ホセ・ペドロ・モウラン・ラミー・ヴィソゾ(José Pedro Mourão Lamy Viçoso, 1972年3月20日 - )は、ポルトガル出身のレーシングドライバー。1992年ドイツF3選手権チャンピオン。
経歴
ラリードライバーだった父の影響でモトクロスを始め、その後カートへ転向。1989年にジュニア・フォーミュラへ転向し、この年のポルトガル・フォーミュラ・フォード1600でチャンピオンを獲得。
1991年にGMロータス・ユーロシリーズ、1992年にドイツ・フォーミュラ3選手権で共にチャンピオンを獲得した。1993年に国際F3000選手権にステップアップ。第3戦ポー・グランプリでF3000初優勝を挙げると、F1チーム・ロータス監督のピーター・コリンズから声がかかり、107Bのテストドライバーも務めた。
F1
ロータス時代
1993年の第12戦ベルギーGPで、フリー走行中にロータスのアレッサンドロ・ザナルディがクラッシュし負傷。このことで、ロータスは続く第13戦イタリアGPから欠場するザナルディの代役としてラミーを起用することになった。
F1デビュー戦では予選は最下位に終わり、決勝は終盤に電気系のトラブルでリタイアしたが11位完走扱い。続く地元の第14戦ポルトガルGPでは、予選18位からスタートしたが、途中でスピンを喫しリタイアした。第15戦日本GPでも終盤スピンを喫してリタイアしたが、13位で完走扱いとなった。最終戦のオーストラリアGPはスタート直後に接触しリタイヤ。結局この年は一度もチェッカーフラッグを受ける事が出来なかった。
そのまま1994年はレギュラーシートを獲得、4戦中3戦完走の成績を残していた。しかし、第3戦サンマリノGPでのリタイヤは、スタートグリッド上でエンジンストールにより動けなかったJ.J.レートに全開で加速中のラミーが追突したもので、その際にパーツがフェンスを越えて観客席まで飛び、負傷者を出すこととなった。
そして第4戦モナコGP後、イギリスシルバーストン・サーキットでのテスト中に高速コーナーであるアビーカーブで大クラッシュを起こす。高速コーナーで強い負荷の掛かったリヤウィングが支柱から折れ、270km/hでコントロールを失ったマシンはコースアウトしてタイヤバリアを飛び越え、金網フェンスを突き破って観客席スタンドへと飛ばされた。衝撃でタイヤやサスペンションアーム、エンジン等が千切れコクピットのみになったカーボンモノコックにラミーが乗ったまま観客席に落下。反動で何回転もしながら、観客がコース下をくぐるための地下道入口に落下し炎上するという凄まじいクラッシュであった。ロータス・107Cのモノコックは衝撃によりコクピットの前方で数個に分散し砕かれていた。ラミーは両膝の皿、右足首、右手首を骨折し、両手親指を脱臼する全治1年とも言われる重傷を負い戦線から離脱。テスト中だったため幸いにもスタンドに観客等はおらず、ラミー以外の負傷者はいなかった。この頃は、J.J.レート、ジャン・アレジ、ルーベンス・バリチェロ、アンドレア・モンテルミーニが負傷、カール・ヴェンドリンガーが意識不明に陥り、ローランド・ラッツェンバーガー、アイルトン・セナが死亡するなど、開幕前から重大事故が多発していたため、F1関係者に再度衝撃を与えた。
ミナルディ時代
1995年は、当初パシフィックからF1参戦が決定していたが、開幕直前になってパシフィックより戦闘力があると思われるティレルへの移籍を画策して交渉を開始。ミカ・サロとのシート争いとなり、3月にはティレル・023でのテストドライブも行ったが、最終的には敗れた。またテストとは言え急な鞍替えによりパシフィックのオーナーであるキース・ウィギンス(英語版)からの信用を失ったことで、ラミーは多くのスポンサーマネーを持ちながらパシフィックのシートをも失う形となった。
この結果、前半戦はF1浪人となったが、資金難に苦しむミナルディに持参金を持ち込み、第10戦ハンガリーGPからピエルルイジ・マルティニに代わって参戦。最終戦オーストラリアGPでは、完走8台というサバイバルレースを生き残り6位入賞、これが自身初・そして唯一のF1入賞記録となった。またミナルディにとっては、この年唯一の入賞だった。
1996年も引き続きミナルディに残留、全戦に出走し唯一のフル参戦となる。しかし入賞は記録できず、最高位は第5戦サンマリノGPにおける9位となった。翌年以後のシート交渉は進展せず、F1参戦はこの年が最後となった。
スポーツカーレース
1997年以降、ラミーは主にル・マン24時間レースを中心とするプロトタイプレーシングカーの世界に活動の場を移した。特に2007年以降はプジョーのエース格となり、プジョー・908 HDi FAPで2007年のル・マン・シリーズ(LMS)チャンピオンを獲得している。ただしル・マン24時間では2位が2回(2007年・2011年)で優勝には一歩手が届いていない。
また2000年代以降はニュルブルクリンク24時間レースとの相性が良く、2001年に初優勝を飾ると、以後2002年・2004年・2005年・2010年と計5回総合優勝を飾っている。
レース戦績
フォーミュラ
ドイツ・フォーミュラ3選手権
マカオグランプリ
国際フォーミュラ3000
フォーミュラ1
グランドツーリング
FIA GT選手権
FIA GT1世界選手権
スパ24時間レース
スポーツカー
ル・マン24時間レース
アメリカン・ル・マン・シリーズ
ドイツ・ツーリングカー選手権
ル・マン耐久シリーズ/ル・マン・シリーズ
セブリング12時間レース
デイトナ24時間レース
インターコンチネンタル・ル・マン・カップ
FIA 世界耐久選手権
ユナイテッド・スポーツカー選手権/ウェザーテック・スポーツカー選手権
エピソード
- 1993年ポルトガルGPのフジテレビ中継では、丁度実況席で彼の話題を言っていた際にスピンを喫した。このため、実況の古舘伊知郎は「言ったそばからラミー!」との言葉を残した。このフレーズが気に入ったのか、次戦日本GPで彼がスピンした際にも「言ったそばからラミー、あ、今は言ってませんが」と再び使用している。
- アイルトン・セナには、同じポルトガル語圏出身であること、セナと同様ロータスに所属していたことなどから可愛がられており、セナの死後はレーシングスーツの下にセニーニャTシャツを着てレースに臨んでいた[1]。
脚注
- ^ 『日本の名レース100選 041 '93F1日本GP』三栄書房、2008年、P.42頁。
関連項目
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創設者 | |
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主なドライバー |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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※年代と順序はチーム・ロータスで初出走した時期に基づく。 ※太字はチーム・ロータスにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。 |
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F2車両 | |
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CART | |
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市販スポーツカー | |
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FIA GT選手権 |
GT1クラス →GTクラス →GT1クラス | |
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GT2クラス →N-GTクラス →GT2クラス | |
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FIA GT1選手権 | |
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FIA GTシリーズ →ブランパンスプリントシリーズ →ブランパンGTシリーズスプリントカップ →ブランパンGTワールドチャレンジヨーロッパ →GTワールドチャレンジ・ ヨーロッパ・スプリントカップ |
Proカップ →総合 | |
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シルバーカップ →ゴールドカップ | |
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Pro-Am トロフィー →Pro-Amカップ →シルバーカップ | |
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ジェントルマン トロフィー →Amカップ →ブロンズカップ | |
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