西宮下
西宮下(にしみやした)は、埼玉県上尾市の町名[6]。現行行政地名は西宮下一丁目から西宮下四丁目。住居表示未実施地区[7]。郵便番号は362-0043[3]。 市の統計などでは大谷地区で分類されている。 地理埼玉県の中央地域(県央地域)で、上尾市南部に位置する[6]。鴨川左岸の大宮台地上にあたる[6]。大谷地区では唯一鴨川の左岸側に位置する町・字である。北で谷津、東で愛宕、南東で栄町、南でさいたま市北区別所町、南西の鴨川畔で僅かに大谷本郷、西で向山、北西で富士見と隣接する。東側には高崎線が通っている。南部は川越上尾線(川越街道)が東西に通り、鴨川を渡河する地点で揺木橋が架かる。 「川越上尾線」以南で鴨川流域沿いに僅かに市街化調整区域が存在するほかは市街化区域で、一丁目および「川越上尾線」沿線は主に第二種住居地域、二・三丁目および都市計画道路「西宮下中妻線」の予定地沿いは主に第一種住居地域(三丁目の一部は第一種中高層住居専用地域)、四丁目は主に第一種低層住居専用地域(北部は第二種住居地域)に指定されている[8]。かつては畑地と南部の林野が大半を占めていたが、大部分が宅地化されている[6]。生産緑地地区てして農地も見られる[注釈 1]。 地内に西宮下三丁目遺跡(県遺跡番号:14-027[8])やB-82号遺跡(県遺跡番号:14-427)などの縄文遺跡(包蔵地)があり、集落跡や加曾利E式の土器片も発掘されている。 河川地価住宅地の地価は2019年(平成31年)1月1日に公表された公示地価によれば西宮下2丁目73番の地点で10万6000円/m2となっている[9]。 町内会歴史江戸時代は足立郡大谷領に属した宮下村であり[11]、江戸初期は旗本柴田氏領、元禄年間に天領となり、後に旗本大岡氏領となる[12]。『新編武蔵風土記稿』には「民戸十五天水場にて旱損あり」と記述がある[13]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では宮ノ下村として102石102余(田41石余、畑52石余、山高8石余)[14]、『元禄郷帳』および『天保郷帳』では127石余であった[15]。化政期の戸数は15軒で、村の規模は東西2町半、南北3町余であった[15][13]。 明治元年(1868年)武蔵知県事管轄となり、その後浦和県を経て明治4年(1871年)埼玉県管轄となる[12]。1875年(明治8年)の農業産物高は武蔵国郡村誌によると米35.6石、大麦40石、小麦19.8石、大豆5.1石、小豆1.6石、稗8石、蕎麦1.6石、甘藷1,800貫[注釈 2]であった[16]。
地名の由来宮下村の由来は村内に谷津村の氷川神社があったことによる[12][13]。 存在していた小字
※ 『新編武蔵風土記稿』には「新田川」・「本村」・「向川」の記載がある[13]が、現在の場所を特定できない[34]。 世帯数と人口2017年(平成29年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[35]。
交通鉄道東辺をJR東日本高崎線が通るが駅は設置されていない。最寄駅は上尾駅[9]であるが、西宮下2丁目よりおよそ1.2 km離れている。 道路都市計画道路 西宮下中妻線(並木通り)の川越上尾線までの延伸が計画されている[8]。
バス過去には上尾駅東口より線路沿いを南下し川越街道旧道を通る東武バスの路線バスが運行されていた時期もあった[36]が、以降町域内には路線バスが無く、コミュニティバスのみの運行となっている。
施設
祭事
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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