大谷本郷
大谷本郷(おおやほんごう)は、埼玉県上尾市の大字。郵便番号は362-0044[3]。 市の統計などでは大谷地区で分類されている。 地理埼玉県の中央地域(県央地域)で、上尾市南部[6]の大宮台地(上尾西部台地[7])上に位置する[8]。地区の東端の沖積平野を鴨川が流れ、概ねさいたま市北区との境界を成している。地区の一部(字前原)が鴨川の左岸側にあり、橋(焼橋)で結ばれているが飛地のようになっている。このあたりから台地崖を形成し、低地との境が明瞭となる[7]。浅間川(準用河川)の支流である「中新井都市下水路」の流頭が地内にある[9]。また、無名の小河川が地内より鴨川に向かって南東方向に流れて合流点付近で谷戸を形成している。 東側でさいたま市北区別所町、南側で中新井と隣接する。西側で堤崎や地頭方、北側で壱丁目や向山と隣接する。南東側ではさいたま市北区奈良町、北東側では西宮下とも僅かに隣接する。地区の北西側のUDトラックス付近に大字大谷本郷の小さな飛地が存在する。また地区の北境はやや錯綜し、その付近の地内に大字向山のごく小さな飛地も存在する。地区の北境を川越上尾線(通称ニッサン通り)、中央を大谷本郷さいたま線が通る。 地区は農地と住宅地が混在し、鴨川の流路沿いや地区の南東端を除くほぼ全域が市街化区域[10]で主に第一種住居地域(一部工業地域や準工業地域、上尾川越線沿線は第二種住居地域)に指定されているが区画整理は行われておらず、住宅地が増加する中農地もまだまだ多い。西部はUDトラックスの工場やその関連工場がある[6]。南東部の纏まった市街化調整区域には集落跡の「大谷本郷前原Ⅰ遺跡」(県遺跡番号:14-199[10])があり、土器片が発掘されている。 地価住宅地の地価は、2018年(平成30年)の公示地価によれば、大字大谷本郷字後耕地755-13の地点で8万5500円/m2となっている[11]。 歴史もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡大谷領に属する大谷本郷村で[8]、中世の頃は南北朝期時代より見出せる武蔵国大谷郷(おおやのごう)に属していた。川村、向山村、今泉村、壱丁目村、本郷村は古くは1村であった[8]。正保年間(1645年〜1648年)の頃は本郷村と称されていたという[12]。大谷本郷村と呼ばれるようになったのは元禄期の頃からという[8][12]。向山・川・弁財・宮下村に飛地があった[8]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では319石余(田87石余、畑217石余、山高15石)[13]、『元禄郷帳』および『天保郷帳』によると356石余であった[8]。助郷は中山道上尾宿に出役していた[8]。化政期の戸数は40軒余で、村の規模は東西3町、南北1町余[注釈 1]であった[8][12]。地名は古くは大谷郷に属し、大谷郷の中心地(本村)に由来するものと云われている[7][12]。大谷とは大谷郷に存在した河川の浸食によって形成された大きな浸食谷のことである[7]。 1875年(明治8年)の農業産物高は『武蔵国郡村誌』によると米100.47石、大麦210.8石、小麦39.6石、大豆32.2石、蕎麦12.7石、甘藷7200貫であった[14]。 はじめは幕府領、1624年(寛永元年)より知行は旗本柴田氏となるが、1698年(元禄11年)より上知され再び幕府領となる[8][7]。検地時期は不明。1705年(宝永2年)より知行は旗本戸田氏となる。
小字※ 『新編武蔵風土記稿』には「中久保」の記載がある[12]が、現在の場所を特定できない[7]。 大正15年の旋風被害
原典:『埼玉県の気象被害』[21] 世帯数と人口2021年(令和3年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[33]。
交通地区内に鉄道は敷設されていない。最寄り駅はJR東日本高崎線上尾駅であるが、大字大谷本郷字後耕地755-13の地点よりおよそ2.5 km[11]離れている。 道路地内に都市計画道路「中新井小泉線」の延伸や「西環状線」の新設が計画されている[10]。
バス上尾駅西口駅前より西上尾第一・第二団地方面や川越駅方面への路線バスが多数運行されている。過去には上尾駅東口より線路沿いを南下し川越街道旧道を通り「向山」バス停留所(大谷本郷交差点)を経由して現在の県道165号を通り、大宮駅に至る東武バスの路線バスが運行され、地内に「大谷本郷」バス停留所などが設置されていた時期もあった[34]。
地域町内会寺社
施設
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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