笑福亭鶴光
二代目 笑福亭 鶴光(しょうふくてい つるこ[3][4] / つるこう[5][6]、1948年〈昭和23年〉1月18日[7] - )は、上方落語家、ラジオパーソナリティ。上方落語協会顧問、落語芸術協会上方真打。松竹芸能所属。 血液型はO型。出囃子は『春はうれしや』。六代目桂文枝、四代目桂春団治と同期。2021年現在、松鶴の筆頭弟子となっている。 芸名の読み高座名の読み方が「しょうふくていつるこ」なのは、師匠である6代目笑福亭松鶴の前々名である光鶴(こかく)の順序を逆にしたものに由来するためで、読み方もそれに倣っているが、「つるこ」だと一般には言いづらく、また「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」のブレイクで「つるこう」との呼び方が一般に定着しため、鶴光自身はラジオパーソナリティ・タレントとしては「つるこう」、本業の落語家としては「つるこ」で使い分けている。なお、上方落語協会公式ホームページの会員プロフィールではこの読みの通りだが、落語芸術協会公式ホームページでは「しょうふくていつるこう」となっており、また自身のブログでもタイトルを「つるこうでおま!」としている。また、自身の弟子については、上方の弟子である学光や元弟子の笑光らは「〜こ」、里光以下東京の弟子はいずれも(「光」が入らない竹三を除く)「~こう」と読ませている。 来歴高校卒業まで大阪府中河内郡長吉村川辺(現:大阪市平野区長吉川辺)出身[8]。 生まれた時点で、母は実父と別れていた[9]。母親は働いていたため、5歳まで長吉川辺に住む母方の祖父に預けられて育つ[9][10]。この祖父に、新世界にあった温泉演芸場(のちの新花月)に頻繁に連れられたという[11]。6歳の時に母が歳の離れた植木職人の男性(成人した連れ子が3人いた)と再婚するが、商売気の薄い義父にはほとんど稼ぎがなく、母が内職で家計を支えていた[12]。中学に入ると新聞配達のアルバイトを始めるも、父の過去の新聞料金未払いが発覚し、給料から返済分を差し引かれる苦労を味わう[13]。また兄が鉄工所を始めると、夏休みは昼間そこで働いた[13](実際にはほとんど勤務実績はない[要出典])。一方、中学時代にラジオで落語を聞き覚えるようになり、学校のホームルームなどで演じた[14]。学業成績はよかったため高校進学を勧められたが、父の連れ子である3人の兄が高校(に当たる上級学校)を出ていないという事情から、1963年に定時制である大阪市立天王寺第二商業高等学校に進学する[15]。 昼間はいくつかの職を変えながら働き、学校では演劇部に入る[14]。演劇部の同級生に4代目林家小染がいた[14]。小染とは2人だけで落語研究会も立ち上げたが、1年生の冬に小染は高校を中退して3代目林家染丸に弟子入りする[14]。小染から染丸門下への誘いがあったものの、弟弟子になるのがいやで断念する[14]。また、落語家に必要な教養を身につけるべきで学業での3年程度の「まわり道」は「どうということはない」と考えており[14]、中退はしなかった。 在学中に毎日放送の『素人名人会』で「寄合酒」を演じて「名人賞」を獲得、さらに複数の素人参加番組で「常連」となる[16]。卒業間際に再度『素人名人会』の「名人賞」を獲得したことで、本格的に落語家になることを決意する[16]。 落語家として高校卒業後、6代目笑福亭松鶴に入門。松鶴を選んだ理由は、(染丸以外の)松鶴・3代目桂米朝・3代目桂春団治・3代目桂小文枝の中で「名前の字数が一番多い」ことに加え、母から「顔の怖い人ほど心根は優しい」と言われたことにあった[17][18]。2021年までは3代目笑福亭仁鶴に次ぐ2番弟子であったが、仁鶴の死去により筆頭弟子となった[19]。 入門の際、松鶴の許を直接訪問せずに、「弟子にするなら○、弟子にしないなら×で返事をください」との内容を記した往復はがきを郵送したエピソードが知られる[17][18][20]。結局返信されなかったため、直接道頓堀角座に出ていた松鶴の元に訪れ弟子入りを直訴した[17][18]。松鶴からははがきを送ったことに加えて宛名を「松福亭松鶴」と誤記した点を「なんちゅう失礼なやつ」「ナショナルの会社の前へ行って、東芝と言うてるようなもんや」と激怒される[17][18]。偶然そのとき持ち込まれた独演会のチラシに同じ誤記があったことで松鶴は「プロが間違うなら、素人が間違っても仕方がない」と大声を出すよう命じて鶴光が叫ぶと、近くでそれを聞いた砂川捨丸が「大きな声を出せるということは芸人に向いてる」と弟子に取ることを勧め、松鶴は誤字の件を「水に流そう」と入門を認めた[17][18]。 正式な入門は1967年4月、入門当日からいきなり稽古が始まった[17][21]。高座名は松鶴から「鶴之(つるゆき)」と「鶴光」のどちらかを選ぶように指示され、「鶴光」を選んだという[22]。 初舞台は1968年2月の新花月[23]。入門時点で自動車運転免許を持っていたため、やはり免許を持っていた6代目笑福亭松喬が入門するまで松鶴の運転手をする[24]。松鶴からはしばしば無茶な運転を強要され、急停止などで「意趣返し」をしていたという[24]。また、松鶴からは7回破門されたと著書に記している[24]。 1970年代前半、ラジオのパーソナリティとして人気を集め、1974年にニッポン放送の『オールナイトニッポン』に起用されて(笑福亭鶴光のオールナイトニッポン)、その知名度を高める(詳細後述)。『オールナイトニッポン』からは書籍(『かやくごはん』)やレコード(うぐいすだにミュージックホール)も出し、いずれもヒットした。だが、松鶴からタレント活動に苦言を呈されたこともあり、落語にも本腰を入れて取り組むようになる[25]。 上方落語協会、関西演芸協会のほか、5代目春風亭柳昇の口添えで1990年より落語芸術協会(芸協)にも上方真打として参加、通常は東京の寄席に出演している。これは鶴光が1987年から2003年の間、東京のニッポン放送で平日帯のレギュラー番組(後述)を持っていたというスケジュール上の事情が背景にある[26]。最初に東京の寄席(新宿末廣亭)に出たのは1989年9月で、当初より定席に組まれたがそれに対する風当たりを感じて代演という体裁に変えてもらい、約半年後に芸協側から「準会員としてちゃんと出てもらおう」という形になった[26]。また、江戸落語では三味線・長唄・笛・日本舞踊の素養が必須と聞いてすべて習得している(上方落語では三味線の囃子方は職分として落語家とは別にいる[27])[26]。 「6代目の(松鶴)師匠にはお世話になったから」(東京の落語家の来阪時にもてなした)と、東京の落語家に便宜を図ってもらう機会が何度もあり、鶴光は師匠への感謝の念を著書に記している[28]。 上方落語協会に籍を置いて東京の寄席でトリを取る資格を持つのは鶴光のみ(弟子の里光、和光、羽光が芸協の真打のため「唯一の上方落語家」ではないが、里光、和光、羽光は上方落語協会の正会員ではない)。NHK教育テレビの演芸番組『日本の話芸』にもしばしば出演する。 ラジオパーソナリティ松鶴に入門するや否や「まずは顔と名前を売らなアカン!」と考えた鶴光は「兄弟子の仁鶴、同期の三枝(現:文枝)」をライバルとして、修業時代から関西ローカルのテレビ番組やラジオ番組に出演した。折りしも時代は演芸ブームであり、長髪という落語家らしからぬ風貌と機転の利いた喋りはすぐに注目され、ラジオのレギュラーだけで13本を抱える売れっ子になった。京阪神の全てのAMラジオ局でレギュラー番組を持った落語家は鶴光だけである[要出典]。 1971年4月より関西の人気深夜番組『MBSヤングタウン』のパーソナリティに抜擢。局アナ角淳一、佐々木美絵とのコンビで人気を博し、三枝とともに同番組の看板パーソナリティとなる。 ニッポン放送の亀渕昭信(後に同社社長)が、全国ツアーで『あのねのねのオールナイトニッポン』を3か月間休むことになっていたあのねのねのピンチヒッター要員を選ぶ際に、候補を尋ねた部下のディレクターとラジオ大阪のプロデューサーが揃って名を挙げたことから、1973年11月に鶴光にオーディションを受けさせた[29]。亀渕は、最初のオーディションに間違って桂朝丸(後の桂ざこば)を呼んでしまったという逸話がある[30]。オーディションに合格した鶴光は、1974年1月から『オールナイトニッポン』土曜日パーソナリティを3か月間担当する[31]。初回放送前にはリスナーからのハガキも数枚しかなく、しかもその内容で初めて3か月間の代役と知って「好きにやらせてもらおうか」と開き直ったという[31]。初回は持ち時間すべて小咄を演じて評判となるが、亀渕からは「セックスアピールが足りない」と言われて「どうせ3か月で終わるから」と下ネタを前面に押し出した[31]。これにより一気にブレイクし、全国区への足がかりとなった。1974年4月からは水曜日枠でレギュラーに昇格、その後同年7月にあのねのねがツアーのため再度『オールナイトニッポン』を休むと土曜日に担当が変わり、最終的には11年9か月という当時の歴代最長パーソナリティ記録を樹立した[32][33]。鶴光は「自分の代わりなど掃いて捨てるほどいる」という考えから、土曜の枠を死守するため極力休まないように心がけ、一度体調不良で休んだ次の週には、台風の中を自家用車でニッポン放送まで駆けつけて出演したという[34]。鶴光の成功により、以降明石家さんまをはじめ多くの上方芸人が東京のラジオで活躍することになる。 『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』は「この歌はこんな風に聞こえる」「ミッドナイトストーリー」「驚き桃の木ピンク話」「その時、君は・・」など、当時は少数だった男性パーソナリティによるお色気系のコーナーが満載で、まだAVが存在しない時代でもあったので、若い男性にとってはこの番組は福音でもあった。ただし、「公序良俗に反する」というクレームが来たため、1か月だけ下ネタを完全に排除したことがある[35]。これが功を奏して抗議が収まったため徐々に元の路線に戻した[35]。 タモリとともに「なんちゃっておじさん」ブームも巻き起こした[36]。 初期に家が火事になるとのギャグネタを盛んにやり、実際に鶴光の家が火事になったこともある(ただし当時は鶴光の家が火事にあった事は洒落にならないとして緘口令が敷かれた)。その後、火事の事実が明らかになり、鶴光も放送内でそれを認めた。火事の原因はペットとして飼っていた猿(アカゲザルの三吉)がストーブを倒したことであった。 放送当時は「身内ネタ」をする落語家は少なかったが、鶴光は息子である「新之助」ネタを盛んに使った(息子の「新之助」は、後に落語家となるも廃業した)。娘の「ありさ」も一時ネタとして使ったが、妻に怒られたため止めた。 長期間に渡り番組を担当したため、番組内でのエピソードも多い。
当時の女性アイドルもアシスタントとして出演しており(深夜4時台にアシスタント単独のコーナーもあった)、芦川よしみ・日髙のり子・榊みちこ・川島なお美・松本明子、坂上とし恵・浜田朱里がいる。アイドルとして売れなかった時代に『鶴光のオールナイトニッポン』でアシスタントを務めた日髙のり子・坂上とし恵・浜田朱里は「崖っぷちトリオ」と名付けられた。 1985年の『オールナイトニッポン』降板後は、東京と大阪を行き来しながら『鶴光の代打逆転サヨナラ満塁ホームラン 花とおじさん』『鶴光の歌謡ヒットエンドラン』『かけこみワイド・鶴光のまかせなさい!』を担当したが、1987年3月にABCラジオ『ポップ対歌謡曲』を除くすべての在阪レギュラー番組を降板。東京に単身赴任して『鶴光の噂のゴールデンアワー』のパーソナリティを16年間務めた。「乳頭(ニュートゥー)の色は?」「ダンナのアソコに小鳥は何羽止まりますか?」などの変わらぬトークぶりを展開し、主婦のアイドルとして不動の地位を築いた。 ニッポン放送ではこれまでの功績を称え、高嶋ひでたけや萩本欽一と共にレジェンドパーソナリティーに位置付けられている。なお、鶴光の中では、「つるこ」と「つるこう」と名前の呼び分けをするように、落語とラジオは「別物」として厳密に分類しており、著書では「落語は本職、DJは趣味と実益を兼ねた天職のようなもの」と記している[34]。また、1993年3月29日、翌日に弁天町への社屋移転を控えたラジオ大阪の桜橋社屋での最後の放送にも、司会の当時同局アナウンサーだった水本貴士とともに立ち会っている。 コミックソング鶴光は多数のレコードをリリースしたが、ヒットしたのは約20万枚を売り上げた『うぐいすだにミュージックホール』(作詞・作曲:山本正之)のみである。しかし、この曲のヒットが原因で、師匠の松鶴が「ろくに落語も出来ないくせに流行歌手か!」「ストリップの唄なんか歌いやがって!」と激怒し、それを契機に「落語もしっかり」やることを決意したという[39]。 映画様々な映画にも出演している。代表作はレギュラー出演した『トラック野郎シリーズ』で、ビニ本屋の店長役などで持ち味のエロを存分に発揮した。五月みどり主演の『奥様はお固いのがお好き』などのポルノ映画にも出演。また、Vシネマ『ミナミの帝王シリーズ』の3作品にも友情出演している。 テレビCM2005年、リクルートの「フロム・エー(FROM A)関東版/関西版」のテレビCMに出演する。様々なシチュエーションで「ええんか? ええんか?」と語りかけるCMが人気を博した。「ええか? ええか?」は『鶴光のオールナイトニッポン時代』からのギャグフレーズであるが、当時の流行を知らない若者の間でもこのフレーズが再度ブレイクし、このフレーズの着メロのダウンロードは急激に増加した。 落語売れ始めた頃にはテレビなどで新作落語や小噺などを披露し放送時間を繋いでいたが、円熟味を増してからは師匠譲りの豪快な話芸で『三十石夢の通い路』『相撲場風景』『三人旅』『阿弥陀池』『ぜんざい公社』などを得意にしている。 また、『木津の勘助』『荒茶』『鼓ヶ滝』『竹の水仙』などの講談種や『掛川の宿』『甚五郎の首(左甚五郎江戸の巻)』などの浪曲種、『袈裟御前』『紀州』といった地噺なども得意としており、落語家・鶴光の顕著な特徴として認められる。講談のネタは旭堂南鱗からの伝授である。講談(講釈)種については「物語の進行の骨格がきっちりできていて」、そこにひねりを加えられる部分が適度にあることから好きであると述べている[40]。 2008年の著書では『らくだ』『三十石』『高津の富』『一人酒盛』『天王寺詣り』を「笑福亭一門」の「いわば必修科目」と記しながら[41]、『らくだ』については師匠の6代目松鶴の口演を見た経験から「『らくだ』だけはやらない。どう考えたってこのネタは絶対できない。無理」としていた[42]。その後、2010年代になってからは演じるようになっている[43]。 ラジオでは「エロ」を売りの一つとするが、落語では「直球勝負を続けていきたい」という理由から艶笑噺は「あえて演じない」と述べている[25]。 自身のTwitterでは時折自らの落語論、演芸論を真面目に述べるなど、テレビ、ラジオ出演時の軽薄なキャラクターとは違う一面も見せている。 高座はもっぱら都内の定席や国立演芸場、関東圏の市民ホールなどが中心であるが、学校寄席にも精力的に取り組んでいる。地元大阪で2006年に開場した天満天神繁昌亭の定席では、大トリも務めることもある。また、横浜にぎわい座で年2回「鶴光一門会」を開いている。松竹芸能が新宿にオープンした寄席・新宿角座では月に1度「角座深夜寄席 -特選真打ちの会-」をプロデュースし、鶴光一門と落語芸術協会所属の落語家が出演している。 人物苦労して育ててくれた母親への思いは強く、落語家・タレントとして成功すると、旅行に何度も連れていった[44]。母親に末期の直腸がんが発見されて余命幾ばくもないと知らされると、点滴しか受けられない母にもう一度だけ食事をさせたいと担当医に相談し、特別な手術で3日間だけ食事可能にしてもらい、その間に寿司を食べさせて、ほどなく死去したという[44]。 新世界に馴染んで育ったこともあり、東京でも下町(浅草・下谷・入谷・谷中・目黒)を好み、飲み屋も庶民的な店が好きだと記している[45]。 吉幾三や桑田佳祐と並ぶ芸能界屈指の下ネタ好きとして知られる。 弟子落語家落語以外の弟子
廃業落語家
鶴光劇団
影響を与えた人物
主なギャグ※ただし落語の登場人物関連のものは除く。
主な出演番組2000年代以降は落語活動に力を入れているため、マスコミの露出は全盛期に比べて少なくなったが、J:COMテレビやニッポン放送などでレギュラー出演するほか、映画やドラマでも存在感のある脇役として出演している。 放送局の名称は現在のもので記す。 ラジオ
その他テレビ
その他
ウェブテレビ
CM
映画
DVD・セルビデオ
著書
レコード・CDコミックソングほか
落語
ゲーム
連載
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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