平方町

ひらかたまち
平方町
廃止日 1955年1月1日
廃止理由 新設合併
上尾町・原市町平方町大石村大谷村上平村 → 上尾町
現在の自治体 上尾市さいたま市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 埼玉県
北足立郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 5.61 km2.
総人口 3,987
(1955年)
隣接自治体 北足立郡大石村、大谷村、指扇村
入間郡古谷村、芳野村、比企郡川島村
平方町役場
所在地 埼玉県北足立郡平方町
座標 北緯35度56分50秒 東経139度33分14秒 / 北緯35.94722度 東経139.55392度 / 35.94722; 139.55392座標: 北緯35度56分50秒 東経139度33分14秒 / 北緯35.94722度 東経139.55392度 / 35.94722; 139.55392
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平方村石倉醤油醸造場
平方のどろいんきょ

平方町(ひらかたまち)は、埼玉県北足立郡にあった。現在の上尾市南西部にあたる。

江戸時代から明治時代荒川の平方河岸が賑わった、畑作中心の農村地帯であった。

地理

上尾市の平方地区にあたる。平方町は、指扇村に向けて南に細長く突き出た部分をもっていた。このうち先端部(平方領領家の一部)は、合併後の1982年11月1日に上尾市から大宮市に変更になり、現在ではさいたま市西区の一部になっている。

関東平野の中にある大宮台地の西の端に位置し、西で荒川に面する。西部が荒川沿いの低地で、東部が台地である。山はない。また荒川対岸の現川越市東本宿に飛び地があるが、かつてこの飛び地には屏風沼[1]という水源があった。

隣接していた自治体

(括弧内は現在の自治体)

歴史

武蔵国足立郡平方領に属し、平方村・上野村・上野本郷村・(平方領)領家村・貝塚村があった。このうち平方村に荒川の河岸(平方河岸)があって、渡し場を兼ねていた。南北の荒川水運と東西の上尾・川越間陸路が交差する場所にあり、町並みが形成され、人口は約1,300人ほどあった。これは当時の上尾宿より少し多い。清酒・味噌の手工業があった。江戸時代、明治時代の平方は、川沿いの低地で水田を作ったほかは、大麦の畑作を中心にした農村地帯であった。

平方河岸は明治時代になっても続いたが、1883年(明治16年)に鉄道が開通するとこれに輸送を奪われて衰退していった。また、同年に初めて架けられた開平橋は、上尾・川越間の陸上交通を便利にしたが、水運には打撃となった。人口は1876年(明治9年)に平方村単独で1,226人、合併5村をあわせて1,823人あり、1915年(大正4年)には3,013人に伸びたが、その後伸びは鈍化した。大正時代から1930年代には養蚕が盛んになり、製糸工場が二つできたが、工場は1923年(大正12年)の関東大震災で壊滅[2][3]して再建されなかった。

1928年(昭和3年)に町制を施行したが、人口は減少傾向を続けていた。1955年(昭和30年)、いわゆる昭和の大合併による合併機運が高まる中、上尾町など3町3村で合併し上尾町となった。合併後、1961年(昭和36年)から小規模な工場が立ち始め、1970年頃から耕地が減少して住宅が増え始めた。2005年4月1日に平方地区の人口(住民基本台帳)は9,333人になった。

沿革

  • 1869年明治2年)
  • 1871年(明治4年)11月14日 (旧暦) - 浦和県・忍県岩槻県の3県が合併して埼玉県が誕生。
  • 1879年(明治12年) - 足立郡の区域をもって行政区画としての北足立郡が発足。郡役所は浦和宿に設置。貝塚村が北足立郡内での同名村との区別のため、西貝塚村となる(東は現川口市東貝塚[4]
  • 1885年(明治18年)- 上尾と川越を結ぶ道路を改良して県道(現在の埼玉県道51号川越上尾線)として開通する[5]
  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、北足立郡上野村・上野本郷村・西貝塚村・平方村・平方領領家村の区域をもって平方村が成立する[6]。旧平方村は大字平方になる。このとき唯一中釘村連合に属した西貝塚村は難色を示し、歴史的な経緯から指扇村への合併を希望したが、距離が近い平方に付けられた[7]。村役場が連合戸長役場と同じ場所(氷川神社(現橘神社)東側)に置かれる[8]
  • 1900年(明治33年)- 平方村と大石村の境に荒川の八塚堤防が築かれる[9]
  • 1908年(明治41年)- 村役場が下宿東谷に所在する雷電社跡地[8]に移転される。
  • 1921年大正10年)6月 - 金銭問題により村長の排斥運動が起こり、引責辞任する[10]
  • 1923年(大正12年)9月 - 関東大震災が発生、町内では製糸場の煙突倒壊で2名の死者を出すほか、平方尋常高等小学校(現、上尾市立平方小学校)の校舎が一部損壊し、墓石や神社の灯籠が倒れる被害を出した[2]。また荒川の八塚堤防に多数の亀裂が入り、八塚樋管が損傷する被害も出る[11]
  • 1924年(大正13年)
    • 4月15日 - 平方尋常高等小学校の校内に「平方村図書館」を設置し、開館する[12]
    • 7月15日 - 平方村の「川越上尾線」より北上し、大石村を経由して桶川町に至る村内の道路を「平方桶川線」(路線番号226、現在の埼玉県道57号さいたま鴻巣線の前身)として県道に編入する[13][14]
  • 1928年昭和3年)11月1日 - 町制施行により平方町となる[15][16]。大字平方1674番地(平方小学校の川越街道を挟んだ向かい側)に町役場を開設する[8]。同年11月5日10時に町制記念祝賀会が平方小学校にて挙行され、余興の芝居や花火なども行われる[16]
  • 1943年(昭和18年)1月 - 上尾町の実行委員は平方町ほか大谷村・大石村に上尾町へ合併の交渉を行なったが[17]、結果は不調に終わった[18]
  • 1948年(昭和23年)
  • 1949年(昭和24年)- 平方町立診療所を開設するため、町役場の庁舎を改造して使用したことに伴い、平方小学校の敷地内に町役場を移転する[8]
  • 1955年(昭和30年)1月1日 - 町村合併促進法の施行に伴い、上尾町・腹市町・大石村・大谷村・上平村と新設合併し、改めて上尾町が発足[15]。同日平方町廃止。

歴代村長・町長

氏名 就任年月日 退任年月日 備考
初代村長 石川金太郎 1889年(明治22年) 退任日不明
二代村長 石川金太郎 1893年(明治26年)6月5日 1898年(明治31年)10月26日
三代村長 新木伸造 1898年(明治31年)10月27日 1902年(明治35年)10月26日
四代村長 関根善太郎 1902年(明治35年)11月4日 1906年(明治39年)2月26日
五代村長 町田倉造 1906年(明治39年)7月3日 1908年(明治41年)5月9日
六代村長 石川金太郎 1908年(明治41年)5月28日 1908年(明治41年)9月22日
七代村長 関根善太郎 1908年(明治41年)10月9日 1912年(大正元年)10月18日
八代村長 永島満蔵 1912年(大正元年)12月12日 1913年(大正2年)9月5日
九代村長 永島英智 1913年(大正2年)10月5日 1917年(大正6年)9月25日
十代村長 関根善太郎 1917年(大正6年)10月4日 1920年(大正9年)1月8日
十一代村長 石川久次 1920年(大正9年)2月5日 1921年(大正10年)6月11日
十二代村長 秋山次郎助 1921年(大正10年)7月16日 1923年(大正12年)8月13日
十三代村長 秋山次郎助 1924年(大正13年)2月16日 1928年(昭和3年)1月10日
十四代村長/初代町長 鈴木太重郎 1928年(昭和3年)3月7日 1932年(昭和7年)3月6日 任期中に町制施行、以下町長
二代町長 永島荘次 1932年(昭和7年)4月11日 1936年(昭和11年)4月10日
三代町長 永島荘次 1936年(昭和11年)4月17日 1940年(昭和15年)4月16日
四代町長 永島金作 1940年(昭和15年)10月19日 1942年(昭和17年)4月17日
五代町長 市川一次 1942年(昭和17年)12月4日 1946年(昭和21年)2月28日
六代町長 石川仁郎 1946年(昭和21年)3月19日 1947年(昭和22年)4月6日
七代町長 石川仁郎 1947年(昭和22年)4月7日 1951年(昭和26年)4月4日 地方自治法施行後初の町長
八代町長 岡田孝二郎 1951年(昭和26年)4月24日 1953年(昭和28年)5月20日
九代町長 永島荘次 1953年(昭和28年)6月11日 1954年(昭和29年)12月31日

※ 以上出典は『上尾百年史』170-172頁および186頁。

脚注

  1. ^ 外部リンク節の『今昔マップ on the web』を参照。
  2. ^ a b 『上尾百年史』, p. 584.
  3. ^ 『上尾百年史』, pp. 301–304.
  4. ^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 653頁。
  5. ^ 『上尾百年史』, p. 561.
  6. ^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』730頁。
  7. ^ 『上尾百年史』, pp. 127–128.
  8. ^ a b c d 『上尾百年史』, pp. 212–214.
  9. ^ 『上尾百年史』, pp. 594–596.
  10. ^ 上尾市史 第四巻 資料編4、近代・現代1 189-191頁。
  11. ^ 上尾市史 第四巻 資料編4、近代・現代1 819-821頁。
  12. ^ 上尾市史 第四巻 資料編4、近代・現代1 714-719頁。
  13. ^ 上尾市史 第四巻 資料編4、近代・現代1 618頁。
  14. ^ 現在の「桶川新道」バス停付近の交差点より小敷谷方面に向かう道路のことである。外部リンク節の『今昔マップ on the web』も参照。
  15. ^ a b 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』1421頁。
  16. ^ a b 上尾市史 第五巻 資料編5、近代・現代2 18-20頁。
  17. ^ 『上尾市史 第五巻 資料編5、近代・現代2』 89-90頁。
  18. ^ 『上尾市史 第五巻 資料編5、近代・現代2』 49頁。
  19. ^ 『上尾市史 第五巻 資料編5、近代・現代2』 198-203頁。
  20. ^ 上尾市史 第五巻 資料編5、近代・現代2 464-466頁。

参考文献

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月8日。ISBN 4040011104 
  • 上尾市教育委員会・編『上尾市史 第四巻 資料編4、近代・現代1』上尾市、1994年3月15日。 
  • 上尾市教育委員会・編『上尾市史 第五巻 資料編5、近代・現代2』上尾市、1998年3月31日。 
  • 上尾百年史編集委員会・編『上尾百年史』上尾市役所、1972年2月10日。 

関連項目

外部リンク