ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, ドイツ語: [ˈvɪlhɛlm ˈfʊɐ̯tvɛŋlɐ], 1886年1月25日 ベルリン - 1954年11月30日 バーデン=バーデン)は、ドイツの指揮者、作曲家。伴奏ピアニストとしての演奏も行った。 概要![]() ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を1922年から1945年まで、終身指揮者を1947年から1954年まで務め、20世紀前半を代表する指揮者のひとりとされている。ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー等のドイツ音楽の本流を得意とした。一般には後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承した演奏とされ[1]、作曲家としても後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承したことから、ライバルのトスカニーニと対極に位置づけられることもあるが、「堅固な構築性をそなえた演奏を『ロマン主義的演奏』というだけで片付けてしまうのは軽率」とする見解もあり[2]、またフルトヴェングラー自身は「後期ロマン主義者」と看做されることを極度に嫌い、「私はロマン主義者でも古典主義者でもない」と語ったともいわれる[3]。 音楽評論家の吉田秀和はフルトヴェングラーについて、「濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだ」[4]「(ベートーヴェンが)これらの音楽に封じ込めていた観念と情念が生き返ってくるのがきこえる」[5]と評している。 現在でもCDが続々と発売され、放送録音、海賊録音の発掘も多く、真偽論争となったレコードも少なくない。 妹メーリットは哲学者マックス・シェーラーの妻であり、甥ベルンハルトと妻エリーザベト・フルトヴェングラーの連れ子カトリーンの間の娘のマリア・フルトヴェングラーは女優で医師であった。 音が出る前から指揮棒の先が細かく震え始め、アインザッツが非常にわかりにくいその独特の指揮法[6]から、日本ではフルトヴェングラーをもじって「振ると面食らう」などと評され、「フルヴェン」の愛称で親しまれている。 生涯ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは1886年にドイツのベルリンで生まれた。父はドイツの著名な考古学者アドルフ・フルトヴェングラーで、母アーデライデ・ヴェントは画才を持った人であった[7]。ヴィルヘルムが高校を退学すると、家庭教師の下で学問を学んだ[7]。当初、ヴィルヘルムは画家になることを志していたが、やがてその願望は作曲家になることへと変貌していった[8]。7歳の頃にピアノ作品「動物の小曲」、9歳の頃に「涸れた涙」、11歳の頃にオラトリオなどをすでに書いていたとされる[8]。 1906年、20歳になる頃、親戚の推薦からブレスラウ市立劇場の劇場音楽教師に就任する[9]。この頃、17歳の頃に書いたニ長調の交響曲を発表する機会を得るが初演は失敗に終わる[9]。 その後、彼の才能を見出したフランツ・カイムが設立した私設オーケストラ「カイム・オーケストラ」の指揮者としてフルトヴェングラーを招聘する[10]。この時、最初の演奏会で上演した作品はフルトヴェングラーのロ短調の交響詩とブルックナーの交響曲第9番だった[10]。この最初の演奏会は成功裡に終わり、批評家からも好意的な評価を勝ち得た[10]。 その後、フルトヴェングラーはチューリッヒ市立劇場、ミュンヘン王立歌劇場などで指揮を続けた[10]。やがてシュトラースブルクの歌劇場に活動の拠点を移すと、当時ハンス・プフィッツナーが古典的な作品を担当しており、フルトヴェングラーは彼の下で主に軽いオペラの指揮を担当した[10]。その後、リューベックのオーケストラで指揮を続ける中でアルトゥール・ニキシュとの知見を得る[11]。 1915年、ブルーノ・ワルターの推薦を受け、マンハイム歌劇場の主席指揮者に就任する[12]。 第一次世界大戦が勃発し、フルトヴェングラーも徴兵検査を受けたが不合格となった[13]。一方でフルトヴェングラー自身は愛国心から従軍を希望するも、周囲からの説得を受け、指揮者としての活動を続けていくことになる[14]。 1920年にはベルリン国立歌劇場に客演する[15]。1922年にニキシュが死去すると、その後継としてベルリン・フィルとライプツィヒ・ゲヴァントハウスの指揮者に就任した[15]。1925年にはニューヨークのカーネギーホールにてニューヨーク・フィルの指揮をした[16]。フルトヴェングラーのアメリカデビューは大成功を収め、批評家からも好評を博したが、翌年、翌々年と再び渡米して同じくニューヨーク・フィルを振った時には段々と評価は冷ややかになっていった[16][17]。 1933年、ナチスが政権を獲得し、ヒトラーが宰相として任命される[18]。この時、フルトヴェングラーはベルリンフィルを率いて外国に客演旅行に行っていた[19]。 帰国後、フルトヴェングラーと彼の秘書であるユダヤ人のペルタ・ガイスマールとの会話をナチ親衛隊に盗み聞きされ告発を受ける[19]。ガイスマールはフルトヴェングラーがマンハイム時代より付き合いのある女性で、フルトヴェングラーの芸術を信奉し、様々な場面で彼の芸術を擁護してきた[14][20][19]。 当時、フルトヴェングラーの周りには秘書のガイスマールをはじめ、ヴァイオリニストのシモン・ゴルトベルクやグレゴール・ピアティゴルスキーといった国際的にも第一線級のユダヤ系演奏家がいた[21]。こうした存在を親衛隊は宣伝省などを通じて即時免職するよう要求していた[21]。 ナチスを通じた反ユダヤ主義の暴動が各地で盛んになる中で、フルトヴェングラーはこうした戦前のナチス政権下で方々に手を尽くして奏者のドイツ流出を防ぐよう試みたが、1930年代にはブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラー、アルトゥール・シュナーベル、ルドルフ・ゼルキン、アドルフ・ブッシュ、ロッテ・レーマンといった多くのユダヤ人ないしナチスに反対する音楽家たちがドイツを去っていった[22]。 その年の7月、フルトヴェングラーはゲッペルスによって枢密顧問員に任命される[23][24]。
略年譜
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顕彰ほか
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー賞妻のエリーザベト・フルトヴェングラーの創始・発案により、1990年から、イベント「バーデンバーデン・ヨーロッパガラ」の一環として、「ヴィルヘルム・フルトヴェングラー賞」の授与が開始された。これは、国際的に活躍した歌手や指揮者らに対し、クラシック音楽分野での傑出した功績を称えて贈呈される。毎年ではなく不定期に実施され、初回の受賞者はテノール歌手のプラシド・ドミンゴであった。 2008年からは、ボンのベートーヴェン祭典の期間中に授与されている。 受賞者リスト
主な録音初録音は公式には1926年のベートーヴェンの交響曲第5番とウェーバーの「魔弾の射手」序曲と記録されている。
映像1954年ザルツブルク音楽祭におけるモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』、1942年AEGによる慰問演奏会での『ニュルンベルクのマイスタジンガー』第1幕前奏曲、ナチス高官を前にしての演奏などが残っている。 主な初演作品
作曲家として![]() ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームスを尊敬していたフルトヴェングラーは、自身を作曲家であるとみなしていた。ブルックナーらに匹敵する長大な作品が多く、3つの交響曲、交響的協奏曲、ピアノ五重奏曲は演奏に1時間以上を要する。 現状、作曲家としてのフルトヴェングラーやその作品群が評価されているとは言い難いが、演奏や録音の機会は増えつつある。それらはフルトヴェングラー自身の自演をはじめ、彼とゆかりの深かった演奏家、影響を受けた演奏家によるものが多く、ヨーゼフ・カイルベルト、オイゲン・ヨッフム、ヴォルフガング・サヴァリッシュ、ラファエル・クーベリック、ロリン・マゼール、ダニエル・バレンボイム、朝比奈隆などの著名な指揮者も含まれる。また、アルフレート・ヴァルターとゲオルゲ・アレクサンダー・アルブレヒトが交響曲全集を完成させている。 日本でも、東京フルトヴェングラー研究会は主要作品の初演、再演、楽譜の出版などで、啓蒙的な役目をはたしている。 現在、フルトヴェングラーの作曲原稿のほとんどは、チューリヒ中央図書館に所蔵されており、詳細な作品目録は図書館で行われたシンポジウムの講演録と共に刊行された(邦訳は関連文献)。 交響曲
管弦楽曲
室内楽曲
声楽曲
伴奏ピアニストとしての活動エリーザベト・シュヴァルツコップが1953年ザルツブルク音楽祭でヴォルフ没後50年を記念しておこなったオール・ヴォルフ・プログラムによるリサイタルを伴奏した録音や、ウィーン・フィルハーモニーとの演奏会に於けるバッハのブランデンブルク協奏曲第5番(これには1940年12月21日または22日のウィーンでのものと、1950年8月31日のザルツブルク音楽祭のものとがある)の録音が残っている。 秘書によると、所用でフルトヴェングラーの自宅を訪れた際、ベートーヴェンのあるピアノソナタを弾いており、なかなかの演奏であったという。[要出典] 主要な著作フルトヴェングラーは評論、文筆活動にも積極的で、多くの著作も刊行している。
主な訳書
参考文献文献資料
報道資料
関連文献
関連項目
脚注
外部リンク
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