平方領領家
平方領領家(ひらかたりょうりょうけ)は、埼玉県上尾市及びさいたま市西区の大字。平方領々家とも表記される[注釈 1]。 上尾市平方領領家の一部を大宮市(現・さいたま市)に編入した経緯から2つの自治体に跨る。もとは江戸期より存在したひとつの領家村であった。 地理埼玉県の県央地域で、上尾市南部の大宮台地上に位置する三角形の形をした地区である。上尾市の統計などでは平方地区で分類されている。東側は地頭方、南側はさいたま市西区中釘、西側は上野や上野本郷、北側は平方と隣接する。また、東側は対角線上に堤崎が位置している。地区の東端を浅間川が流れる。鉄道駅は周辺になく、地区北部の川越上尾線沿線付近を除いたほぼ全域が市街化調整区域[12]で田畑が多く、住宅はまばらにある。南部のさいたま市との境界付近は小工場を中心とした工業地帯である[9]。また、西部および南部に飛び地が複数ある。 地内に房地遺跡(県遺跡番号:14-359[12])や、東中遺跡(一部、県遺跡番号:14-073)があり、土器片が発掘されている。 さいたま市西区平方領領家は全域が市街化調整区域[13]であるが、川越線指扇駅に近く、区域内は住宅が立ち並び住宅地となっている。地区内を指扇辻川[13]が南北に流れ、南端を滝沼川が流れる。滝沼自治会が結成されている。 地価住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば平方領領家字東谷130番3の地点で2万5900円/m2となっている[14]。 歴史もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡平方領に属する領家村であった。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では220石(田50石余、畑169石余)[15]、『元禄郷帳』によると平方領として279石余、『天保郷帳』によると294石余であった[16]。化政期の戸数は46軒で、村の規模は東西7町、南北10町余であった[16]。地名の由来は荘園の領家が居住していたことによるものと云われ、鎌倉・南北朝期に地頭方の地名が生じた際に関連して生じたものとされている[16]。1879年(明治12年)に同名村名との混同を防ぐために平方領を冠称し、平方領領家村となった[16]。 1875年(明治8年)の農業産物高は武蔵国郡村誌によると米72石、糯米8.6石、大麦250石、小麦90石、大豆159石、栗16石、蕎麦25石、甘藷9000貫、菜種20石であった[17]。 発足時は幕府領、1625年(寛永2年)は岩槻藩領となる[16]。1681年(天和元年)は再び幕府領、後[注釈 2]幕末まで旗本羽太氏の知行となる。
小字世帯数と人口さいたま市西区2017年(平成29年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
上尾市2017年(平成29年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[7]。
小・中学校の学区さいたま市西区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[31]。
上尾市市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[11]。
交通鉄道地内に鉄道は敷設されていない。上尾市平方領領家の最寄駅は東端から3.5 kmの高崎線上尾駅と、南端から3 kmの川越線西大宮駅がある。何れも徒歩圏ではない。 さいたま市西区平方領領家は川越線指扇駅が最寄となる。 道路
バス上尾駅西口駅前より平方・川越駅方面や大宮駅西口駅前などからの路線バスが多数運行されている。
地域町内会寺社領家村の頃は村社の氷川社のほか、天神社、大六天社、風天社、天王社、八幡社、愛宕社、神明社、稲荷社[注釈 8]が鎮座していたが[36]、地内に神社は存在しない。旧平方村で村内にある神社の合祀が1908年(明治41年)5月に行われたためである[36][37][注釈 9]。合祀先は平方の氷川神社で、1909年(明治42年)9月25日に合祀祭が挙行され[36]、橘神社に改称された[38]。なお、さいたま市西区の平方領領家には寺社は特に存在しない。 施設さいたま市西区の平方領領家には目立った施設は特に存在しない。以下は全て上尾市側に所在する。なお、上尾市側地内に街区公園や指定緊急避難場所[41]は存在しない。
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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