内藤國雄
内藤 國雄(ないとう くにお、1939年11月15日 - )は、将棋棋士。棋士番号77。兵庫県神戸市出身。藤内金吾八段門下。演歌歌手、詰将棋作家としても活動。レコードジャケット、音楽配信での氏名の表記は「内藤国雄」。棋聖、王位のタイトルを通算4期(各2期)獲得。竜王戦1組通算3期。順位戦A級通算17期。 経歴プロ入りまで藤内門下に入ったときは13歳にしてようやく藤内よりアマ13級とみなされるなど将棋指しとしては遅咲きであった。 奨励会入会して間もない時期に、同じ関西奨励会に在籍していた加藤一二三と対戦している。同い年ではあるが、当時すでに三段となっていた加藤とは飛車落ちでの対戦となり、熱戦の末深夜となったため、両者協議の上引き分けとして終局した。 その後、猛勉強の末1年足らずで初段格の実力をつけ、奨励会では「西の内藤」と誉れ高く1958年10月に18歳で瞬く間にプロ入りを果たす。 プロ入り後順位戦では順調に勝ち進み、プロ8年目にしてA級八段となる。以降、A級とB級1組の間を3度往復する。 1964年度の最強者決定戦で棋戦初優勝。同棋戦では、1966、1970年度にも優勝する。1965年度の東西対抗勝継戦では、同棋戦史上1位の15連勝の成績で優勝する。 初のタイトル戦登場は、1968年度の王将戦七番勝負である。しかし、大山康晴三冠(王将・名人・王位)に力及ばず、0勝4敗のストレートで敗れる。 タイトル戦・主要棋戦での活躍2度目のタイトル戦は、1969年度後期の棋聖戦(第15期棋聖戦)五番勝負・中原誠棋聖との戦いであった。後手番での2局で得意の横歩取り空中戦法を披露して勝利するなどし、初タイトルとなる棋聖位に就く。この年度は、NHK杯戦でも優勝する。同1969年度は、当時将棋大賞が制定されていなかったため表彰等はなかったもの、日本将棋連盟が勝敗記録を厳密に管理するようになってからは初となる、年度内における勝率、勝利数、対局数、連勝の4つの記録で1位を達成した[1]。 1971年度、日本将棋連盟杯戦で優勝する。 1972年度の第13期王位戦七番勝負における大山康晴王位との戦いでは、第3局と第5局で大山得意の振り飛車に対し「鳥刺し」戦法含みの序盤戦術を見せて、いずれも勝利。これを含み4-1で奪取し、大山の王位連覇を12で止める。 1973年度後期の棋聖戦(第23期棋聖戦)では、米長邦雄を相手に2連敗から3連勝でタイトル奪取。タイトル通算3期の規定により、奪取を決めた日付(1974年2月4日)をもって九段に昇段した。この規定で九段昇段したのは、内藤が初めてである。ちなみに、米長との対戦は、両者の名の読みが同じであることから「クニオ対決」と呼ばれたり、駄洒落で「くにをあげての一局」と言われたりした。同年度は日本将棋連盟杯戦で、2度目の優勝もし、第1回将棋大賞の技能賞を受賞した。 1974-1981年度は、タイトル獲得がないものの、1974年度に第1回棋王戦(タイトル戦昇格の前年)で優勝、1977年度には名将戦で優勝、1980年度には第3回オールスター勝ち抜き戦で7連勝(5勝以上は優勝扱い)をする。 4度目のタイトル獲得を果たしたのは、1982年度の王位戦であった。中原王位の先手番の2局で矢倉を受けて立って勝つなどして、王位を奪取。8年半ぶりのタイトル獲得となった。同年度は、王座戦でも優勝する活躍もあり、将棋大賞の技能賞(2度目)を受賞した。なお、王座戦は翌年にタイトル戦に昇格したが、防衛に失敗し、タイトルとしての王座を獲得するチャンスを生かせなかった。 1983、1984年度の名将戦では連続優勝し、通算優勝回数を3とする。以降、タイトル戦登場と優勝はない。 以上のように、内藤の棋歴には優勝は多いものの、タイトル戦昇格期の棋王戦と王座戦を含む6回のタイトル防衛戦ですべて防衛に失敗しているため、タイトルの獲得数が多くない。また、これほどの棋歴にもかかわらず名人戦七番勝負への登場が一度もない[* 1]。 第56期(1997年度)順位戦B級1組で成績が振るわず、4勝8敗に終わる。その最終局(8敗目)の相手は丸山忠久であり、内藤が負けたことによって丸山は史上初の「B級1組12戦全勝」の記録を作った。このとき内藤と有吉道夫が同時にB級2組へ降級したことは、世代交代の象徴と見る向きもあった。しかし、内藤は翌期のB級2組順位戦で、最終局を残して9戦全勝とし、その時点でB級1組への即復帰を決める(最終局は負け)。しかし、その頃にNHKラジオ第1放送に出演した際、「もう1敗しても昇級できたんですよ」と述べ、巡り合せの悪さをコメントしている。 2000年9月、史上5人目となる通算1000勝を達成して特別将棋栄誉賞を受ける[2]。名人戦七番勝負未出場者としては初めての達成であった。 2005年度の第64期順位戦B級2組では、最終局を残して6勝3敗とし、自力昇級の可能性を残す。当時66歳だった内藤が勝って昇級を決めれば、順位戦昇級の最年長記録(花村元司の60歳A級昇級)を更新するところであったが、田中寅彦に逆転負けを喫し、昇級を逃した。 2009年1月26日に、史上6人目となる公式戦1100勝を達成した[3]。なお、1000勝が5人目、1100勝が6人目なのはその間に谷川浩司に勝数を追い越されたからである。 2010年5月24日、有吉道夫の引退に伴い、現役最年長棋士となる[* 2]。 2013年3月、第71期順位戦においてC級2組への降級が決まる[* 3]。次期第72期においては最終局で牧野光則に勝利し、3勝7敗として降級点を回避した。72期終了時点(2014年3月時点)で74歳の内藤は、もしこのまま現役を続けた場合には、次期第73期から3期連続で降級点をとっても最低でも77歳4ヶ月で引退することになり、丸田祐三が持つ現役最年長記録77歳0か月を更新する可能性があった[* 4]。しかし、第73期終盤の2015年1月、内藤は「腰痛と膝痛などで長時間の対局が難しくなってきたことと、私の棋風が(コンピュータ全盛の)現代の将棋と合わなくなってきた」ことなどを理由に、順位戦が終了する3月末で現役を引退することを表明した[4][5][6]。 引退プロ棋士として最後の対局は2015年3月12日の第28期竜王戦6組昇級者決定戦での対中田功戦となり、敗局して引退を正式に表明した[* 5][7]。なお、この対局での負けは、加藤一二三、有吉道夫に続く史上3人目の通算1000敗達成であった[8][9]。内藤引退時の75歳4ヶ月は、丸田祐三の77歳0ヶ月、坂口允彦の76歳3ヶ月に次ぐ高齢記録であった[* 6]。また、同年度には同じ藤内門下の淡路仁茂もフリークラス規定により引退したことで、藤内門下の棋士8人は全員が引退もしくは物故となった。 棋風伸びやかな棋風で、居飛車、振り飛車という一くくりの言葉だけでは表せないほど様々な戦法を指しこなす。そのような内藤の棋風は、敬愛していた原田泰夫の命名により「自在流」と呼ばれていた。その自由奔放な戦術・棋風はタイトル戦の大舞台でも披露され、かつ、実績を挙げた。 特に、「空中戦法」の名称で知られる「横歩取り3三角戦法」は、将棋大賞で1994年度から新設の「升田幸三賞」の第1回受賞対象となり、また、後に流行する「横歩取り8五飛」にも影響を与えた。 また人と同じ将棋を指す事や、いつも同じ図面が新聞に載るのが嫌だったと言う内藤は、1969年頃からただ一人(本人談)「横歩を取らせて」指す作戦を採用しており、1969年の第19回NHK杯テレビ将棋トーナメント決勝戦の将棋が得意の「空中戦」のはしりであると言う[10]。 人物関西棋界で内藤の師匠の藤内金吾(ふじうち きんご)は坂田三吉の弟子であるので、内藤は坂田の孫弟子である。内藤は、これを誇りにしており、ことあるごとに「坂田先生の孫弟子」と語る。 当初内藤は、藤内の将棋道場の看板に横書きされた「藤内」(ふじうち)の文字を逆向きに読み、同じ苗字の人がやっている道場だと誤解。これが藤内の道場に通い始めるきっかけとなった。ちなみに、後々になって内藤は、師匠と姓が同字異音の藤内忍(とうない しのぶ)という弟子を持つことになる[* 7]。 藤内の弟子で、棋士は内藤を含め8名。1968年に藤内が死去したのち、淡路仁茂、小阪昇、酒井順吉が三段で苦労していたため、すでにプロになっていた内藤は彼らと「若手勉強会」を行い、のちに三名ともプロとなった[11]。 藤内一門は関西将棋界に一大勢力を築いた。藤内の将棋道場が神戸市の三宮にあったため、一門は「神戸組」と呼ばれた。藤内の死後、内藤は一門の総帥的存在となり、「神戸組のドン」と呼ばれるようになった。1983年には神戸組で順位戦Aクラス以上4名(内藤、森安秀光、谷川浩司、淡路仁茂)、タイトル4個獲得(内藤王位・王座、谷川名人、森安棋聖)の全盛期となった。 ただし、有望な少年が関西に現れても自身の弟子にせず、弟分に委ねること[* 8]がほとんどであった。内藤は棋士となってから2013年に至るまで、前述の藤内忍を含め僅か4人しか弟子を取っていないものの、そのうち神吉宏充及び三枚堂達也をプロの棋士(四段以上)に育て上げた。尚、神吉は2005年9月に吉田正和を弟子に取り、その吉田は2008年10月に棋士となったため、内藤は現役中に孫弟子がプロ棋士になるという、非常に珍しい“快挙”を成し遂げた[* 9]、内藤と吉田は2012年4月17日の公式戦で対局し、千日手の末に吉田が勝ち、内藤は更に珍しい“孫弟子からの恩返し”を受ける結果となった。 1992年、将棋世界に掲載したエッセイ「我が師 藤内先生の想い出」が、第4回将棋ペンクラブ大賞雑誌部門・大賞を受賞。同エッセイは、書籍『私の愛した勝負師たち』(毎日コミュニケーションズ)に収録されている。 2005年6月から2010年5月まで、日本将棋連盟関西本部長を務めた[12]。 有吉道夫との関係内藤と有吉は長年関西のライバルとしてしのぎを削った間柄とされ、事実、両者が現役棋士であった約51年間で、93局もの公式戦[* 10]を対局し、内藤49勝・有吉44勝であった[13]。 引退直後の2015年3月20日に、関西将棋会館において記者会見を開いた際にも、内藤自身が有吉をライバル視していた旨を述懐し、「有吉が対局において顔を紅潮させ、闘志をあらわにすることで、自身も闘志をかきたてられたこと。」「現在の自分があるのは有吉のおかげである。」として、有吉に対する感謝の趣旨を述べた。 尚、有吉が引退後も、非公式戦ではあるものの、2012年1月2日にNHK・Eテレで放送された「新春お好み将棋対局 ドリームマッチ2012 東西巨匠ライバル対決」においても、両者の対局が行われた(結果は有吉勝ち)。 詰将棋詰将棋作家としても活動しており、本人曰く「詰将棋は実戦の終盤から発生したものだが、それだけで十分楽しめる小さな楽園のようなものだと思っている」という感想を述べている。また、ストーリーやメロディがある点で歌とも相通ずるものがあるとも答えている。発表作品は数千以上に上っており、緻密な作風が売りである。 代表作に「玉方実戦初形」、「攻方実戦初形」、「ベン・ハー」がある。 ちなみに内藤本人の感想は、「長編詰将棋の作成に必要なのは、体力、少しの才能、そして、幸運」であった。 神戸新聞の詰将棋コーナーに1967年から2022年までの55年間、2746回の作品提供を行っていた[14]。 芸能活動余技である演歌歌手としては、1976年から1977年にかけて「おゆき」が100万枚以上[2][15]を売り上げる大ヒットとなった。歌手名表記は「内藤国雄」。同曲は作曲家・弦哲也にとっても、初のヒット作となった。 当時「棋士の中で最も歌が上手く、歌手の中で最も将棋が強い人物」と称された。内藤のヒットを受けて、囲碁界から次なる歌手をと石田芳夫が歌手デビューしている[16]。 1991年に新人歌手・石原詢子とのデュエット曲「夜のおとぎばなし」を発売した。同曲はヒットには至らなかったが、9年後、石原が初出場を果たした『第51回NHK紅白歌合戦』にて[17]内藤は審査員を務めた。 2010年9月21日、『NHK歌謡コンサート』に出演し「おゆき」を歌唱した。 歌番組に留まらず、テレビドラマ『新・座頭市』、『ふたりっ子』、CM]『のほほん茶』などにも出演した。 その他酒豪として有名で、弟子の神吉曰く「自宅で日本酒を1升空けてから外に飲みに行く」ことがざらだった[18]。早朝まで酒を飲み明かした次の日に、全く二日酔いの素振りも見せず現れることから、同じく酒豪として知られる芹沢博文も「あいつと飲むと殺されそうになる」として酒の強さに脱帽していたという[19]。 ファミリーコンピュータ用ゲーム『内藤九段将棋秘伝』の監修を行った。 クイズ集の「最も将棋が強い芸能人」という問いで答えが「内藤国雄」となっているものがあった[要出典]。 熱狂的なプロレスファンとして知られる。アントニオ猪木からもらったボクシンググローブでサンドバッグを叩いている、力道山が亡くなったあとの対局ではショックで三番続けて負ける、タイトル戦の立ち会い時とプロレス中継とが重なるとテレビから離れなくなる、など、エピソード多数[20]。 十五世名人である大山康晴を苦手とし、対戦成績も18勝50敗と大きく負け越している。またA級順位戦でも大山から一度も勝利をあげることができなかった。[21][信頼性要検証] 弟子棋士
(2019年9月4日現在) 昇段履歴
主な成績
通算成績2132戦 1132勝1000敗 勝率 0.5310 獲得タイトル
一般棋戦優勝
将棋大賞
表彰等(日本将棋連盟以外の表彰等は「#栄典・受賞等」参照)
在籍クラス→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
栄典・受賞等メディア活動自身の著書将棋解説本
詰将棋/必至/次の一手本
自戦集
他の棋士の対局の解説本
エッセイ
共著(対談本)
新聞連載
レコード・CD
シングル
企画シングル
アルバム
映画テレビドラマその他のテレビ番組
ラジオ番組
ゲーム
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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