オレたちひょうきん族
『オレたちひょうきん族』(オレたちひょうきんぞく)は、フジテレビ系列で1981年5月16日から1989年10月14日まで毎週土曜日20:00 - 20:54(JST)に放送されていた日本のお笑いバラエティ番組。通称「ひょうきん族」「ひょうきん」。 概要1981年5月16日に『決定!土曜特集・オレたちひょうきん族』のタイトルで、ナイター中継中止時の雨傘番組として放送され、同年10月10日より『決定!土曜特集』の冠を取ってレギュラー放送となった。そのため、土曜日にプロ野球中継(ヤクルトや大洋、中日主催の巨人戦)がある時はしばしば番組が返上された。 放送当時、フジテレビ社内では視聴率ノルマが廃され、制作者が作りたいものを作る路線に転じ、「楽しくなければテレビじゃない」をキャッチフレーズにしていた頃で、作り手側の制作意欲の向上と、出演者である若手芸人の漫才ブームによる勢いとが相まったバラエティ番組である[1]。『欽ドン!』以降低迷状態が続いていたフジテレビの土曜20時台を立て直し、1980年代バラエティのリーダー格番組に登り詰めた。8年半の平均視聴率は、17.8%(ビデオリサーチ、関東地区)[2]。最高視聴率は1985年12月28日のスペシャル回での29.1%。通常回での最高視聴率は1986年2月15日の27.3%。 開始当時の裏番組には『8時だョ!全員集合』(TBS系)が放送されており[1]、ビートたけしによると『全員集合』をどうやって視聴率で倒すかということを目標にスタッフたちと色々考えた[3]。視聴者について『全員集合』の主な視聴者とされる小・中学生ではなく、『ひょうきん族』では高校生や大学生[注釈 1]をメインターゲットに番組作りが考えられた[3]。また、『全員集合』の「台本通りに作り込まれた王道コント」に対して、『ひょうきん族』では面白いと思ったらタレントだけではなくスタッフまでネタにするなど、アドリブと内輪ウケを重視した[3]。加えて、片岡鶴太郎と島崎俊郎によると『全員集合』でドリフがグループで笑いを取るなら、『ひょうきん族』では出演芸人のトリオもコンビもバラにして一人一人の個性で笑いを取ることにしたとのこと。また『全員集合』の公開生放送または公開録画に対して、『ひょうきん族』では客入れなしの収録となった[4]。 雨傘番組時代の初回視聴率は9.5%、その後も8~10%前後と当初は全く相手にならなかったが、第7回目の放送で13.4%を記録し(視聴率はいずれも関東地区、ビデオリサーチ社調べ)、これを受けて同年10月にレギュラー番組へと昇格した[1]。その後上記の番組戦略が成功したこともあり、1982年10月9日放送分では初めて『全員集合』を視聴率を上回り、1983年は両番組互角の視聴率が続き、1984年度の年間平均視聴率で19.5%を記録し、ライバル視していた『全員集合』の年間平均視聴率18.2%を抜いてからは常時20%以上の視聴率を記録するようになり、その結果、『全員集合』と繰り広げていた「土曜8時戦争」と呼ばれる視聴率競争において、16年間無敵の存在であった『全員集合』を1985年9月に打ち切りに追い込んだ。1985〜1987年頃までは当番組の独走状態が続いた[5]。視聴者層も、当初のメインターゲットであった高校生や大学生の他にも、『全員集合』の主要視聴者層であった小・中学生にも拡大していった[5]。 また、吉本興業に代表される在阪のプロダクションと、渡辺プロ・太田プロに代表される東京のプロダクションのタレントがレギュラー番組で共演することは当時としては非常に画期的であり、本番組の人気は吉本興業の東京進出[注釈 2]に多大な貢献を果たした。 初めはお笑い番組らしく漫才コーナーもあったが、「つまらない」「人気が出ない」と見るやすぐに企画をやめ、新企画を練っていた。また、初期においてはスタジオに一般視聴者を入れてのコーナーもあったが、その後は客は入れず、ギャグごとに笑い声が被さる演出(録音笑い・ラフトラック。外国のシチュエーション・コメディでよく見られる、いわゆる声のエキストラ)がなされた。フォーマットも『全員集合』の前半コントと同じ時間帯にあえてコントを組まず、『全員集合』の前半コントと同じ時間帯に「ひょうきんベストテン」を、『全員集合』の「少年少女合唱隊」とショートコントと同じ時間帯に「タケちゃんマン」とミニコーナーを設けることにした。一方、「(レギュラー・ゲスト歌手による)歌のコーナー」は設けられず、こちらは当時のバラエティ番組としては異例の構成であった。 オープニングに流れる曲は、ロッシーニ作曲の『歌劇「ウィリアム・テル」序曲第4部「スイス軍隊の行進(終曲)」』。これは『スネークマンショー』のオープニングをパロディしたことによるもので、放送当初は『スネークマンショー』の伊武雅刀がナレーションを行っていた。その後、『奥さまは魔女』『キャンディ♡キャンディ』などの過去の人気番組のキャラクター同士が掛け合いをする期間もあった(「オープニングナレーション」参照)[6]。オープニング映像は、当初スキャニメイトなどによる単純な合成映像を用いていたが、1983年4月からは東洋現像所ビデオセンター(現:IMAGICA Lab.)制作による当時としては珍しい最先端のCG映像を使用しており、以後エンディングにおいてもCGが使われるようになった。 エンディングはEPOの『DOWN TOWN』。EPOは番組初期のアイキャッチも担当していた。それ以外のエンディングは後述参照。 番組のBGMには、『バビル2世』、『勇者ライディーン』、『超電磁ロボ コン・バトラーV』、『機動戦士ガンダム』、『うる星やつら』、『超時空要塞マクロス』、『宇宙刑事ギャバン』、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』、『必殺シリーズ』、『スパイダーマン』、『大鉄人17』などのサウンドトラックがよく用いられていた。 スタジオ以外でのロケーションによる撮影は、当時フジテレビの本社があった新宿区河田町やフジテレビ通り(現・あけぼのばし通り商店街)一帯で主に行われたが、北海道や軽井沢などでも行ったことがある。 出演者レギュラー
準レギュラー・一時レギュラー特番時代(1981年5月 - 1981年8月)初期(1981年10月 - 1983年9月)
中期(1983年10月 - 1985年3月)最盛期(1985年4月 - 1986年9月)後期・最末期(1986年10月 - 最終回)
ほか フジテレビアナウンサー
オープニングナレーション
決定!土曜特集 オレたちひょうきん族1981年5月16日から8月29日まで『決定!土曜特集』枠で放送されたパイロット版。同年10月10日から『決定!土曜特集』の枠を取ってレギュラー放送された。2009年10月からフジテレビONEで全放送分が放送された。
ひょうきん族ファミリー芸能合戦木曜おもしろバラエティにて、1984年2月16日に放送。レギュラー陣が「タケちゃんマンチーム」と「アミダばばあチーム」に分かれて歌やゲーム、芸を競った。
CSでの再放送時に関して1998年にフジテレビによるCS放送が開始されてからは、当番組の再放送を常時放送し、2009年8月8日にCSにおいて2度目の最終回を迎え翌週8月15日から3度目の放送を開始した。 しかし、2011年8月23日に番組レギュラーのひとりだった島田紳助が芸能界引退を発表。この一件で紳助の出演番組の2次利用が全面的に不可能となり、またほぼ全ての回に本人が出演していたことから、CSでの放送は打ち切られ[7]、CSのホームページも閉鎖された。また、この引退発表以前に紳助が不祥事を起こしてタレント活動を自粛した期間は、放送が一時中断されていた。 CS放送中、権利上や諸事情により放送されない場合があった。また、放送はするもののコーナーそのものがカットされたり、「ひょうきんベストテン」の10位~4位の発表時にボカシが入ったり、映像が静止画に差し替えられたことも少なくなかった。レギュラー第1回放送分も、何らかのコーナーが10分程度カットされている。再放送がカットされたケースは現在のところ以下の通りである。
ちなみに、ひょうきんスペシャルの回はレギュラーと分けて放送。1982年12月25日のブラックデビル最終回もこの類に入る。2002年の秋までスペシャルを放送。2003年の元日にスペシャルのみを集中放送した。しかし、2006年から1985年12月放送以降のスペシャル版も通常の枠と一括され放送されるようになった。また、1981年5月16日 - 9月26日の単発枠時代に放送した回は、2009年フジテレビONEで「パイロット版」として放送した。 2009年8月15日から、不定期で三宅と番組出演者、川端健嗣のトーク番組『ひょうきん族話の泉』が放送された。 主なコーナー→詳細は「オレたちひょうきん族のコーナー一覧」を参照
主なキャラクター※詳細は各項を参照。 番組に出演したゲスト※順不同で記述。 お笑い・バラエティタレント歌手(アイドル・アーティスト含む)
俳優・女優
作家・スポーツ選手・文化人他スタッフ構成作家やプロデューサー・ディレクターの姓と名の間には、あだ名のミドルネームが付けられていた。
ネット局系列は当番組終了時(1989年10月)のもの。
ネット局に関する備考当時クロスネット局だった秋田テレビ・福島テレビ・新潟総合テレビ・テレビ山口・テレビ長崎・テレビくまもと・テレビ大分・テレビ宮崎・鹿児島テレビの9局は以下の対応が取られていた。
TBS系列局である青森テレビと岩手放送は、テレビ山口同様に本番組と『8時だョ!全員集合』→『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』の両方をネットしていた(本番組は遅れネット、『全員集合』→『加トケン』は同時ネット)。 そして、フジテレビONE(CS放送)でも再放送を実施していたが、島田紳助引退の影響で2011年8月から放送を休止しており、実質的に打ち切られた状態となっている。 番組の終了『全員集合』が終了し、かつ視聴率も最高潮を迎えていた1985年秋頃から、たけしは徐々に番組と距離を置く様になっていたと後にさんまが明かした他[11]、1986年12月に、たけしがフライデー襲撃事件を起こして謹慎に入り、番組のメインコーナーである「タケちゃんマン」がたけし不在となったことや、1986年1月に開始した裏番組である『全員集合』の後継番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(以下『加トケン』)の猛攻、さらには紳助が盲腸で入院するなどのアクシデントに見舞われることもあり、1987年から視聴率は下落し始める。たけしはその後復帰したものの、「オバケが出たから」「車のシートベルトが外れなかったから」など、不可解な理由で収録を休む(=サボる)ことが増えていった[12][注釈 18][注釈 19]。 たけし復帰と入れ替わるように、1987年8月には横澤彪プロデューサーと山縣慎司ディレクターが番組を勇退し、以降は三宅恵介ディレクターがプロデューサーを兼任することになった。しかし、末期の1988年頃には視聴率が一桁台になる回が多くなり、20%台の視聴率を出すようになっていた『加トケン』の後塵を拝するようになった。同じフジテレビ内でも1988年10月に開始した『とんねるずのみなさんのおかげです』や1987年11月に開始した『志村けんのだいじょうぶだぁ』などの新たなバラエティ番組が人気を博す状況となり、本番組の勢いは衰えつつあった。1988年10月からはテコ入れとして「タケちゃんマン」を終了させて「かまへんライダー」に変更、「ひょうきんベストテン」を終了させて「プロポーズ小作戦」に変更、「懺悔室」の終了、新コーナーとして全員参加の「今月の歌」、一時廃止したアイキャッチの復活など、『全員集合』に似た形式の公開収録や公開生放送を行うといった策が行われたが[13]、『全員集合』の生放送から『ひょうきん族』と同じ録画放送に切り替え、かつ「THE DETECTIVE STORY」が人気を博し、「おもしろビデオコーナー」などの視聴者参加企画を取り入れた『加トケン』の前には太刀打ちできず、視聴率を回復させるには至らなかった。 そして、1989年に入りフジテレビは番組の更なるリニューアルを断行するのか現状維持で行くのか、それとも番組終了とするのかをたけしとさんまに委ねたが、フジテレビはたけしとさんまの意見を尊重した上で『ひょうきん族』の終了を決断(後述)[14]。5月にはスポーツ新聞の紙上で終了決定が報じられた。 1989年10月14日に最終回スペシャルを放送し、特番時代から通算8年5ヶ月の歴史に幕を下ろした。最終回は忠臣蔵のパロディ(浅野内匠頭と大石内蔵助はたけし、吉良上野介はさんま)を行いつつ、歴代キャラクターが総出演する『タケちゃんマン忠臣蔵』が行われた[15]。エンディングでは、1981年5月16日の単発放送時オープニングで出演者たちがディナー・コントをする場面を、1989年10月14日時点の出演者で再現。ディナーの最後にたけしが「オレたち!」と叫んだ後、他の出演者全員で「ひょうきん族!!」と叫んだ後、たけしが続けて「おしまい!」と言い、間をおいて「さあ帰りましょう!」の言葉で締められた後、最終回エンディング曲が始まり、出演者・番組スタッフの拍手歓喜の中、エンドロールが流れ始め、ディナーテーブルのセットがあるスタジオから、次々に出演者[注釈 20]が去り、照明が落とされ、スタッフの三宅恵介・荻野繁が見守る中、ディナーテーブルだけが照らされ、最後は「長いあいだ本当にありがとうございました」のテロップで締められ、8年半の歴史に幕を閉じた。ちなみに、単発放送時でのこのコントのBGMはアントニオ・ヴィヴァルディ「四季」の「春」で、最終回には同曲の「秋」を入れたが、ほとんど誰も気づいてくれなかったと『ひょうきん族話の泉』で三宅恵介が明かしている。なお、最終回エンディング曲は、EPOの「DOWN TOWN」(ニューレコーディングバージョン)だった。 当時さんまは、多くの出演者が多忙なスケジュールで疲れていたうえに、楽屋では笑いに貪欲だった頃と打って変わって、(副業や投資による)金儲けや将来の話しかしなくなり、そんな状況に嫌気が差していたたけしの「もう(番組を)終わりにしたい」という旨の発言などを受け、番組の初代プロデューサー・横澤彪からさんまに番組存続か終了か最終決定権を委ねられたので「やめます」と言ったことで、(1989年9月に)終了することが決まったと後年語っている[12][16]。なお、番組終了後にたけしが『さんまのまんま』にゲスト出演した際「なんでアレ(=ひょうきん族)終わっちゃったの? 予算がなくなったから??」とさんまに問うたところ「アンタが終わりにしたいと言うたからやないか!!」と突っ込まれていた。 後年、さんま曰く「まあ、ほっていても終わってたとは思いますけど。でも早めたのは事実です」としたうえで、たけしが「さんまという"毒"を飲み過ぎて、おかげで意外と番組が早く終わった。毒で『全員集合』をやっつけたけど、その毒で自分たちも終わっちゃった」と独自の表現で番組終了について説明した事を明かしている[16]。さらにさんまは「我々はドリフターズという横綱がいるから、小結あたりでちょろちょろと変化のある相撲を取りながら『ひょうきん族』を頑張って。ドリフがいるから『ひょうきん族』があった」とも語っている[17]。2022年10月22日に放送されたMBSラジオの『MBSヤングタウン土曜日』においてもさんまは「ドリフの胸を借りるために…『全員集合』には勝ちたくなかった。視聴率で『全員集合』を抜いた時に残念がったくらいなんです。ああ、『全員集合』を抜いてしまったっていう…横綱でいて欲しかった」と語っている[18]。2023年11月26日に日本テレビで放送された『誰も知らない明石家さんま さんまの人生を変えた8人 ビートたけしとの友情秘話を解禁!』においてさんまは、放送されていた8年間について「たけしさんもそうだったけど、『ひょうきん』に飽きていたり、8年ですからね。世間の飽きもちょっときてるかというころだった」と明かした他、たけしも「みんな売れちゃったし、懸命にやることがなくなってきたんだよね。1回やめて、さんまちゃんとまたやろうと言ってて、2人で特番やろうと言ってたんだけど、時代というか、テレビ局自体が予算がなくなっちゃった」と明かしている[12]。『誰も知らない明石家さんま さんまの人生を変えた8人 ビートたけしとの友情秘話を解禁!』には、たけし、山田邦子、片岡鶴太郎、三宅恵介もVTR出演した上で、開始から番組終了までの経緯を再現したドラマも放送され、さんま役を岩田剛典が、たけし役を香取慎吾がそれぞれ務めた[12][14]。 また、島崎俊郎がディレクターの山縣慎司に聞いた話によると、番組終了の要因の一つとしてドリフを抜いて視聴率29%を取った時、制作陣で「今後15%を切ったら終わろう」と約束していたとも言われている[4]。 裏番組であった『全員集合』と『加トケン』に出演していた志村けんは、『ひょうきん族』に関してあまり多くを語らなかったが、「当時はまだビデオデッキが普及していなかったため『ひょうきん族』は観ていなかった。『全員集合』は生放送だし」とテレビ番組で話していた他、1989年10月に『ひょうきん族』が終了した際にも「マスコミは騒いでいたが、実際のところ僕らはあまり視聴率競争とかには関心がなかった。同じお笑いの番組だけど、笑いのつくり方が違うだけだと思っていたから。ドリフや僕なんかのコントは、ある程度計算していろんなところに伏線をはりながら笑いを仕掛けていくけど、『ひょうきん族』はそれと違うやり方をしていた」「ただ、ドリフ本来の路線を引き継いだ『加トケン』に視聴者が帰ってきたと知って、僕らのやり方は、やっぱり間違っていなかった」と、「土8戦争」と呼ばれた視聴率競争には全く関心がなかったという見解を述べている[5]。同じく『全員集合』と『加トケン』に出演していた加藤茶も「『ひょうきん族』がどんどん面白くなってるっていうのは聞いていたが、『全員集合』が生放送だったため見る暇がなかった。あの頃はビデオデッキがなかった」「『全員集合』が終わってから『ひょうきん族』は案外つまらなくなった」などと語っている[19]。 『全員集合』に出演していた高木ブーは、『ひょうきん族』が『全員集合』に視聴率で打ち勝った件に触れ、「『全員集合』は『ひょうきん族』に負けたから終わったという人がいるが、そうとは思っていない」「『ひょうきん族』に負けたとかじゃなくて、作り込んだ笑いを公開生放送で見せるスタイルが、『全員集合』が番組としての役割を終えたってことなんじゃないかな。だから、さんまやたけしに対して、ヘンな感情なんてこれっぽっちもない」「『ひょうきん族』と『全員集合』は別のジャンルの番組で、『ひょうきん族』をライバルと思ったことはない」と語っている[20][17]。 たけしは『ひょうきん族』と『全員集合』を比較し、『全員集合』については「今見ても面白い」「それは完璧に計算して稽古して作り上げたものだからだ」と高く評価している一方で、『ひょうきん族』については「今になって『ひょうきん族』を見ても面白くも何ともない」「古臭くて笑えるもんじゃない」とし、『ひょうきん族』で行った楽屋話的な笑いを「芸の笑いとは別のもの」と述べている他[21]、志村の死去直後に放送されたTBSの『新・情報7daysニュースキャスター』においても、「ドリフはちゃんと創った計算されたお笑い。お菓子でいえば大納言とか、ちゃんとした砂糖とあずきの味なの。『ひょうきん族』というのは、テレビの裏側まで見せる人工甘味料」と語っている[5]。 たけし・さんま・加藤の発言から、本番組はいかに『全員集合』を意識した番組作りを行っていたかが伺い知れる。 放送終了後1993年の第30回新春スターかくし芸大会の白組の出し物が、「オンナだらけのひょうきん族」で、松本明子がブラックデビル、相原勇がタケちゃんマン、ゆうゆが鬼瓦、マルシアがナンデスカマン、アダモステに島崎敏郎、なお松本がゲームで不正を起こし、懺悔する羽目となり、最後の懺悔室では牧師役は逸見政孝、神様役はブッチー武者、最後の裁きは、「バツ」となり、松本、相原、ゆうゆ、マルシアが水を浴びた。 2003年 - 2004年には計5巻のDVD-BOX(それぞれ3枚組)が発売されている。 また、放送ライブラリーでは、1983年11月12日放送分と1989年10月14日放送の最終回スペシャル「TAKECHANマン忠臣蔵」を閲覧することができる。 2008年の『FNSの日』は『FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』と題し、当番組をベースに7月26日から7月27日にかけて放送された。これは、ひょうきんディレクターズの一員で2代目プロデューサーだった三宅恵介が定年を迎えるにあたり、「もう一度ひょうきん族をやりたい」と、メインキャストのたけしとさんまに声をかけたことから実現したもので、さんまが総合司会、たけしが19年ぶりの出演となった。たけし・さんまの他にも、島田紳助、山田邦子、片岡鶴太郎、ラサール石井、渡辺正行、大平サブロー、島崎俊郎、ジミー大西、村上ショージなど、本番組のメンバーも集結。オープニングも当番組派生のキャラクター『ナンデスカマン』によるテーマソング『世界の国からナンデスカ』の歌唱から始まり、本番組と同じ『ウィリアム・テル序曲』がテーマソングとして流され、『懺悔室』のコーナーでエンディングを迎えるなど、本番組のテイストがふんだんに盛り込まれた内容となった。 エンディングテーマ曲土曜日の放送ということもあり、曲名や歌詞に“土曜日”“土曜”“Saturday”といったキーワードが含まれている曲が使われ(「グラマー・ボーイ」・「パレード」・「恋はNo-return」・単発使用曲を除く)、これによって“土曜日といえばひょうきん族”というイメージを定着させた。「ひょうきん懺悔室」などが終わると同時に番組は完全に終了して曲のみを流し、その日のダイジェストをCG映像の中にハメコミで流しながら[注釈 21]、スタッフロール・提供クレジット・エンドカード[注釈 22]を流すという手法だった。これは後年当枠で放送された『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』や『めちゃ×2イケてるッ!』にも受け継がれていた。 2002年11月にオレたちひょうきん族 オリジナル・サウンドトラック”CDが発売する予定だった[22]。しかし直前で発売中止となり、2020年現在まで発売されていない。原因は不明。
脚注
関連項目
外部リンク
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