ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, ドイツ語: [ˈvɪlhɛlm ˈfʊɐ̯tvɛŋlɐ], 1886年1月25日 ベルリン - 1954年11月30日 バーデン=バーデン)は、ドイツの指揮者、作曲家。伴奏ピアニストとしての演奏も行った。 概要![]() ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を1922年から1945年まで、終身指揮者を1947年から1954年まで務め、20世紀前半を代表する指揮者のひとりとされている。ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー等のドイツ音楽の本流を得意とした。一般には後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承した演奏とされ[1]、作曲家としても後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承したことから、ライバルのトスカニーニと対極に位置づけられることもあるが、「堅固な構築性をそなえた演奏を『ロマン主義的演奏』というだけで片付けてしまうのは軽率」とする見解もあり[2]、またフルトヴェングラー自身は「後期ロマン主義者」と看做されることを極度に嫌い、「私はロマン主義者でも古典主義者でもない」と語ったともいわれる[3]。 音楽評論家の吉田秀和はフルトヴェングラーについて、「濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだ」[4]「(ベートーヴェンが)これらの音楽に封じ込めていた観念と情念が生き返ってくるのがきこえる」[5]と評している。 現在でもCDが続々と発売され、放送録音、海賊録音の発掘も多く、真偽論争となったレコードも少なくない。 妹メーリットは哲学者マックス・シェーラーの妻であり、甥ベルンハルトと妻エリーザベト・フルトヴェングラーの連れ子カトリーンの間の娘のマリア・フルトヴェングラーは女優で医師であった。 音が出る前から指揮棒の先が細かく震え始め、アインザッツが非常にわかりにくいその独特の指揮法[6]から、日本ではフルトヴェングラーをもじって「振ると面食らう」などと評され、「フルヴェン」の愛称で親しまれている。 生涯幼少期からナチス政権の台頭までヴィルヘルム・フルトヴェングラーは1886年にドイツのベルリンで生まれた。父はドイツの著名な考古学者アドルフ・フルトヴェングラーで、母アーデライデ・ヴェントは画才を持った人であった[7]。ヴィルヘルムが高校を退学すると、家庭教師の下で学問を学んだ[7]。当初、ヴィルヘルムは画家になることを志していたが、やがてその願望は作曲家になることへと変貌していった[8]。7歳の頃にピアノ作品「動物の小曲」、9歳の頃に「涸れた涙」、11歳の頃にオラトリオなどをすでに書いていたとされる[8]。 1906年、20歳になる頃、親戚の推薦からブレスラウ市立劇場の劇場音楽教師に就任する[9]。この頃、17歳の頃に書いたニ長調の交響曲を発表する機会を得るが初演は失敗に終わる[9]。 その後、彼の才能を見出したフランツ・カイムが設立した私設オーケストラ「カイム・オーケストラ」の指揮者としてフルトヴェングラーを招聘する[10]。この時、最初の演奏会で上演した作品はフルトヴェングラーのロ短調の交響詩とブルックナーの交響曲第9番だった[10]。この最初の演奏会は成功裡に終わり、批評家からも好意的な評価を勝ち得た[10]。 その後、フルトヴェングラーはチューリッヒ市立劇場、ミュンヘン王立歌劇場などで指揮を続けた[10]。やがてシュトラースブルクの歌劇場に活動の拠点を移すと、当時ハンス・プフィッツナーが古典的な作品を担当しており、フルトヴェングラーは彼の下で主に軽いオペラの指揮を担当した[10]。その後、リューベックのオーケストラで指揮を続ける中でアルトゥール・ニキシュとの知見を得る[11]。 1915年、ブルーノ・ワルターの推薦を受け、マンハイム歌劇場の主席指揮者に就任する[12]。 第一次世界大戦が勃発し、フルトヴェングラーも徴兵検査を受けたが不合格となった[13]。一方でフルトヴェングラー自身は愛国心から従軍を希望するも、周囲からの説得を受け、指揮者としての活動を続けていくことになる[14]。 1920年にはベルリン国立歌劇場に客演する[15]。1922年にニキシュが死去すると、その後継としてベルリン・フィルとライプツィヒ・ゲヴァントハウスの指揮者に就任した[15]。1925年にはニューヨークのカーネギーホールにてニューヨーク・フィルの指揮をした[16]。フルトヴェングラーのアメリカデビューは大成功を収め、批評家からも好評を博したが、翌年、翌々年と再び渡米して同じくニューヨーク・フィルを振った時には段々と評価は冷ややかになっていった[16][17]。 1933年1933年、ナチスが政権を獲得し、ヒトラーが宰相として任命される[18]。この時、フルトヴェングラーはベルリンフィルを率いて外国に客演旅行に行っていた[19]。 帰国後、フルトヴェングラーと彼の秘書であるユダヤ人のペルタ・ガイスマールとの会話をナチ親衛隊に盗み聞きされ告発を受ける[19]。ガイスマールはフルトヴェングラーがマンハイム時代より付き合いのある女性で、フルトヴェングラーの芸術を信奉し、様々な場面で彼の芸術を擁護してきた[14][20][19]。 当時、フルトヴェングラーの周りには秘書のガイスマールをはじめ、ヴァイオリニストのシモン・ゴルトベルクやグレゴール・ピアティゴルスキーといった国際的にも第一線級のユダヤ系演奏家がいた[21]。こうした存在を親衛隊は宣伝省などを通じて即時免職するよう要求していた[21]。 ナチスを通じた反ユダヤ主義の暴動が各地で盛んになる中で、フルトヴェングラーはこうした戦前のナチス政権下で方々に手を尽くして奏者のドイツ流出を防ぐよう試みたが、1930年代にはブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラー、アルトゥール・シュナーベル、ルドルフ・ゼルキン、アドルフ・ブッシュ、ロッテ・レーマンといった多くのユダヤ人ないしナチスに反対する音楽家たちがドイツを去っていった[22]。 その年の7月、フルトヴェングラーはゲッペルスによって枢密顧問員に任命される[23][24]。枢密顧問員は名誉職で鉄道の運賃が無料となったり、総理の許可が得られればあらゆる会議に参加する権利があった[24]。フルトヴェングラーの枢密顧問員就任は戦後、連合国の作ったブラックリストに彼の名が入る原因の一つとなった[25]。また1933年から1934年にかけてベルリン国立オペラ座で指揮したことも外国からはナチスが任命した指揮者が壇上に立ったかのようにセンセーショナルに受け止められた[26]。 8月、フルトヴェングラーとヒトラーがオーベルザルツブルクの山荘で会談をする[27]。この時、フルトヴェングラーはヒトラーと芸術に関する問題について話し合うつもりでいたが、音楽の話は精々ワーグナーかプッチーニ程度でほとんどはヒトラーの反ユダヤ主義や党派の話などに割かれた[27][28]。後に秘書のガイスマールとの電話の中でフルトヴェングラーはこの会談を「私は非常にがっかりした。」「我々の話の矛先は互いに食い違った。」と表現した[29]。 また客演の演奏会でイタリアに赴いた際、ムッソリーニと会談する機会をフルトヴェングラーは得た[30]。ムッソリーニとはイタリアとドイツの音楽事情について話し合うことができた[30]。フルトヴェングラーはムッソリーニについて「非常に通だった。彼は音楽の専門家と話の用意をしておいたのでしょう。」「彼がイタリアの音楽家について、高く評価していないのが印象的だった。」「彼は非常に開放的で積極的な印象を与えた。」と評している[31]。このフルトヴェングラーとムッソリーニの会談はナチ党執行部と宣伝省、外務省などに波紋を呼び、新聞ではこの会談が報じられないよう情報統制が敷かれた[31]。 1934年 ヒンデミット事件→詳細は「ヒンデミット事件」を参照
1934年3月、ドイツの作曲家パウル・ヒンデミットの交響曲『画家マチス』が初演される[32]。1920年代にオペラ『今日のニュース』を初演して以来、その作風から賛否を賑わせていた彼の音楽をナチスは「退廃音楽」と評して攻撃した[32]。一方でフルトヴェングラーは彼の作品を擁護し、その年の11月『ヒンデミット事件』と題する論文を発表した[33]。この論文はドイツ国内に大きな影響を与え、論文を掲載した新聞は追加印刷をしなければいけない程の売り上げを叩き出した[33]。その日の国立オペラ座で上演されたフルトヴェングラー指揮によるワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』のチケットは売り切れ、嵐のような拍手が会場を埋めた[34]。一方で桟敷席にいたヘルマン・ゲーリングはこの事に非常に不快感を示し、その晩、ヒトラーにヒンデミットの『画家マチス』の演奏禁止を提案した[34][35]。 翌日、ドイツ文化省はフルトヴェングラーの論文とヒンデミットの作品を非難する声明を発表する[35]。 12月4日、フルトヴェングラーは国立オペラ座、ベルリン・フィル、帝国音楽局副総裁、枢密顧問員などのポストを辞任する声明を用意する[36][37]。最終的にゲーリングとの会談の後、フルトヴェングラーはこれらのポストを正式に辞任する旨を発表した[37]。国立オペラ座の後任にはクレメンス・クラウスが就任した[38]。事件の渦中の人となったヒンデミットもその後、ドイツを去ってアメリカへと亡命することとなる[38]。 その年の年末、フルトヴェングラーはバイエルンへと出かけ、スキーなどを興じた後、ホテルで久々に作曲を始めた[39]。 1935年〜開戦まで1935年、ゲッペルスとフルトヴェングラーは会談を行い、ドイツでの楽壇復帰の声明を発表した[40]。 4月25日、ベルリン・フィルの冬季慈善演奏会に客演し指揮を取った[41]。ヒンデミット事件以来、表舞台から姿を消していたことから「逮捕された」「強制収容所に送られていた」「スイスへと亡命した」などと噂されていたフルトヴェングラーの再登場はセンセーショナルな話題となりチケットは完売、多くの著名人もこの演奏会に足を運んだ[41]。また翌週に行われた演奏会にはヒトラーはじめゲーリング、ゲッペルス、ヒムラーなどの全閣僚が列席し、彼の演奏を鑑賞した[42]。 1936年、既に祖国イタリアを脱しアメリカで活動をしていた指揮者アルトゥーロ・トスカニーニを通じてニューヨーク・フィルのその年の後半から翌年1月までのシーズンの出演を打診する電報が届く[43]。しかしゲーリングの謀略を通じて「フルトヴェングラーのドイツでの楽壇復帰」を大々的に報じ、フルトヴェングラーがナチスに屈服したという印象をアメリカに与えることでこの契約は破綻する[44]。 その頃、フルトヴェングラーは作曲を精力的に進め、『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ロ短調』や『ピアノと管弦楽のための協奏交響曲 ロ短調』などを制作していた[45]。 1937年3月には自作の初演をライプツィヒやベルリンなどで行った[46]。ヴァイオリンソナタはフーゴ―・コールベルクが、ピアノ協奏曲はエドウィン・フィッシャーがその独奏を務めた[46]。またその年には国立オペラ座にてワーグナーの『ニーベルングの指環』やバイロイト、パリの万国博覧会にて同じくワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』や『ワルキューレ』、ザルツブルクではベートーヴェンの交響曲第9番を演奏した[47]。 その年、ゲーリングはフルトヴェングラーに再びナチスのための公職として国立歌劇場の管理人となるよう要請した[48]。一方でフルトヴェングラーは書簡を通じてこれを拒絶するも、次第にゲーリングからの要求は苛烈になっていく[48]。何度かの書簡のやり取りを通じて最後まで拒絶の意志を貫いたフルトヴェングラーに対してゲーリングは激怒し、最終的に当時若手であったヘルベルト・フォン・カラヤンという名の指揮者をベルリンへ招くこととした[49]。 1938年3月、ナチスはオーストリアを併合した。ナチスの台頭以来、ドイツから出国したドイツ人やユダヤ人を始めとする多くの芸術家の避難先となっていたオーストリアは併合後、苛烈な「民族純化政策」が実行され、特にグスタフ・マーラーを始めとするユダヤ系作曲家に関する作品の上演は禁止され、その名を関する通りなどは別の名前に改名させられた[50]。また当時オーストリアに滞在していたブルーノ・ワルターやアルトゥール・シュナーベルといったドイツから出国した芸術家たちもその危険性からスイスなどへと亡命を余儀なくされた[51]。 ゲッペルスはウィーンにあった博物館や劇場などの文化施設をいずれも自らの宣伝省の管轄に組み込もうと画策していた[52]。それを危惧したウィーン・フィルのメンバーらは当時、ゲッペルスらナチス官僚と折り合いの悪かったフルトヴェングラーに頼み込み、彼の権力を通じて楽団を守ろうとした[52]。フルトヴェングラーは当初、ナチスの公職を引き受けることを長らく拒み続けて来たが、ウィーン・フィルからの要請を受け、これを受諾した[53]。またその頃、ゲッペルスから疑念をかけられていた指揮者のカール・ベームへの擁護にも努め、その嫌疑を晴らすことにも一躍買った[53]。その他、ユダヤ系として強制収容所送りの一歩手前まで来ていたヴァイオリニストのカール・フレッシュ夫妻を擁護し、ポーランドの強制収容所送りからハンガリーへの国外追放に済ませるなどをした[54]。フレッシュ夫妻はその後、この一件を足掛かりにスイスへと亡命することとなる[54]。これらに限らず、この時期、多くのユダヤ系の音楽家たちの擁護に努め、ゲッペルスやヒムラー、宣伝省などの権力者と戦いながら、彼らの国外逃亡や刑罰の減刑を図った[55]。 1939年7月、フランス政府はフルトヴェングラーにレジオン・ド・ヌール勲章を授与した[56]。一方でヒトラーはフルトヴェングラーのこの受賞の報道を禁じ、その月のフルトヴェングラーのフランス訪問を拒絶させた[56]。 戦時中1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻を開始した。ゲッペルスを始めとしたナチス指導部はフルトヴェングラーに占領地での演奏を再三に渡って要求したがいずれも拒否した[57]。一方で例外的にウィーン・フィルの経済的困難を理由にデンマークへの演奏旅行で、また上手い断りができなかったためにプラハにて招待者のみが参加することのできる演奏会でそれぞれ指揮をした[58]。 1941年3月、フォアアルルベルクでの休養中、スキーに興じていたところ酷く転倒し、ホテルへと担ぎ込まれた[59]。この時の転倒によって右手を負傷し、一時はもう指揮ができなくなってしまうのではないかとも言われた[59]。8ヶ月の入院の間、論文などの文筆業に精を出したが、最終的に再び指揮台へと立った[60]。 1942年4月19日、ヒトラーの生誕記念前夜祭にてフルトヴェングラーはベートーヴェンの交響曲第9番を演奏した。この時の演奏の録音はしばし「ヒトラーの第九」と呼ばれている。フルトヴェングラーはかねてよりヒトラーやナチス官僚ら主導によるイベントでの演奏会に登場することを避けていたが、上手く断ることができず最終的にその舞台へ上がることとなった[61]。もっともこの演奏会にヒトラーは参加していなかった[62]。 1943年11月、ベルリン・フィルのフィルハーモニー・ホールが空襲によって破壊された[63]。幸いにも当時、楽団員たちはフルトヴェングラーと共に演奏旅行に出掛けて不在であったものの、楽屋などや資料室などに収められていた書類や記録、多くの楽譜などがこの空襲によって焼失した[63]。1944年1月には更に空襲が続きフィルハーモニー・ホールのほとんどの建物が破壊された[64]。 1944年7月、かねてよりドイツにおける中心的で重要な作曲家でもあったリヒャルト・シュトラウスが、自身の別荘に避難民を受け入れる旨の要請を酷く断った出来事をきっかけに、ヒトラーによって彼の生誕80周年を祝う祝賀行事を禁止させた[65]。これに対してフルトヴェングラーはゲッペルスに宛ててシュトラウスの存在が今日のドイツにおいていかに重要であるのかを指摘した上で、そんな彼に対してこのような仕打ちをすることの愚かしさを説いた手紙を書いた[66]。 結果的にこの時、この祝賀会のために書かれ練習していたシュトラウスのオペラ『ダナエの愛』の練習が許可される旨の通達が下った[66]。一方でこの作品はその後、戦況悪化によるドイツの全ての劇場を閉鎖するゲッペルスの指令によって上演が中止された[66]。 フルトヴェングラーのスイス亡命1945年正月の早朝、ヒムラー家と親しい間柄にあるとある婦人を通じてフルトヴェングラーがナチスの「党の禁足」に触れた旨を密かに伝えられる[67]。婦人曰く7月20日に発生したヒトラー暗殺未遂事件の共謀者の一人にフルトヴェングラーの名前が挙がっていたとのことだった[67]。 フルトヴェングラーはその後のウィーンでの演奏会を終えた後、チューリッヒで妻のエリザベートと合流したフルトヴェングラーは、普段であればベルリンへ戻りその後の演奏会へと出演していく予定から外れて、そのままスイスへと脱出することを決意する[67]。しかしウィーンにあるスイス領事館でスイスへの旅行証明を得ることができなかった[67]。通常であれば受理に2、3週間かかるところであったが、一刻を争う事態の中でフルトヴェングラーはウィーンのスイス領事であったアガーテ・フォン・ティーデマンに話を付け、彼女の自己の責任において旅行証明を発行することに成功した[68]。 ウィーンでの演奏会の日、フルトヴェングラーは氷上で躓いて脳震盪を起こした[67]。その日の晩の演奏会自体は指揮台に立ったものの医者は彼に指揮台に立つことを禁止した[67]。その日の深夜からフルトヴェングラーはティーデマンと共にホテルで脱出の準備をした[67]。翌朝、ティーデマンはゲシュタポによって逮捕されフルトヴェングラーはホテルを去った[67]。いくつかの列車を乗り換えスイスの国境へと着いたフルトヴェングラーは国境の町ドルンビンに滞在した後、税関を抜けドイツを脱出することに成功した[69]。 スイスでのフルトヴェングラーは、この国の中立政策の一環としてチューリッヒでの音楽活動を禁止されていた[70]。この措置はチューリッヒの市議会で議論となった[70]。その頃、フルトヴェングラーと妻エリザベートとの間に男児が生まれる[71]。 1945年、ジュネーブ湖畔の村クラーレンスのサナトリウムへと居を移した[71]。4月30日、ヒトラーが自殺し、ドイツ第三帝国は崩壊する。この時、ヒトラーの死去を報じるニュース映像にはフルトヴェングラーの指揮するワーグナーの『ジークフリートの葬送行進曲』の録音が使用された[71]。 戦後戦後、ドイツに進駐したアメリカ軍はフルトヴェングラーを枢密顧問員や帝国音楽評議会議長代理というポストからブラックリストに載せる[72]。また1945年末にはベルンの布告によってスイスから追放されることとなった[72]。 ポツダムにあったフルトヴェングラーの家は東から進駐したソビエト連邦赤軍によって差し押さえられた[73]。 戦後、裁判を受けたフルトヴェングラーは、ナチス政権下でヒトラーをはじめとする官僚たちとヒンデミット事件などで対立していたことや、ナチス式敬礼を行っていなかったことなどを理由に無罪を宣告した[74]。一方でこの判決を連合国は認めず、非ナチ化手続きを行うこととなった[75]。この頃、フルトヴェングラーは普段、忙殺されていた指揮や政治の世界からすっかり離れたこともあり、久しぶりに作曲の時間を設けることができた[75]。この時に制作されたのが交響曲第2番である。 非ナチ化審理に多くの時間が割かれる中で、フルトヴェングラーのドイツ脱出を手引きしたティーデマンや戦後、ヨーロッパを演奏旅行で訪れていたヴァイオリニストのユーディ・メニューインなどが彼の現状を知り擁護した[76]。最終的に非ナチ化審理は完了し、フルトヴェングラーの無罪が改めて承認された[77]。 1947年5月、焼け落ちたフィルハーモニー・ホールに代わってそれまでベルリン・フィルの練習場として使われていたティターニア・パラストでフルトヴェングラーの復帰演奏会が開かれた[78]。演目はベートーヴェンのエグモント序曲、交響曲第5番、交響曲第6番だった[78]。 8月にはルツェルンにてメニューインの独奏によるブラームスのヴァイオリン協奏曲を、9月にはベルリンのティターニア・パラストでベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏した[79]。 その後、フルトヴェングラーはスウェーデンのストックホルムやイギリスのエディンバラ、アルゼンチンのブエノスアイレス、エジプトのアレクサンドリアなどの世界中の都市へと演奏旅行に赴いた[80]。1950年3月にはイタリアのミラノ・スカラ座にてワーグナーの『ニーベルングの指環』を上演した[80]。 1948年、アメリカのシカゴ交響楽団がフルトヴェングラーと契約を結んだ旨を発表したが、非ナチ化審理を終えたとはいえ未だフルトヴェングラーがナチスと協力した人物という評価が根強く、非難が殺到したため、この契約は御破算となった[81]。1950年にはメトロポリタン歌劇場との契約が持ち上がるがやはり同じ理由で猛烈な反対が挙がったことからこの話も解消された[82]。 1949年、フルトヴェングラーの自作の交響曲第2番を自身の指揮の下で初演する[83]。 1951年から1952年にかけてはドイツ中を演奏旅行して回った[84]。1952年7月、肺炎が悪化し1954年11月30日、バーデン=バーデン郊外のサナトリウムにて急性気管支炎のため逝去した[85]。 略年譜
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顕彰ほか
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー賞妻のエリーザベト・フルトヴェングラーの創始・発案により、1990年から、イベント「バーデンバーデン・ヨーロッパガラ」の一環として、「ヴィルヘルム・フルトヴェングラー賞」の授与が開始された。これは、国際的に活躍した歌手や指揮者らに対し、クラシック音楽分野での傑出した功績を称えて贈呈される。毎年ではなく不定期に実施され、初回の受賞者はテノール歌手のプラシド・ドミンゴであった。 2008年からは、ボンのベートーヴェン祭典の期間中に授与されている。 受賞者リスト
主な録音初録音は公式には1926年のベートーヴェンの交響曲第5番とウェーバーの「魔弾の射手」序曲と記録されている。
映像1954年ザルツブルク音楽祭におけるモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』、1942年AEGによる慰問演奏会での『ニュルンベルクのマイスタジンガー』第1幕前奏曲、ナチス高官を前にしての演奏などが残っている。 主な初演作品
作曲家として![]() ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームスを尊敬していたフルトヴェングラーは、自身を作曲家であるとみなしていた。ブルックナーらに匹敵する長大な作品が多く、3つの交響曲、交響的協奏曲、ピアノ五重奏曲は演奏に1時間以上を要する。 現状、作曲家としてのフルトヴェングラーやその作品群が評価されているとは言い難いが、演奏や録音の機会は増えつつある。それらはフルトヴェングラー自身の自演をはじめ、彼とゆかりの深かった演奏家、影響を受けた演奏家によるものが多く、ヨーゼフ・カイルベルト、オイゲン・ヨッフム、ヴォルフガング・サヴァリッシュ、ラファエル・クーベリック、ロリン・マゼール、ダニエル・バレンボイム、朝比奈隆などの著名な指揮者も含まれる。また、アルフレート・ヴァルターとゲオルゲ・アレクサンダー・アルブレヒトが交響曲全集を完成させている。 日本でも、東京フルトヴェングラー研究会は主要作品の初演、再演、楽譜の出版などで、啓蒙的な役目をはたしている。 現在、フルトヴェングラーの作曲原稿のほとんどは、チューリヒ中央図書館に所蔵されており、詳細な作品目録は図書館で行われたシンポジウムの講演録と共に刊行された(邦訳は関連文献)。 交響曲
管弦楽曲
室内楽曲
声楽曲
伴奏ピアニストとしての活動エリーザベト・シュヴァルツコップが1953年ザルツブルク音楽祭でヴォルフ没後50年を記念しておこなったオール・ヴォルフ・プログラムによるリサイタルを伴奏した録音や、ウィーン・フィルハーモニーとの演奏会に於けるバッハのブランデンブルク協奏曲第5番(これには1940年12月21日または22日のウィーンでのものと、1950年8月31日のザルツブルク音楽祭のものとがある)の録音が残っている。 秘書によると、所用でフルトヴェングラーの自宅を訪れた際、ベートーヴェンのあるピアノソナタを弾いており、なかなかの演奏であったという。[要出典] 主要な著作フルトヴェングラーは評論、文筆活動にも積極的で、多くの著作も刊行している。
主な訳書
参考文献文献資料
報道資料
関連文献
関連項目
脚注
外部リンク
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