室田日出男
室田 日出男(むろた ひでお、1937年〈昭和12年〉10月7日 - 2002年〈平成14年〉6月15日) は、日本の俳優。北海道小樽市奥沢町出身[2]。小樽市立潮見台中学校[3]~北海道札幌東高等学校卒業。息子は俳優の室田晃。代表作は映画『男はつらいよ 噂の寅次郎』やテレビドラマ『ふぞろいの林檎たちII』[4] など。身長180cm[5]。 来歴父親は石川県能登の庄屋の息子で、日露戦争をきっかけに、小樽に移住[2]。母親は小樽生まれ[2]。父親は「馬追」「馬力屋」と言われる[6]、馬車や馬そりを使った今で言う運送業をしていた[2][6]。子供の頃の室田は、近くの川(勝納川)や山、そして朝里などの海岸に、仲間とよく出かけるなど、自然に親しむ毎日を送り、三日でも四日でも海のそばにいて帰宅しなかったこともあったという[2]。小学校3年のとき父が、中学2年のとき母を相次いで失い[6]、札幌市で年の離れた姉夫婦に育てられる[2][5][6]。終戦直後はどこでもどぶろくを密造しており[5]、室田は小学生のときから隠れてどぶろくを飲んでいた[5]。中2ですすきので童貞を捨て[6]、札幌東高校時代にはすでに「酒と喧嘩と女の日々」だったという[6]。 北海道大学を受験したが失敗し[6]、予備校に通うため、東京でタクシー会社を経営していた義兄を頼り上京[6]。姉に勧められ1957年、東映ニューフェイス第4期で入社[5][6]。同期には佐久間良子、花園ひろみ、山口洋子、山城新伍などがいる。役者になるつもり全くなかったが[6]、当時の室田に宝田明が会っていれば、俳優を断念したかも知れないというほどの二枚目だったと自分で話している[7]。酒の席と仕事上の喧嘩で端正な顔が歪んだという[7]。東映から「本名は覚えづらいから芸名にしろ」と言われたが[8]、「芸名にしたらスターにしてくれんのか」とツッパリ、本名でデビューする[8]。 ニューフェイスは幹部候補生で[6]、当時の東映はひっきりなしに映画を撮っていた頃だったから[5]、本来は次々に映画に出演してスターダムにのし上がってもおかしくなかったが[5]、ウイスキーをボトルでラッパ飲みする酒豪で[6]、酒ぐせが悪く、最初は演技もヘタで、喧嘩もしょっちゅう[6][5]。飲み屋で喧嘩する、飲み過ぎて撮影に遅刻する、持ち前の正義感から俳優組合の旗を振るで、"干されの室田"の異名をとり[1]、仕事にありつけず[1][5][6]。たまに貰った仕事で東映新記録といわれたNG34回を出した[1]。この映画の助監督を務めたのが深作欣二と山口和彦で[1]、同じ冷飯組だった深作は同病憐れむ仲で[6]、陰に陽に室田を引き立て[6]、その後も自身の作品で室田をよく起用した[1]。下積みは20年近くに及んだ[6]。 1961年の千葉真一・深作欣二が初主演・監督映画『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』では、クランクインの前夜に酔って暴れ、ホテルのガラスを叩き割った[9]。深作から降板させられ3年間出入り禁止を通告される[9]。室田は組合運動を熱心にやるため[8]、東映から嫌われ、1965年10月公開の『昭和残侠伝』(佐伯清監督)出演後、半年干された[8]。まだ売れてなかった深作が心配し『脅迫 (おどし)』(1966年2月17日公開)を撮る際、当時の今田智憲東映東京撮影所所長から「もう組合活動をいっさいやらない、と一筆書けば出演させる」と約束を取り付けてくれ[8]、深作に説得され一筆は書いたが、その後、居直り再契約の交渉で今田の術中にはまり、売り言葉に買い言葉があり、大喧嘩して東映ニューフェイスでは珍しく東映を契約解除される[8]。フリーとなり、東映の社員でなくなったため当然組合運動は出来ず[8]、ハジキ出され疎外された[8]。再契約を頼み続けたが東映に断固拒否され続けた[8]。新宿でヤクザ20人に囲まれたが、度胸のよさを見込まれヤクザにスカウトされたこともある[8]。東映から再契約の打診があったのは1975年9月[8]。「三角マークにゃ恩義はないが、古巣、東映を誇りに思うしプライドも持っている」と再契約に応じる[8]。 1975年には岩尾正隆・川谷拓三・志賀勝らと共にピラニア軍団を結成し、室田はリーダー的存在だった。同年のテレビドラマ『前略おふくろ様』では半田妻吉(半妻)を演じる[10]。 1978年2月13日、覚せい剤不法所持容疑で逮捕[6][11]。1977年6月に東映京都撮影所の俳優会館内で、岩城滉一から覚せい剤を譲り受け、自分で注射した容疑だった[6]。室田がこれを認めれていれば任意捜査の書類送検で終わったが[6]、室田が全面否認したため逮捕となり大騒ぎになった[6]。周りの人たちは「昼間から酒の臭いをプンプンさせていたからアルコール中毒ならまだしも覚せい剤の使用はないと思うよ」などと擁護したが[6]、出演していたNHK大河ドラマ『黄金の日日』を途中降板(降板とともに役柄自体が消滅)[6]。謹慎生活を送る。 1978年、謹慎後の復帰作となった日活制作の『人妻集団暴行致死事件』では高い評価を受け、1980年の映画『影武者』、『野獣死すべし』などにも出演した。 1981年の映画『魔界転生』では宝蔵院胤瞬に抜擢され、1992年の第35回ブルーリボン賞では『死んでもいい』、『修羅の伝説』で助演男優賞を受賞した。 2002年6月15日午後10時5分、肺癌のため逝去。64歳没。戒名はなし。葬儀・通夜では山城新伍をはじめ、梅宮辰夫、松方弘樹などが参列。告別式では深作欣二が万感の思いで弔辞を読み上げ[9]、山城は「彼は僕らと違ってバラエティには出ないから、本当に役者だね」と追悼。酒好きで、『ライスカレー』などで共演した陣内孝則からも慕われていた。墓所は八王子市富士見台霊園。 逸話フジテレビのドラマ『6羽のかもめ』に出演したとき浅草でロケがあった。このとき『仁義なき戦い 代理戦争』などで早川英男を演じていることを知っていた地元の香具師やテキ屋が見物人を遠ざけて出演者の邪魔にならないように配慮してくれた。ただし番組終了後、映画を知らない視聴者から「本物のヤクザを出演させるな」という苦情の手紙が放送局にきたという[12]。 出演映画
Vシネマ
テレビドラマ
Vシネマ
舞台
その他
書籍関連項目脚注
外部リンク |