滝田洋二郎
滝田 洋二郎(たきた ようじろう、1955年(昭和30年)12月4日 - )は、日本の映画監督。富山県高岡市(旧福岡町)出身。株式会社エーライツ取締役 本部長。 来歴富山県立高岡商業高等学校卒業。俳優・山田辰夫は高校時代の同級生。高校卒業後、知り合いの国会議員の秘書から「就職を世話してやる」と[2]、東急不動産と東映の名が挙がったため[2]、派手そうで良いなという理由から東映を選択する[2]。だが実際は、東映の下請けである[2]東映セントラルフィルムのポルノ(東映ポルノ)を製作していた向井プロ(のち、獅子プロ)[2]だった。1974年(昭和49年)、同社に事務職として入社[2]。高倉健のヤクザ映画は観ていたものの特に映画好きではなかったため当初は戸惑ったが、撮影現場の面白さに惹かれ助監督に転ずる[2]。向井寛、山本晋也、稲尾実、梅沢薫監督らの下で低予算ポルノ(ピンク映画)の助監督を務めた[2]。一般映画では、1979年(昭和54年)の『下落合焼とりムービー』で助監督を務めている。1981年(昭和56年)、『痴漢女教師』で監督デビュー[2]。以降、1982年(昭和57年)2本、1983年(昭和58年)4本、1984年(昭和59年)8本と倍のペースでメガホンを握り[2]、"邦ピン・ニューエンタテイメントの旗手"などと称された[2]。脚本家・高木功とのコンビで成人映画の監督として話題作を連発し耳目を集める。 1985年(昭和60年)、主演と脚本を務めた内田裕也に指名され、初の一般映画『コミック雑誌なんかいらない!』を監督し、高い評価を得る。同作はニューヨーク・ロサンゼルスの一部映画館でも公開され話題となった。以降、コンスタントに話題作を発表し続けている。当初はコメディが目立ったが、次第にシリアスな大作を数多く手がけるようになった。現在では不羈奔放な演出で沸かせたピンク時代とは大きく異なる端正な作風となっている。 2001年(平成13年)の『陰陽師』は、実写日本映画ではトップクラスのヒットとなった[3]。2004年(平成16年)には『壬生義士伝』で日本アカデミー賞最優秀作品賞。 2008年(平成20年)公開の『おくりびと』は大作ではなかった[4]ものの、ロングランされると、翌2009年(平成21年)の日本アカデミー賞で最優秀作品賞・最優秀監督賞を受賞。その後、第81回アカデミー賞では日本映画初の外国語映画賞を受賞した[1]。 2009年(平成21年)3月18日高岡市のホテルニューオータニ高岡にて富山県初となる県民栄誉賞と、こちらも初となる高岡市民栄誉賞[5]が贈られた[6]。 2011年(平成23年)に映画芸術科学アカデミー会員に選出される。 作風ミステリ喜劇「痴漢電車・下着検札」からハードサスペンス「連続暴姦」まで、非常に幅広い作風を示す。「下着検札」は、竹中直人(当時は竹中ナオト)が松本清張・松田優作の物真似のみで全編演じており、満州事変秘話から密室トリック殺人、人形アニメで締めくくるラストなど凝った演出で話題を呼んだ。「痴漢電車・極秘本番」では、現代と大阪城夏の陣をタイムスリップで往還する、メジャー大作では扱わないSFスラップスティックコメディにまで挑んでいる。「痴漢電車・聖子のお尻」の終盤では密室トリックの嗜好を如何なく発揮。5分間セリフなしでラヴェルの「ボレロ」だけを流し、視覚のみで仕掛けを解明する映像で気を吐いた。これらのほとんどで主演した螢雪次朗とは、今も盟友関係が続いている。ピンク映画の末期にはにっかつ配給作品も数本手掛けたが、ほとんどが獅子プロ製作の買取作品で撮影所が使用できなかった。のちに「木村家の人々」で組んだにっかつ出身の山田耕大プロデューサーは、滝田から当時のにっかつへの強い敵意を感じたという。滝田は一般映画進出を果たすまで、予算・撮影日数ともに、にっかつロマンポルノの数分の一にすぎないピンク映画業界で手腕を発揮し続けた。 所属した向井プロ(獅子プロ)が新宿南口にあり[2]、西新宿の超高層ビル群を毎日眺め、頻繁に作品へ取り入れた[2]。 監督作品一般作品
成人作品
助監督作品
受賞歴
脚注
外部リンク
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