上野本郷(うえのほんごう)は、埼玉県上尾市および同県さいたま市西区[8]の大字。
上尾市の統計などでは平方地区で分類されている。郵便番号は上尾市が362-0056[3]、さいたま市西区が331-0000[7][注釈 1]。
地理
埼玉県の県央地域で、上尾市南西部の大宮台地上[9]で上尾市の最南端に位置する。東側で大字平方領領家やさいたま市西区大字中釘に、南側から西側にかけてさいたま市西区大字指扇領辻に、北側を大字上野に隣接する。地区の中央部には、大字平方領領家の小さな飛地が二カ所ある。地区の南部はさいたま市側に細長く突き出し、大字平方領領家の飛地や大字指扇領辻との境界が複雑に錯綜する。地区の南端のさいたま市との境界付近で普通河川の指扇辻川が流れる[10][11]。
地区内は全域が市街化調整区域[12]で農地が多く残り、屋敷森のある農家も数多く所在する、隣接する大字上野や大字平方領領家と同様、農地的土地利用の比重が高い地区である[13]。農地は主に畑地である。また、地区の東から南にかけての小河川の指扇辻川(滝沼川の支流)が開析する低地沿い(谷戸)はさいたま市との市境が通り、水田として利用されていた[9]が近年は営農環境の悪化により荒地化した一方で、台地上の水田(陸田化)が増加している[14]。地内に上野本郷前遺跡(県遺跡番号:14-306[12])などの集落跡があり、土器片が発掘されている。
さいたま市西区の上野本郷は、上尾市との境界付近に地番568-3が存在するのみである[15]。
歴史
もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡指扇領に属する上野本郷村であった[9]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では130石(田73石余、畑56石余、山銭として永411貫文)[17]、『元禄郷帳』136および『天保郷帳』によると136石余であった。化政期の戸数は22軒で、村の規模は東西3町、南北10町余であった。地名は台地面上にある本郷を意味するものと云われている[9][14]。
1875年(明治8年)の農業産物高は武蔵国郡村誌によると米77.2石、大麦104.6石、小麦15.9石、大豆3.5石、栗20.3石、稗19石、蕎麦6.6石、菜種3.5石、茶3貫、甘藷720貫、里芋2400貫[注釈 2]であった[18]。
1880年代は農地の割合が71.4 %(田19.5 %、畑51.9 %)で最も広く、山林の割合は15.6 %で、宅地が7.7 %で、原野は1.2 %であった[14][注釈 3]。1950年代でも桑畑が普通畑に置き換わり、宅地が若干増加したほかは大きな変化は見られない。
初めは幕府領、1623年(元和9年)より知行は旗本山内氏[9]。1689年(元禄2年)より山内氏が土佐藩に移封されたため上知され[14]再び幕府領となるが、1696年(元禄9年)より知行は旗本春日氏(従五位下春日河内守貞顯)[19]となり、1701年(元禄14年)より知行は一族の春日氏となる[9]。なお検地は1694年(元禄7年)に実施。
幕末の時点では足立郡上野本郷村であった。明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、旗本春日半次郎の知行であった[20][注釈 4]。
存在していた小字
小字は以下のほかにも児の墓(ちごのはか)、明神前、明神下、明神裏が『武蔵國郡村誌』や『新編武蔵風土記稿』に記されているが、現在の場所を特定できない。
世帯数と人口
上尾市
2019年(平成31年)1月1日時点の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
さいたま市西区
2019年(平成31年)4月1日時点の世帯数と人口は以下の通りである[6]。
小・中学校の学区
上尾市
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[30]。
さいたま市西区
学区は示されていない[31]。
交通
地区内に鉄道は敷設されていない。最寄り駅は川越線指扇駅である。駅から遠く徒歩圏ではない。
道路
地区内に国道および主要地方道・一般県道は通っていない。
バス
大宮駅西口や西大宮駅北口方面への路線バスが運行されている。
- 東武バスウエスト上尾営業所・東武バスウエスト大宮営業事務所
- 地区内は「一本木」バス停留所が設置されている[32]。
- 上尾市コミュニティバス「ぐるっとくん」[33]
- 地区内は「一本木」バス停留所が設置されている。
町内会
施設
地内に街区公園や神社は存在しない。また、地内に指定緊急避難場所は存在しない[35]。上野本郷村の頃は神社は村社の稲荷社のほか、神明社、荒神社、熊野社が設立されていた[注釈 10][9]。旧平方村で村内にある神社の合祀が1908年(明治41年)5月に行われたためである[36][37]。合祀先は平方の氷川神社で、1909年(明治42年)9月25日に合祀祭が挙行され[36]、橘神社に改称された[38]。また、地内に観音堂が建立され、1876年(明治9年)1月まで存在が確認されているが、その後1882年(明治15年)までに廃堂されている[39]。なお、以下はすべて上尾市に所在する。
脚注
注釈
- ^ a b 「掲載がない場合」としての郵便番号。
- ^ その他大角豆0.75石、仏掌薯108貫、大根440貫、茄子60貫[18]。
- ^ 残り4.1 %は雑種地。
- ^ 『上尾百年史』などでは春日半五郎氏の知行と記されている[14][21]
- ^ さいたま市発足後に上尾市との境界変更が行われたことはない。大宮市は、1961年(昭和36年)12月1日と1982年(昭和57年)11月1日に上尾市との境界変更を行っている[6]。
- ^ なお、平方領領家字滝沼の方は上記1982年(昭和57年)3月定例市議会後の1982年(昭和57年)11月1日に境界変更が実施された旨が出典の広報誌(広報あげお 373号)に記されているが[28]、大字上野本郷字常光橋の方については特に言及はない。
- ^ 『武蔵國郡村誌』では「三塚(上野)」と記されている。
- ^ 『武蔵國郡村誌』では「野久保(上野)」と記されている。
- ^ 『武蔵國郡村誌』、『新編武蔵風土記稿』では「ホウシ久保」と記されている。
- ^ これら3社は平方への合祀までに稲荷社に合祀されている[36]。
出典
参考文献
- 上尾市教育委員会・編『上尾市史 第八巻 別編1、地誌』上尾市、1997年3月31日。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月8日。ISBN 4040011104。
- 上尾百年史編集委員会・編『上尾百年史』上尾市役所、1972年2月10日。
- 「上野本郷村」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ152足立郡ノ18、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:764000/30。
関連項目
外部リンク