片岡鶴太郎
片岡 鶴太郎(かたおか つるたろう、1954年〈昭和29年〉12月21日[2] - )は、日本の俳優、お笑いタレント、画家、書家、ヨガ実践家。かつてはプロボクサー活動もしていた。 本名は荻野 繁雄(おぎの しげお)。愛称は「鶴ちゃん」。太田プロダクション所属。 弟は太田プロダクション社員(バラエティマネージメント1部長)の荻野良乙(よしお)。次男は画家の荻野綱久。三男は日本料理人の荻野聡士[3]。 東京都荒川区西日暮里出身[4]。東京都立竹台高等学校卒業。 概要生い立ち実家の荻野家は埼玉県所沢市の農家であり[5]、父方の祖父は神田で果物屋を営んでいた[4]。鶴太郎の父・忠雄(1926年 - 2022年)は長男だったため、祖母は弟だけを引き取り、父は所沢の本家に置いて行かれた[5]。母方の祖父は羽子板職人だったが、太平洋戦争の空襲で家と職業道具全てを失い廃業し[5]、戦後はお好み焼きを売るようになった[4]。鶴太郎の父は復員後、成増の金属加工工場に就職し、工場の寮で鶴太郎の母・繁子(1930年 - )と出会った[4][5]。結婚後は西日暮里の妻の家族の近所で暮らし始め[5]、1954年に鶴太郎が誕生した[4]。 鶴太郎は父に連れられて、寄席や演芸場へ通っていた[4]。物心づいたころから芸人を志し[4]、10歳の時に動物の物真似でフジテレビの素人参加番組『しろうと寄席』にテレビ出演しているが、番組のADが後に『森田一義アワー 笑っていいとも!』のプロデューサーとなる横澤彪だった。その父が死去したことが2022年3月23日の鶴太郎のインスタグラムで公表されている[6]。 高校進学に際しては、中学3年時の初めには成績が下から2、3番だったことから、担任から「志望校は無理」、母親からは「貧しいから私立は無理」と言われたことで発奮して、夏休みの1か月間で小学校6年生の教科書からやり直して猛勉強した結果上位10番に入り、東京都立竹台高等学校に進学。この「やればできる」という体験は片岡の人生の励みになったという[7]。高校では演劇部に所属し、3年次には部長を務めた[8]。 デビュー高校卒業後、俳優を目指して清川虹子の自宅へ何のあても無く唐突に訪問し、弟子入りを志願したが(最初は渥美清に弟子入りを考えていたが、もし弟子になれたとしても尊敬と憧れから何も出来ないだろうと思い諦めた)清川には会えず、清川の付き人から「男の付き人は採らない」と断られ、終いには「警察を呼ぶぞ」と警告されて断念した。粘れば弟子入りを許してもらえるだろうと思っていた目論見が崩れてしまった鶴太郎は、生活のためしばらく土木作業員などの仕事を経験した後、1973年に声帯模写の片岡鶴八に弟子入りし、声帯模写で東宝名人会や浅草松竹演芸場などの舞台に出演するようになる[9][10]。 師匠の鶴八は「声帯は人によって違うから、君に僕の芸はそのまま教えられない」と、芸を教えてくれなかった。しかし、そば屋へ同行した際には、そばの食べ方の手ほどきを受け「芸人として売れるまで、そば屋では盛りそばしか食べてはいけない」など、芸人としての「粋」を教えてもらったと語る。鶴八は、盛りそばを食べる鶴太郎の目の前で江戸前の天丼を食べていたが、これは「君も早く売れる芸人になりなさい」という師匠なりの激励であった。鶴太郎は師匠の懐の深さを知り「いつかは師匠と一緒に天丼を食べたい!」と決意するが、売れ出したころには鶴八は既に亡くなっており、その願いは叶うことがなかった。 1976年ごろに大阪で隼ジュン(後の隼ブラザーズ)の元で修行を行い、丘鶴太郎(デビュー当初は「片」がない)の芸名(後に「華の鶴太郎」)でトランポリンの地方興行を行う。興行では売れ始め鶴太郎本人も手応を感じピン芸人としてテレビに移行したい考えはあったが、隼率いるコント集団としては興行が順調で3年先まで興行スケジュールが埋まっており、鶴太郎も集団の宣材写真の中心に居たため鶴太郎の退団は承認できなかった。2年ほど在籍したが、このままで終わってしまうことに不安を感じ、九州興行の際に無断で一座から逐電した[11]。そのことが原因で干され、知人の紹介で松山・道後温泉で劇団に所属して、司会やものまねの仕事に就き修行を重ねる[9][10][12]。温泉旅館での宿泊客の老人には持ち芸である小森和子の真似はウケなかったが、鶴太郎の才能を理解し、身の回りの世話をしてくれていた座長の娘[11]と半年後に上京、結婚した[13][信頼性要検証]。妻との間には3人の息子をもうけたが[14][信頼性要検証]、テレビ番組では30歳のころから別居状態であると明かしており[15]、2017年3月に離婚している[16][17]。一部週刊誌は離婚の原因を若いころからの浮気癖としているが[18]、本人はヨガに熱中してストイックな生活に没頭したため妻とのすれ違いが生じたと真相を語っている[19]。 全国区の人気24歳の時、実質的なテレビデビューとなるフジテレビ系『お笑い大集合』に出演し、ここで横澤彪と再会した。片岡鶴太郎の芸名でテレビに進出するが漫才ブームには乗れず[9]。その後はお笑いタレントとして『オレたちひょうきん族』で披露した近藤真彦のものまねにより一躍脚光を浴び、九官鳥の「キューちゃん」や浦辺粂子、たこ八郎などの真似で人気を博した。 当時は小太りの体型で、熱いおでんを無理矢理食べさせられて大げさなリアクションを繰り出す[20]など、被虐的なキャラクターだった(リアクション芸人)。 現在、かつての芸風は影を潜めているが『オールナイトフジ』では、おまるの中にかりんとうを入れて示すなどの下ネタを披露していた。また、同番組内の“鶴太郎劇団”という寸劇コーナーにおいても、頻繁に女装しては男装した共演の女子大生と絡みのシーンを演じる、劇の最後のオチで全裸を女子大生に見せ付けるといった下品なキャラクターであった。「アブラギッシュな男No.1」という称号を得たのもこの頃である(井手らっきょは、鶴太郎の芸風に影響を受け全裸ネタを使うようになったと語っている)。 お茶の間に定着して以降、物真似では老けキャラの開拓を得意とし小森和子・浦辺粂子・坂上二郎などの物真似で知られ、後年にも、宮路年雄(城南電機社長)や横山昭二(麻原彰晃私選弁護人)ら、話題の人物を好んで演じた。 持ち前の器用さからバラエティ番組の司会やトークも数多くこなし、1986年には鶴太郎の造語「プッツン」(たとえとして脳の血管や堪忍袋の緒、あるいは緊張の糸が切れて突飛な行動を取ること。またはその人物)が新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞に選ばれた。 多方面での活動『森田一義アワー 笑っていいとも!』では、タモリと「キューちゃん」のマネを必ず行っていた。これは『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』に登場した九官鳥がモデルとなっている。 高い歌唱力(東京荒川少年少女合唱隊の第一期生)を活かして、1980年代半ばごろまでコンスタントにシングルを発売していた。そして『オレたちひょうきん族』などで楽曲を披露するもののヒットには縁がなかった。同じころ、お世辞にも上手とは言えない明石家さんまが「真赤なウソ」や、人気コーナー「タケちゃんマン」の挿入歌「アミダばばあの唄」、CMで話題となった「しあわせって何だっけ」をヒットさせたことで、なぜさんまより歌の上手い自分の曲がヒットしないのかとぼやいていたという。[要出典]鶴太郎は当時『ひょうきん族』の収録日である水曜日に生放送されていた『夜のヒットスタジオ』にも歌手として2度ほど出演実績を持っている。一方さんまは飛び入りの応援ゲストとしての登場はあったが、歌手としての出演実績はない。 『ザ・ベストテン』のランクイン記録はないが、1989年7月27日放送分の「今週のスポットライト」のコーナーに、「思いの丈で…」で出演したことがある。 1988年には「今までの自分が嫌になり、それを否定したかった」という理由から、プロボクサーのテストを受験した。当時ボクシングプロテストの受験資格年齢は29歳までであり、33歳だった鶴太郎に本来受験資格は無かった。しかし、日本ボクシングコミッション(JBC)に懸命に頼み込み「合格しても試合には出場できない」という条件で特別に受験が叶い、見事合格を果たす。受験にあたって前年から減量を始め、それまでの小太りから急激にシャープな体型に変わった。 プロ合格後は、鬼塚勝也や畑山隆則のマネージャーとして、タイトルマッチではセコンドを務めるなど、両人の世界王座奪取に大きく貢献、引退後の鬼塚や畑山らが鶴太郎と同じ太田プロに所属する切っ掛けとなった。1988年から1994年に放送された『季節はずれの海岸物語』では、主役の高村圭介を演じると同時に、鬼塚勝也との共演も果たした。1990年にTBS『月曜ドラマスペシャル』で放送された『昭和のチャンプ〜たこ八郎物語〜』では、かつて『オレたちひょうきん族』で物まねをしたたこ八郎を、彼の前半生でのボクサーとしての視点を主体にシリアスに演じている。 1988年、映画『異人たちとの夏』の監督・大林宣彦に江戸弁を気に入られ、主人公の父親役に起用されると評判を呼び、多くの映画賞を受賞し、活動の軸足を俳優に移した[9][10]。1991年のNHK大河ドラマ『太平記』では北条高時役を演じ、評価された。『軍師官兵衛』(2014年)では小寺政職役を演じたが『仁義なき戦い』における金子信雄のイメージというオファー[21]があったことから、芸人色の濃い演技となっている。 1990年代には横溝正史原作一連の推理ドラマに、主人公の探偵・金田一耕助役で毎年出演(計9本)し、以降も『家栽の人』では植物を愛し人間の本質を見抜く暖かみのある桑田判事役を好演。『ララバイ刑事』ではどこか虚無的な雰囲気のある刑事を演じるなど、俳優としてもコンスタントな活躍を見せている。 2時間サスペンスドラマの主役として出演する機会が多く、露口茂から引き継いだ「終着駅シリーズ」での牛尾刑事役は当たり役となった。『八丁堀の七人』では久々に山田邦子と共演し『オレたちひょうきん族』のコントを 飲み仲間だった志村けんの著書によると、鶴太郎は酒の席で「自分はものまねも中途半端だし、お笑いではたけしさんやさんまちゃんにはかなわない。コントにも志村さんがいる。だから、俳優に行くしかない」と語ったとされている。後に「ひょうきん族は天才の集まり、芸人として限界を感じた。島田紳助さん、ビートたけしさん、さんまさん、山田邦子ちゃん。毎週ガチンコで勝負していると自分の力量がわかってくる。たけしさんとさんまさんがトークしている時、入っていけなかった」とも語っていた[22]。 テレビで柳原可奈子を見た際、彼女の芸を気に入った鶴太郎は、既に太田プロに所属していた柳原を「スカウトして来い」と言ったことがある。 お笑いと距離を置き、多方面での活動が盛んになる中でも『爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル』や『爆笑レッドカーペット』に審査員として出演している。時にはものまねを披露するなどしており、お笑いから身を引いたというわけではない。2008年の『FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』では、ひょうきん族のキャラクターである「マイ爺さん」や「ピヨコ隊」を演じた。 2000年の映画『しあわせ家族計画』の撮影中、当時無名だった小栗旬(息子役)とのケンカのシーンで、小栗が本気でのしかかり鶴太郎は腰骨が外れるという大怪我を負った。多忙だった鶴太郎はこのことをすっかり忘れていたが、2010年鶴太郎の楽屋へあいさつに訪れた小栗が先述のエピソードを語り、非常に驚いたという[23]。 2012年から、瞑想への関心をきっかけとして、毎朝起きると4時間ヨガを実践している。5年目の2017年にはインド政府公認「プロフェッショナルヨガ検定・インストラクター」の全4段階中の難関のレベル1に合格した[24][25][26]。 芸術家としてタモリに影響を受け、挿絵を描くことを始める。コメディアンとしての仕事から距離を置くにつれ、1989年にドラマ『志功の青春記 おらあゴッホだ』で若きころの棟方志功を演じたことをきっかけに、水墨画を描くことや陶芸など美術方面へ傾倒していく。岡本太郎とバラエティ番組『鶴太郎のテレもんじゃ』で共演したことから知り合い、岡本によってその才能を評価され自信を持ったとされる。 群馬県吾妻郡草津町、福島県福島市に美術館、石川県加賀市、佐賀県伊万里市に工藝館がある。 右利きだが、絵は左手で描いている。 鶴太郎が鯛を描いた台紙を用いた「片岡鶴太郎めで鯛電報」が2000年5月14日よりNTTから販売されている。台紙内部に格納された鯛と海老の絵は取り外してコースターなどに利用できるようになっている。 青森大学で芸術論を担当。NHK『趣味悠々』では、2003年7月から9月に「鶴太郎流墨彩画塾」、翌2004年4月から5月に続編となる「新鶴太郎流墨彩画塾」で講師を務める。 2003年、奈良県當麻寺中之坊に天井画を揮毫し奉納。2004年秋より、文化勲章受章者や日本芸術院会員ら一流画家の作品にまじって、写仏道場の格天井に飾られている。作品名は『天井より海を眺め』。 2007年には、絵画の視点で書道にも挑戦し、第24回産経国際書展に応募。作品「骨」が話題を呼び、総数7575点の中から産経新聞社賞を受賞した。 また、アイドルグループ「キャンディーズ」のメンバーだった女優の田中好子に水墨画など絵画を教えており、田中にとって鶴太郎は絵画の師匠的な存在だった[27]。 2015年3月、書家として第10回手島右卿賞を受賞した(作品「夜」)[28]。 影響
読字障害2008年10月、NHKスペシャル『病の起源』第4回に出演。このシリーズは取り上げるテーマの病に罹った俳優・タレントが案内人を務めており、第4回のテーマは「読字障害」。そこで鶴太郎は、学生時代に教科書の音読などが苦手だったという経験を踏まえたうえで、自らも読字障害の疑いがあったのではないか、そのことが却って芸術家としても花開くきっかけになったのではないか、と告白した。 ものまねレパートリー
他多数 出演テレビドラマNHK
日本テレビ系
テレビ朝日系
TBS系
テレビ東京系
フジテレビ系
その他
映画
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脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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