中妻 (上尾市)
中妻(なかづま)は、埼玉県上尾市の町名。現行行政地名は中妻一丁目〜五丁目、および大字中妻。住居表示未実施地区[6]。郵便番号は362-0072[3]。 市の統計などでは大石地区で分類されている。 地理埼玉県の県央地域で、上尾市北部の大宮台地上に位置する。町域の東側を原新町、南側を浅間台、西側を泉台、北側を井戸木や桶川市朝日と隣接する。 町域の西端を鴨川が流れ、上流からふれあい橋、菜の花橋、あすなろ橋、鴨川橋が架かる。町域の東端付近を高崎線、中央部を都市計画道路の西宮下中妻線(並木通り)や富士見ヶ丘中妻線(浅間通り)が南北に通り、町域の南部を上尾環状線(BS通り)が東西に通る。 全域が市街化区域で主に第一種低層住居専用地域(一部主要な通り沿いは第一種中高層住居専用地域や第二種住居地域、ブリヂストンサイクル周辺は工業地域、駅前周辺は第二種中高層住居専用地域)に指定され[7]、全体的には主に住宅地が広がっているが、一部生産緑地地区として耕作地も見られる。かつては大半が耕作地と雑木林であった[8]。 大字中妻は相次ぐ区画整理事業による地番整理によりほぼ消滅し、残部が上尾環状線と高崎線が交差する久保踏切付近に僅かに存在する。 地内に集落跡である中妻三丁目遺跡(県遺跡番号:14-308[7])があり、土器片も発掘されている。 地価住宅地の地価は、2018年(平成30年)の公示地価によれば、中妻四丁目22-24の地点で11万4000円/m2となっている[9]。 歴史もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡大谷領に属する中妻村であった[10]。古くは近世初頭頃は上村(のちの沖之上村)のうちにあったと思われるが[11]、元禄期以前[注釈 1]に分村して成立した。飛地が沖ノ上村と久保村の間および井戸木村のうちに存在した[10]。村高は『元禄郷帳』によると160石余。および『天保郷帳』によると168石余であった。村の規模はおよそ東西12町、南北13町余で、化政期の戸数は20軒余であった[10][12]。 地名については諸説あり、「中つ間」、もしくは「ナカツマ」のマはアイヌ語で沼を意味し、「鴨川の谷が浅くなった沼」を意味するものではないかと思われている[11]。 1875年(明治8年)の農業産物高は『武蔵国郡村誌』によると米12.6石、大麦102石、小麦18石、大豆6石、小豆3.6石、菜種2.1石であった[13]。また、中妻は甘藷(さつまいも)の一大産地であった。昭和30年代にかけて出荷された中妻産の芋は築地や神田などの各市場で好評で、桶川の商人を通じて芋や苗を青森県などにも広く出荷していた[14]。
存在していた小字※ 登記簿上は今もなお存在する小字を含む。 世帯数と人口2019年(平成31年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[41]。
交通高崎線西側脇に平行する市道が地区東端の原新町との境界となっているため、北上尾駅の駅舎の一部が中妻に掛かる。最寄り駅までの距離は地域によって差があり、町域に当たる駅西口交通広場[7](西口駅前広場)とその周辺は至近距離にあるが、中妻四丁目22番地24号の地点ではおよそ 1.5 km[9]離れている。なお、北上尾駅は原新町に立地する。 道路
バス地区内には路線バスが無く、コミュニティバスのみの運行となっている。なお、過去に丸建自動車のけんちゃんバスが運行され、地内に「北上尾駅西口」、「北上尾駅入口」、「中妻3丁目東」、「中妻3丁目西」、「中妻4丁目西」、「中妻5丁目西」バス停留所が設置されている時期があった[42]。また、旧中山道の(旧)上尾車庫より「久保」バス停留所(久保西交差点)を経由してBS通りを通り、大石支所を経由して県道を通り「小敷谷」に至る東武バスの路線バスが運行され、地内に「中妻」バス停留所などが設置されていた時期もあった[43]。
地域かつては村社の稲荷社のほか八幡社[10]や八雲社(無格社)などが鎮座していたが[45]、地内に神社は存在しない。旧大石村で村内にある神社の合祀が1907年(明治40年)に行なわれたためである[46]。合祀先は小泉の氷川神社で、合祀後は八合神社に改称された[45]。 町内会公園
施設
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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