中分 (上尾市)
中分(なかぶん)は、埼玉県上尾市の町名。現行行政地名は中分一丁目〜六丁目。住居表示未実施[6]。郵便番号は362-0067[3][7]。 人口統計などでは大石地区で分類されている。面積は1.865 km2で上尾市の町丁としては最も広い[注釈 1]。 地理埼玉県の県央地域で、上尾市の北西部に位置する逆三角形の形をした南北に細長い地区である[8]。地区の東側は大宮台地上にあるが、地区の西端を江川やその支流の逆川などが流れ、その流域の沖積平野や多くの開析谷(谷津)や小河川が複雑に入り組み、市内では最も起伏に富んだ地域のひとつである[9]。地区の南部、一丁目のさいたま鴻巣線と上尾環状線に挟まれた区域が市街化区域(主に第一種低層住居専用地域、県道などの主要な通り沿線は第一種住居地域や第二種低層住居専用地域)に指定されている[10]。その区域を中心に市街化され住宅が建ち並び街区公園が整備されているが、その他の大半の区域は市街化調整区域[10]となり、その区域の大部分が低地の水田(谷津田)や入り組んだ舌状台地上の耕作地といった農地で占め、「藤波・中分ふるさとの緑の景観地」をはじめとした自然が数多く残り、また屋敷森を持つ農家も点在する[9][8]里山的景観が見られる。地区の北東側は上尾市唯一となった赤松林を擁する大宮ゴルフコースが広がる[11]。 地内には台地上に下遺跡(県遺跡番号:14-168[10])や小谷津遺跡(県遺跡番号:14-166)などの遺跡(埋蔵文化財包蔵地)が多数見られ、建物跡・土壙・ピットなどの遺構や、縄文土器や石器などの遺物が検出されている。 歴史もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡石戸領に属する中分村であった[12]。かつての藤波村の中藤波と称された場所に当たり、現在の藤波は上藤波、小泉は下藤波と称されていた[13]。正保〜元禄年間に藤波村より分村する[9][12]。地名も藤波村から分村した中藤波から生じたものと云われている[12]。村高は『元禄郷帳』および『天保郷帳』によると143石余であった。化政期の戸数は50軒で、村の規模は東西12町、南北21町であった[14]。飛地が畔吉、領家、藤波村のうちにあった。 1875年(明治8年)の農業産物高は武蔵国郡村誌によると米69.98石、大麦132.48石、小麦120石、小豆73.2石、甘藷210120斤、製茶312斤であった[15][注釈 2]。 はじめは知行は旗本牧野氏、1867年(慶安3年)に知行は牧野氏一族に分知された相給地となる[12]。なお、検地は1620年(元和6年)および1667年(寛文7年)および1687年(貞享4年)に実施[12]。
存在していた小字
※登記簿上は今もなお存在する小字を含む。 世帯数と人口2019年(平成31年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。大半が区画整理されている一丁目に集中している。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[42]。
交通地区内には鉄道は敷設されていない。最寄り駅は地区が南北に長く、場所によっては高崎線桶川駅や北上尾駅が利用できる場合もあるが、下記バス利用で上尾駅が挙げられる。何れの駅も遠く徒歩圏ではない。 道路
バス上尾駅西口駅前より西上尾第一団地方面を経由する路線バスが運行されている。かつては現在の県道57号さいたま鴻巣線の小泉交差点〜小敷谷交差点間に東武バスの路線バスが運行されていた時期があった[43]。
地域町内会
祭事
寺社・史跡かつては村社の天満社のほか、十二所社や八坂社や厳島社や神明社や氷川社や愛宕社や庚申社や白山社[46]と多数鎮座していたが、地内に神社はゴルフ場内の氷川社を除き存在しない。旧大石村で村内にある神社の合祀が1907年(明治40年)に行われたためである[47]。合祀先は小泉の氷川神社で、合祀後は八合神社に改称された[46]。
公園・緑地
施設かつては地内にさいたま農業協同組合大石支店(旧あだち野農業協同組合本店、元「大石支所」[注釈 9])があった。
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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