍する場となっており、公開コンサートの数も増えていっていた[25]。ウィーンに到着した際、ベートーヴェンは貴族たちから演奏の招待を多く受けたが、そのほとんどを無視しており、これらに対し怒りの感情すら覚えている[26]。一方で、ベートーヴェンはこの地で多くの後援者を得ることになる[27]。後援者の1人として挙げられるカール・リヒノフスキー侯爵家は気前がよく、イタリア弦楽器一式と600フローリンの年金を与えており、ベートーヴェンは彼の所有する家に下宿している[28]。 1792年12月18日には父ヨハンが死去したが、ベートーヴェンは彼の葬儀のためにボンに戻ることはなく[17]、葬儀はヴェーゲラーたちが済ました。1792年11月~1794年1月までの日記には、買い物の支出の記録やハイドンのもとでのレッスン料の記録は残っているが、父ヨハンの葬儀に関する記録は全く残っていない[29][注釈 5]。1793年4月頃には、選帝侯に宛てて父親の引退後に受け取っていた給料の半分を更新してもらうよう手紙を書いており、5月にはボンから支給されていた奨学金に上乗せして、この金額が払われた[18]。これらの手配は、フランツ・アントン・リースによって進められていた[18]。また、1794年~1796年に、ベートーヴェンはウィーンでヴェーゲラーとブロイニング家のローレンツと再び親交を結んでいる[18]。 ハイドンに教えを乞うためにウィーンに来たベートーヴェンだったが、ハイドンが1791-92年、1794-95年の2回のイギリスの訪問にて成功を収め多忙を極めた事もあり、ベートーヴェンに作曲を教える時間はほとんどなかった[30]。そこで、1793年からハイドンには内緒でヨハン・シェンクに作曲を師事し、彼の下でフックスの『パルナッソス山への階梯』を基に対位法を学び、対位法課題を添削してもらった[31][32]。そして、ベートーヴェンは更に1794年から当時高名な理論家であったヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーの下で対位法を学んでいる[31]。これらの対位法の成果は、この頃の作品と考えられているフーガ ハ長調 WoO215や、弦楽四重奏曲のための初期の断片的なフーガに端的に表れている[33]。 ベートーヴェンはウィーンに来てから徐々に名声をあげていき、ウィーンに来てから4年が経った1796年の時点で既に同世代の中でも最も評価される作曲家となっている[34]。これは1796年にヨハン・フェルディナント・フォン・シェーンフェルトが刊行した『ヴィーン・プラハ音楽芸術年報』の作曲家に対する寸評の項目において[注釈 6]、ベートーヴェンをハイドンの次の位置に配置して評価していることからも分かる[34]。ここではベートーヴェンを次のように評価している[36]。
1796年初頭、ベートーヴェンはプラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンを旅行し、六か月間に及ぶ演奏会を行った[37]。 20代後半頃より持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化。28歳の頃には最高度難聴者[要出典]となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』[38]をしたためて自殺も考えた。しかし、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、ふたたび生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。 ![]() 40歳頃(晩年の約15年)には全聾[要出典]となり、さらに神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、たびたび非行に走ったり自殺未遂を起こしたりするなどした甥・カールの後見人として苦悩するなど、一時作曲が停滞した。しかし、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の辿り着いた境地の未曾有の高さを示すものであった。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後は病臥に伏す。翌1827年3月23日には死期を悟って遺書をしたためた[注釈 7]。病床の中で10番目の交響曲に着手するも、未完成のまま同年3月26日、肝硬変のため波乱に満ちた生涯を閉じた。享年58(満56歳没)。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった[40]。この葬儀には、シューベルト、ヨーゼフ・マイゼダーも参列している。 作風初期初期の作風は、ハイドン、モーツァルトの強い影響下にある[41]。作曲家としてデビューしたてのころは耳疾に悩まされることもなく、革新的要素を持ちつつも古典派様式に基づく明るく活気に満ちた作品を書いていた。ただし、ピアノソナタ第8番『悲愴』、14番『月光』のように中期以降の様式を予感させる作品もある。 中期1802年の『ハイリゲンシュタットの遺書』[38]に示された精神的な危機を乗り越えると、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、のちのロマン派の多くの作品がこれに追随した。 後期1814~15年から始まる後期の様式は、1820年代の作品に代表される[42]。音楽はより内省的・思索的になり[43]、変奏曲やフーガはここに究められ、これにより28番〜32番のピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番、12番〜16番の弦楽四重奏曲といった後期の代表作が作られた。交響曲第9番では第2楽章にスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章と通常の交響曲の楽章と入れ替えが行われ、さらに第4楽章では独唱・合唱を含む声楽を用い、それまでにない画期的な交響曲となった。交響曲第9番の後に書き進められた12番以降の弦楽四重奏曲は、「晩年の円熟した技巧と徹底した思考とをもって、ピアノソナタや交響曲では表現し得ない思想をそこに盛り込んだ」とも評されている[44]。 楽器との関わりベートーヴェンが所持したピアノの中に、ウィーンのピアノ製造会社ゲシュヴィスター・シュタイン[45]が作った楽器があった。1796年11月19日、ベートーヴェンはナネッテ・シュトライヒャーの夫アンドレアス・シュトライヒャーに、こう手紙を書いている。「一昨日、あなたのフォルテピアノを受け取りました。本当に素晴らしくて、誰もが所有したいと願うでしょう…」[46] カール・チェルニーの回想によると、1801年に、ベートーヴェンは自宅にワルターのピアノを持っていた[47]。また1802年には、ワルターに1本の弦によるピアノフォルテの製作を依頼するよう、友人のツメスカルに頼んでいる[48]。 そして1803年にベートーヴェンは、エラールのグランドピアノを受け取った。しかし、ニューマンはこう記している。「ベートーヴェンは最初からこの楽器に不満だった。この作曲家には、イングリッシュアクションが非常に重かったのだ」[49] さらに別のピアノ、1817年製のブロードウッドをトーマス・ブロードウッドから贈られており[50]、ベートーヴェンは1827年に亡くなるまで、この楽器をシュヴァルツシュパニアーハウスの自宅に保管していた[51]。 ベートーヴェンの最後の楽器は、4重弦の張られたグラーフのピアノだった。コンラート・グラーフはベートーヴェンに6オクターブ半のピアノを貸し出し、作曲家の死後にヴィンマー家に売却したと自ら認めている[52]。この楽器は、1889年にボンのベートーヴェンハウスが購入した[53]。 後世の音楽家への影響と評価ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(およびそのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。 中でもワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒としてその理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。 一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークやチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラッヘンマンにまで影響を与えている。 芸術観同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けた[54]。 ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[55]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しないとしている。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。 思想
人物身なり身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質でがっしりとした体格をしていた。フォン・ベルンハルト夫人は「背が低く、醜く赤いあばた顔をした不器用な男。髪は真っ黒で、顔の周りにもじゃもじゃと垂れ下がっていた」と軽蔑的に述べている[58]。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。基本的に服装には無頓着であり、若いころには着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。フォン・ベルンハルト夫人は「服はとても平凡で、当時の流行とさほど違いはなかった」と回顧録に記している[58]。 弟子のチェルニーは初めてベートーヴェンに会ったとき、「ロビンソン・クルーソーのよう」「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。
名前と日本語表記ベートーヴェンの母語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfn] ( 日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ヴァン・ベートーヴェン」と、「ヴァ」を「バ」に置き換えた「ベートーベン」という記述が浸透していき定着した[63]。 姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラント(フランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人には、画家のファン・エイク(van Eyck)、ヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。van Beethovenはオランダ語でファン・ベートホーヴェあるいはファン・ベートホーヴェン オランダ語発音: [fɑm ˈbeːtɦoːvə(n)]と発音される[要出典]。 vanはドイツ語、オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。 偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。たとえば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。 ベートーヴェンとフリーメイソンリー→詳細は「フリーメイソン § ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照
死因と健康について→「ベートーヴェンの死」を参照
慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓のほか、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属である。しかし、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のとおりである。
2023年、ケンブリッジ大学を中心とした国際研究チームにより毛髪のゲノム解析が行われ、ベートーベンは死の1か月前にB型肝炎に感染しており、遺伝的に肝臓病になりやすい体質であったことが判明した[64][65]。 聴覚障害について難聴(40歳ごろには全聾[要出典]となった)の原因については諸説[66]ある。
関連人物親族
同姓同名の兄や妹2人がいるが、すぐに亡くなっている。 弟・カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(Karl Julius Maria van Beethoven、1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。 弟子
後援者
代表作→詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照
交響曲(全9曲)
管弦楽曲
協奏曲、協奏的作品
室内楽曲
ピアノ曲ピアノソナタ(全32曲)
その他のピアノ曲
オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品
宗教曲
歌曲
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
録音ファイル
伝記 |
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