1994年モナコグランプリ
1994年モナコグランプリ (LII Grand Prix Automobile de Monaco) は、1994年F1世界選手権の第4戦として、1994年5月15日にモンテカルロ市街地コースで開催された。 背景前戦サンマリノGPにおいて発生したアイルトン・セナとローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故を受け、FIAは安全確保のための改正規則を発表した。その大半はモナコGPの後に導入される予定であったが、ピットレーンにおける制限速度は本GPから実施された。 ドライバー側も安全に対する協議の場として、休眠状態であったグランプリ・ドライバーズ・アソシエーション (GPDA) を復活させ、セナとラッツェンバーガーの友人だったゲルハルト・ベルガーが取りまとめ役、ニキ・ラウダが世話人となってミーティングを行った。 セナとラッツェンバーガーに対する追悼の印として、FIAは第1、第2グリッドを空席とし、セナの母国ブラジルやラッツェンバーガーの母国オーストリア国旗をペイント、最前列を2名に捧げ、決勝レースは2列目からスタートさせる事とした。1959年アメリカグランプリ以来2度目となる、元世界チャンピオンと元モナコグランプリ勝者が参加しないレースとなった。またこのレースではシューマッハ、ヒル、ベルガー、アルボレートの4人のみが優勝経験のあるドライバーであった。 セナの所属チームであったウィリアムズやラッツェンバーガーが所属したシムテックは共に、レース週末に走らせた車両は1台のみであった。 エディ・アーバインは開幕戦ブラジルGPでのクラッシュ原因を作ったとして3戦の出場停止を命じられ、このレースが停止3戦目であった。彼の代わりとしてアンドレア・デ・チェザリスがジョーダンをドライブした。アーバインは米国スポーツ専門テレビ局ESPNからの招きで同局の番組のピットレポーターとして参加した[1]。 予選ミハエル・シューマッハが、コースレコードを0.9秒短縮するスーパーラップを見せ、そのキャリアにおける初のポールポジションを獲得した。ミカ・ハッキネンが2番手についたが、これは彼のこれまでにおける予選最高位であった。 カール・ヴェンドリンガーはヌーベル・シケインで大きくクラッシュしレースを欠場することとなる。彼はおよそ280km/hの速度で壁に接触した。ヴェンドリンガーは数週間昏睡し、そのF1キャリアが脅かされた。ザウバーチームは、この事故の後にレースからの欠場を決定した。 予選結果
決勝予選2位のミカ・ハッキネンと4位のデイモン・ヒルはスタート直後に1コーナーで接触し、両者ともリタイアした。 レースは終始ミハエル・シューマッハによってリードされた。シューマッハは今シーズン、開幕から連勝を続けており、このレースも制したことで4連勝となった。また、シューマッハはファステストラップも記録し、そのキャリアにおける初のグランドスラムを達成したことになる。さらに、フリー走行を含む全走行で1位を獲得し、レースも1度もトップを譲らない快挙を成し遂げた。1983年以来モナコグランプリはアラン・プロストとアイルトン・セナによって勝利が分けられていたが、シューマッハはセナ、プロスト以外に勝利した初のドライバーとなった。 2位にはセナのイギリスF3時代のライバルであるマーティン・ブランドル、3位には母国オーストリアの後輩ラッツェンバーガーとヴェンドリンガー、そしてセナの相次ぐ事故に心を痛めるゲルハルト・ベルガーが入った。 4位には出場停止処分を受けたアーバインの代役であるアンドレア・デ・チェザリスが入り、このレースから復帰したジャン・アレジが5位に入った。ミナルディのミケーレ・アルボレートは6位に入り、1ポイントを獲得した。これは彼のF1経歴における最後のポイント獲得となった。 決勝結果
第4戦終了時点でのランキング
参照
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