シャルル・アズナヴール
シャルル・アズナヴール(Charles Aznavour, 1924年5月22日 - 2018年10月1日)は、フランス・パリ出身のシンガーソングライター・俳優。アルメニア系で、本名はシャフヌル・ヴァヒナク・アズナヴリアン(Shahnour Vaghinag Aznavourian, アルメニア語: Շահնուր Վաղինակ Ազնավուրեան)。 経歴![]() アズナヴールの父はグルジア(現:ジョージア)で生まれた。その父(アズナヴールの祖父)はロシア皇帝ニコライ2世のコックをしていたという説があるが、アズナヴール本人が否定している。 第一次世界大戦とロシア革命による内戦と混乱を逃れた彼らはアメリカ行きのビザを申請するためパリに滞在している時に知り合い、1922年に結婚した。 アズナヴールの両親は、早くからアズナヴールとその兄弟を彼らがパリに持つレストランや多くの舞台に立たせた。9歳より芸能活動を開始し、アズナヴールの芸名を名乗る。 1946年にフランスの有名な女性歌手エディット・ピアフに認められたことにより、アズナヴールの経歴はより著名なものとなっていった。ピアフのフランスおよびアメリカでのツアーに同伴した。 アズナヴールのシャンソンはそのほとんどが愛を謳い上げている。母国語の仏語だけでなく英語等も堪能で、5つの言語で歌い、アズナヴールは最も世界に知られたフランスのシャンソン歌手の1人でもあった。また60本以上の映画にも出演しており、特にフランソワ・トリュフォー監督の「ピアニストを撃て」(1960年)での主演が著名である。 1995年以来、アルメニアの駐ユネスコ大使を務めている。また、2009年2月15日、ロシアのインタファクス通信等の報道によると、アズナヴールの母方の祖国であるアルメニア共和国政府は、アズナヴールを同国の駐スイス大使に任命することを決定した。 結婚は3回している。最初の妻ミシュリーヌとは1946年に結婚、次の妻エブリンとは1955年に再婚、晩年まで添い遂げた最後の妻ウラとは1967年に再々婚した。子供は計5人おり、アズナヴールの晩年まで健在だった子としてミシュリーヌとの間の長女セダ、ウラとの間の次女カティア、次男ミーシャ、 三男ニコラスがいる(50年代初頭に恋人関係にあった女性アルレットとの間に長男パトリックがいたが、1976年に25歳で薬物過剰摂取のため早世。また長男としてチャールズという男子がいたという伝記から、子は6人とされることがあるが、この男子はパトリックの事で、誤記とされる)。 2004年、レジオンドヌール勲章コマンドゥール(3等)を受賞。同年にアルメニア国民英雄の称号を授与される。2018年、日本政府から春の叙勲で旭日小綬章を受章[1]。 2018年5月には腕を骨折して一時療養するも、活動復帰。9月には来日し、94歳での来日コンサートの宣伝には各新聞に文字通り【奇跡の来日!】の見出しがつけられた。17日の東京のNHKホール及び19日の大阪のNHK大阪ホールでのコンサートを行い、帰国後の28日のテレビ番組インタビューでも引退を考えていないことを明言するなど精力的な姿勢をみせていた(結果的にこれがアズナヴールの最後のコンサートになってしまった)。 2018年10月1日、南フランスの自宅で死去[2]。94歳没。死因は、入浴中に生じた呼吸不全と心不全であった[3]。アズナヴールの葬儀は、10月5日に[4]、フランス共和国の国葬としてパリのオテル・デ・ザンヴァリッドで営まれ[5]、エマニュエル・マクロン大統領とブリジット大統領夫人が葬列に加わった他[5]、アズナヴールの母国であるアルメニアのニコル・パシニャン首相などの多くの要人が参列した[5]。 代表曲
1964年にアズナヴールが作詞した(作曲はジョルジュ・ガルヴァレンズ)「アイドルを探せ」(La plus belle pour aller danser)も、シルヴィ・ヴァルタンが唄って大ヒットした。 主な出演作品![]() ![]()
バックアップ歌手シャルル・アズナヴールは親友ミッシェル・ジュールダンと共に3人の歌手をバックアップしている。フランス人のマリー・ラザロは「忘れ得ぬ面影」はじめ楽曲を提供。日本の浜﨑久美子にはCDへのメッセージ、TVでの対談。岡山加代子には最新曲「ジュ ボヤージュ」の歌唱に対しメッセージを贈っている。他に瀬間千恵「ヒロシマ」、堀内環「美しき絆」が法定訳詞歌唱者となっている。 日本公演
その他
脚注
外部リンク
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