エルヴィス・プレスリー
エルヴィス・アーロン・プレスリー(Elvis Aron Presley、1935年1月8日 - 1977年8月16日)は、アメリカ合衆国の歌手[9][10]、俳優[11]。全世界のレコード・カセット・CD等の総売り上げは5億枚以上とされている[12][13]、史上最も売れた音楽家の一人[14][15]。「キング・オブ・ロックンロール」と称される[16]。ミドルネームは公文書、サイン共にAronだが、墓石にはAaronと表記されている[17]。 概要1950年代にチャック・ベリーやファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ビル・ヘイリーら[18] と共にロック・アンド・ロール(ロックンロール)の誕生と普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大なる影響を与えた。その功績からキング・オブ・ロックンロールまたはキングと称され、ギネス・ワールド・レコーズでは「史上最も成功したソロ・アーティスト」として認定されている[19]。1950年代に、アメリカやイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀後半のポピュラー音楽の中で、最初の大きなムーブメントを引き起こした。また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされる。ジョン・レノン、ボブ・ディラン、ポール・マッカートニー、ボブ・シーガー、フレディ・マーキュリー、テリー・スタッフォード[20]など、多くのロック、ポップのミュージシャンたちが憧れたことでも知られる(下段・フォロワーを参照)。 初期のプレスリーのロカビリー・スタイルは、黒人の音楽であるブルースやリズムアンドブルースと白人の音楽であるカントリー・アンド・ウェスタンを融合した音楽であるといわれている。それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカでは画期的なことであった。 その後全国的な人気を得たが、白人社会だった当時は保守層から「プレスリーはセックス狂」や「彼は白人を黒人に陥れる」など、凄まじい批判を受けた。「ロックンロールが青少年の非行の原因だ」と中傷され、「骨盤ダンス」も問題となり、PTAはテレビ放送の禁止要求を行うなど、様々な批判、中傷の的になった。KWK FM & AMラジオではプレスリーのレコード(「ハウンドドッグ」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送[21]。さらにフロリダの演奏では、下半身を動かすなとPTAやYMCAに言われ小指を動かして歌った。この時には警官がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていた。 そんな激しい批判の中でもプレスリーは激しいパフォーマンスをやめず、若者を釘付けにしていった。当時プレスリーは、自身に影響を与えた黒人アーティストのリスペクトを、インタビューなどで公に答えており、「ロックンロールが非行の原因になるとは思わない」とも答えている。また、プレスリーは自身のロックンロールについて「セクシーにしようとは思ってないさ。自分を表現する方法なんだ」「俺は人々に悪影響を与えてるとは思わない。もしそう思ったら、俺はトラック運転手に戻るよ。本気でそう思ってるんだ」と答えている。 プレスリーの音楽によって多くの人々が初めてロックンロールに触れ、ロックンロールは一気にメジャーなものとなった。また、いままで音楽を聞かなかった若年層(特に若い女性)が、音楽を積極的に聞くようになり、ほぼ同時期に普及した安価なテレビジョンやレコードプレーヤーとともに音楽消費を増加させる原動力になった。さらに、音楽だけでなくファッションや髪型などの流行も若者たちの間に芽生え、若者文化が台頭した。晩年はその活動をショーやコンサート中心に移した。1977年8月16日、自宅であるグレイスランドにて42歳の若さで死去した。 プレスリーの記録は多数あり、例えば、最も成功したソロアーティスト、最多ヒットシングル記録(151回)、1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(死の翌日)、等がギネスによって認定されている。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第3位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第3位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第1位[22]。 経歴生い立ちプレスリーは1935年1月8日、ミシシッピ州テュペロの小さな家(トイレも水道も無い掘立小屋)で生まれた。父ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー(1916 - 1979)、母グラディス・ラブ・プレスリー(1912 - 1958)の3人家族であった(プレスリーには双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している)。父ヴァーノンが不渡小切手で服役するなど極貧生活を強いられるも、両親はプレスリーを大事に育てた。 敬虔なキリスト教プロテスタント[23] (ペンテコステ派)[24]の家庭に育ったプレスリーは、9歳の時に洗礼を受けた。11歳の誕生日にはライフルを欲しがったが、当然母親に却下され、代わりにアコースティック・ギターを買い与えられた。これを機に自宅の地下洗濯部屋でギターを練習し、音楽に傾倒していった。 1948年、プレスリーが13歳の時に一家はテネシー州メンフィスへと引っ越し、下宿生活を経て1949年にメンフィスにあるロウダーデール・コート公営住宅に転居した。メンフィスには非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、プレスリーは黒人の音楽を日常的に聴いて育ち、エリス公会堂で行われていたゴスペルのショーも欠かさずに観に行っていた。毎回欠かさず観に来ていたプレスリーは、ある日入場料を支払えないため1度欠席した。これに気を留めたのがJ.D.サムナーで「じゃあ次回からは楽屋口から入るといいよ」と告げ、以降は無料でショーを観ることができた(1970年代の公演ではJ.D.サムナー&ザ・スタンプス・カルテットをコーラス隊として迎えている)。このことが後のプレスリーの音楽性に大きな影響を与えたとされる。高等学校を卒業したプレスリーは、精密金型製造会社に就職した後、クラウン・エレクトリック社に転職してトラック運転手として働いていた。 サン・レコード時代1953年夏、プレスリーはメンフィスのサン・スタジオで最初の両面デモ・アセテート盤を録音するため4ドルを支払った。収録曲は当時のポピュラーなバラード “My Happiness” と “That’s When Your Heartaches Begin” であった。 サン・レコードの創業者サム・フィリップス[25]とアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞き、プレスリーの才能を感じた。そして1954年6月に行方不明となった歌手の代理としてプレスリーを呼んだ。セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、フィリップスは地元のミュージシャン、スコティ・ムーア[26]、ビル・ブラックと共にプレスリーを売り出すこととした。プレスリーは最初「The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始めたが、その後歌いながら腰を揺らすその歌唱スタイルから、(彼に批判的な人々から)「Elvis the Pelvis(骨盤のエルヴィス)」と呼ばれた。 1954年7月5日のリハーサル休憩中、プレスリーは“That’s All Right, Mama”[27] を歌い始めた。即興演奏ではあったが、プレスリーが適所を得たかもしれないと考えたフィリップスは録音を始め、不在だったドラマーの代わりにベースを演奏させた。B面として“Blue Moon of Kentucky”を収録したシ 同曲は、WHBQラジオが放送した2日後に、メンフィスでの局所的なヒットとなった。ラジオを聴いた人々はプレスリーを黒人歌手だと勘違いしていたという。 プレスリーが公演を始めると、その評判はテネシー州中に広まった。しかし「初舞台の時には死ぬほど緊張した。観客の声が怖かったんだ」との言葉も残っているように、プレスリーの自信は高くなかった。また、白人プロモーターから「黒人娘(コーラスを務めた“ザ・スウィート・インスピレーションズ”の事を言ったものだが、実際には更に差別的な言い方であった)は連れてこないでくれ」と連絡を受けることが度々あった。プレスリーはその要望を拒否し、後に謝罪と多額の慰謝料を差し出されるも拒絶した。 この逸話から分かるように、公民権法が施行される前の1950年代のアメリカ音楽業界にも人種隔離が多く残っていた。当時の黒人ロックンロール歌手によるヒット曲も、パット・ブーンら白人歌手によるカバー版が白人向けの商品として宣伝され、ラジオなどで放送される傾向にあった。たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識だった。プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として注目された。 サンとの契約下でプレスリーは5枚のシングルを発売した。
「ザッツ・オールライト」はビッグボーイ・クルーダップ(アーサー・クルーダップ)のカバーである。多くはリズム・アンド・ブルース、またはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲のカバーであった。レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコティー・アンド・ビル」とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1分55秒、最長のもので2分38秒である。 既に他の歌手のマネージャーとして活動していたトム・パーカー(通称・パーカー大佐)は、プレスリーの先進性を聞きつけると彼に接触、マネージャーに就任した。1955年8月18日にプレスリーの両親はパーカーとの契約書に署名し、サンとの関係を終了した。 RCAとの契約プレスリーは1955年11月21日にRCAビクターと契約した。1956年1月28日に「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショー」にてテレビに初出演し、黒人のR&Bを歌った。そこでプレスリーは白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対して各地のPTAや宗教団体から激しい非難を受けた。一方でプレスリーは若年層を中心に多数のファンを集めるようになった。 1956年1月27日に第6弾シングル “Heartbreak Hotel / I Was the One” が発売され、1956年4月にチャートの1位に達した。Heartbreak Hotel はその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた。 録音のため、1950年代はニューヨーク州ニューヨークにあるRCAスタジオを利用したことがあったが、後の主演映画の挿入歌を除き、録音に最も利用されたのはテネシー州ナッシュヴィルにあるRCAスタジオBである。しかし、1972年以降は、カリフォルニア州ロサンゼルスハリウッドにあるRCAスタジオやメンフィスのスタジオを利用した。1976年になると、RCAの社員がプレスリーの自宅(グレイスランド、ジャングルルーム)に録音機材を持ち込んで録音を行った。 後年のプレスリーが録音自体に関心を示さなくなったのは、RCAのミキシングやアレンジが彼の意向にそぐわなかったことや良質な楽曲がなくなったこと、コーラスがプレスリーの要求にこたえられなかったこと、体調不良など様々な理由があった。 プレスリーは一発撮りと呼ばれる1テイク完成型のスタジオ・ライブ形式の録音にこだわった(いくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式やパートごとの別録りといった選択肢もあったが、プレスリーはそれを嫌った。現在まで発表された曲数が700以上ある中で、そのような形式で発表した曲は少ない)。そのため、プレスリーの死去後、現在までに発見された様々な未発表テイクの中には、発表されたテイクと違った趣向のものもある。後年、録音に関心がなくなった頃には体調不良を訴え、「歌のレコーディングは後で必ずするからミュージックだけ録音しておいてくれ」と言うこともあったが、概ねそれは実現しなかった。 1956年12月4日、プレスリーはカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスが滞在していたサン・レコードに赴き、彼らとジャム・セッションを行なった。フィリップスにはもうプレスリーの楽曲を発売する権利はなかったが、このセッションを録音した。ジョニー・キャッシュも共演していたと長い間考えられていたが、フィリップスが撮らせた写真でしか確認することができない[28]。このセッションは伝説的な『ミリオン・ダラー・カルテット』と呼ばれるようになった。年末の『ウォール・ストリート・ジャーナル』一面で、プレスリー関連商品が2千2百万ドルを売り上げ、レコード売上が国内1位であることを報じられた[29]。また『ビルボード』誌で100位以内に到達した曲数が史上最高となった[30]。音楽業界最大手の1つであるRCAでの最初の1年間、RCAのレコード売上の半数がプレスリーのものであった[31]。 エド・サリヴァン・ショー当時のアメリカの人気音楽番組『エド・サリヴァン・ショー』には、1956年9月と10月、1957年1月と短期間に3回出演した[32]。なお、広い視聴者層を持つ国民的番組であるため、保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が、プレスリーにジャケットを着用させ、意図的にプレスリーの上半身だけを撮影したと伝えられている。 上記の様なやり取りがあったものの、司会者のエド・サリヴァンが「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と紹介したことから、プレスリーへの批判は鎮静化した。また同番組がアメリカ全土への宣伝に大きく役立ったと言われている。 軍歴1958年1月20日に、プレスリーはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカは徴兵制度を施行しており、陸軍は2年間の徴兵期間を設けていた。プレスリーは、スター用の特例任務に就かず、ほかと変わらぬ普通の一兵士として西ドイツにあるアメリカ陸軍基地で勤務し、1960年3月5日に満期除隊した[33]。パーカー大佐は、「少しでも優遇措置を受ければ、批判は避けられない」とプレスリーを説得した。これにより、彼に否定的だった国民からも好意的に見られるようになった。 徴兵命令が来た際、プレスリーは映画『闇に響く声』を撮影中で、入営を少し延期しなければならなかった。徴兵局は入営の延期を要請したパラマウントに対し、プレスリーの出頭を求めた。翌日、プレスリーは徴兵局へ赴き、延期を申し入れた。 1958年8月11日、機甲科向けの専門教育を受けていたプレスリーは、すでに体調を崩していた母グラディスが緊急入院したとの知らせを受けた。上官はプレスリーからの外出申請をいったんは却下したが、8月12日に外出を許可した。グラディスは8月14日に亡くなり、翌15日に葬儀が営まれた。再び帰営する際、プレスリーはグラディスの部屋を生前の状態に保つよう言い残している。 プレスリーは西ドイツに駐留する第32機甲連隊に配属され、第1中戦車大隊の本部管理中隊で勤務した。同地では松濤舘空手を学び、軍曹まで昇進した(空手8段と言われることがあるが、実際には空手ではなく、除隊後にトレーニングした韓国人のカン・リー道場での最終段位であり、空手道とは関係がない。公開されている免状には韓国国旗とアメリカ国旗があしらわれている)。また在籍中、軍の病院において扁桃腺炎と診断された。その際、医師は声の変調を恐れて、扁桃腺の切除手術は行わなかったが、プレスリーは回復した。 1960年3月2日、プレスリーは除隊し、帰国の途に就いた。途中スコットランドを経由しているが、これが彼にとって唯一のイギリス滞在となった。プレスリーは3月3日の朝に帰国して大勢のファンに迎えられ、5日に名誉除隊を果たした。 映画出演プレスリーが歌手として有名になっていくにつれて、映画配給会社数社から出演依頼が届くようになった。プレスリーは大変喜び、劇場に通い演技を独学で勉強した。パーカー大佐はプレスリーを主演にさせるべく、初の映画に20世紀FOX配給「Rino Brothers」を選んだ。プレスリーはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも「Love Me Tender」に変更されて公開された。 陸軍入隊前までの1958年までに4作の映画が製作されたが、いずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出した。1960年に陸軍除隊すると直ちに『GIブルース』が製作され、同名の主題歌とともにヒットした[34]。 パーカー大佐は配給会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為、1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、「G.I. Blues」、「Blue Hawaii」、「Viva LasVegas(ラスヴェガス万才)」等、話題にはなったが、プレスリーの映画は全体的に評価が低い。評価されたのは「オン・ステージ」「オン・ツアー」など、コンサートをドキュメンタリー的に記録したものだけである。 結局、1956年から1969年まで計31本の映画が公開された中で、プレスリーが望んだ(主題歌以外の)歌のない映画は、1969年公開の「Charro!(殺し屋の烙印)」のみであった。この映画が製作された頃のプレスリーは1960年代初期と違い、映画への意欲が薄らいでいた時期ではあった(1968年のカムバックを経て、残った契約の消化を急いでいた)が、久しぶりに前向きに臨んだ西部劇で役作りの為にあごひげまではやし撮影された。しかし、プレスリーの主演映画に対する世間の注目を集められなかったこと、脚本の質が低かったことなどが原因で映画の興行成績は振るわなかった。また一度に10本分の出演契約を結ぶなど、パーカー大佐による強引な活動もプレスリーを疲弊させた。 そういう状況の中、ミュージカル映画の枠に留まっていたこと、低質な脚本[注釈 1]、また、プレスリーが拘った場面がカットされたことなどにより、プレスリーは映画出演への不満を募らせていた。1960年代後半には歌手活動を再開させた。 歌手活動の本格再開後も、1970年8月のラスベガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画「Elvis: That’s the Way It Is(エルヴィス・オン・ステージ)」や1972年4月のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画「ELVIS On Tour(エルヴィス・オン・ツアー)」が製作され、好評を博した[35]。それ以降は映画の公開はなかったが、プレスリーの死後の1981年には、ほとんどを生前の映像等で構成したライフ・ストーリー的映画「This Is ELVIS」が公開された。これらを合わせると、プレスリーが主演した映画は計34本となる。 1974年8月19日に、ラスベガス公演中のプレスリーの楽屋をバーブラ・ストライザンドが訪れた。バーブラは自らが主演する映画「A Star Is Born(スター誕生)」での共演をプレスリーに依頼し、プレスリー自身も非常に乗り気だったと伝えられているが、後日パーカー大佐が出演料を理由に断った。 1970年代半ば、プレスリー自身が起案し出演する空手家が主人公の映画の撮影を行ったが、完成することはなかった。理由の一つとして、プレスリーの体調が悪くなることが多く空手を続けられる状況ではなくなり、空手自体をやめてしまったことが挙げられる。ちなみに、空手の後の太り始めた頃からの趣味はラケットボールで、医師からの勧めで始めた。プレスリーは自宅であるグレイスランドの敷地内に専用コートを建てた。亡くなる1977年8月16日の早朝も友人たちとプレーし、汗を流した。 ビートルズとの会見プレスリーとビートルズは直接的な接点を持たなかったが、両者は1965年8月27日、ロサンゼルスのプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たした。ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインとパーカー大佐の間での「極秘の打ち合わせ」という名目でビートルズはロサンゼルスに赴いたが、情報が漏洩したことで自宅周辺には人々が集まった。 この会見はビートルズのメンバー達や関係者達の証言の食い違いがあり、様々な諸説がある。通説ではメンバーのジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターは平静を装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。そこでプレスリーはテレビを見ながらベースを演奏してくつろいでいた。感激した4人は呆然としてしまった。気まずい沈黙とぎこちない会話の後、プレスリーが「一晩中俺を見てるだけなら俺はもう寝るぜ?せっかく演奏ができると思って待ってたのにさ」と発言したため、即興演奏が始まった。プレスリーはベースを演奏し、レノンとハリスンはギター、マッカートニーはピアノを演奏した。スターはドラムキットが無かったため演奏しておらずビリヤードやサッカーを楽しんでいたという。 ビートルズの友人でもある記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンがプレスリー宅のラウンジに入った時、テーブルランプの「リンドン・B・ジョンソン大統領と共に」というメッセージが刻まれたワゴンの模型を見つけた。その瞬間レノンは大統領を侮辱する態度をとり、プレスリーは困って苦笑いしていたという。プレスリーの妻だったプリシラによれば「ビートルズが入ってきたとき、エルヴィスはソファでリラックスしながらテレビを見ていました。両者とも最初は多少の沈黙とぎこちない会話の後、エルヴィスがベースを取り出してチャーリー・リッチの曲を弾き始めました。突然、ビートルズとエルヴィスのジャムセッションが始まりました」と語っている。 ビートルズの広報担当者でもあるトニー・バロウは「プレスリーとビートルズは奇妙な沈黙が多く、いくつかぎこちない会話をした。最初に口を開いたのはジョンで、最近はなぜ映画でソフトなバラードばかりを歌ってるの?ロックンロールはどうしたのと質問してた。会話は上手くいかなかったけど、プレスリーが楽器を用意して、素晴らしいセッションが始まった。彼等が演奏した全ての曲は覚えてないけど、その内の1つは『I Feel Fine』だった事は覚えてるよ。リンゴは木製の家具を叩いてバックビートを鳴らしてた。それは素晴らしいセッションだったよ」と語っている。 「君たちのレコードは全部持ってるよ」と述べたプレスリーに対しレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と発言し、部屋は重い雰囲気に満ちた。これはレノンの過激な冗談だったとも言われている。この会見は成功したとは言えないものだったが、ビートルズは忘れられない夜だったと語っている。プレスリーのロードマネジャーであるジョー・エスポジートによれば、「プレスリーは面会の後もビートルズに敬意を払っていた」と語っている。レノンはプレスリーの関係者に「エルヴィスがいなければ今の自分はいない」と伝えるよう頼んだという。 後にプレスリーはマッカートニーやハリスンの曲をカバーしているが、レノンの曲は取り上げていない。(ただしビートルズもプレスリーのカバーを正式には残していない)しかしプレスリーの側近であるジェリーシリングによると、プレスリーはレノンがリードボーカルを担当する初期ビートルズの曲も好んでいた。プレスリーは「ハード・デイズ・ナイト」を特に気に入っていたという。しかし、薬物を題材にした楽曲は嫌っていたと側近は語っている。プレスリーはビートルズとの会見の後にも公にビートルズを賞賛している。1969年、プレスリーは記者に「彼らはとても面白くて、とても実験的だ。特に彼らが『 I Saw Her Standing There』辺りを歌ってた頃が好きだったな」と語った。公演でも「ビートルズやドアーズなど、新しいバンドが本当に好きだ」と語っている。 結婚と離婚1967年5月1日、ネバダ州ラスベガスのアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ボーリューと結婚。プリシラはプレスリーの駐西ドイツアメリカ軍における上官の継子であった。プレスリーは未成年であったプリシラをメンフィスに呼び寄せる代わりに、彼女を自らの父親の家に同居させ、有名なカトリック系女子高校を卒業させることを彼女の両親に約束した。しかし、程なく2人はグレイスランドで同居し始めた。1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリーが生まれる。 その4年後、結婚前から続くプレスリーの悪い生活習慣(昼夜逆転)、メンフィス・マフィア(エルヴィスの関係者)との生活、さらに数ヶ月にも及ぶツアーによる別居生活などのさまざまな理由から、プリシラは不倫し、結婚生活は破綻してしまう。グレイスランドを出たプリシラはリサ・マリーを引き取り、ロサンゼルスに住居を移す。プレスリーは彼女と1973年10月9日に正式に離婚した。 一方で、離婚後も2人は友人関係にあり、以前よりも密に連絡し合うようになった。ロサンゼルスに滞在する際にプリシラの家を訪れたり、時折プリシラをグレイスランドに呼び寄せるなど、2人は親交を保った。 1960年代、70年代の音楽活動プレスリーの音楽活動は62年の「好きにならずにいられない」までは好調を保っていたが、63年から68年ごろまでは絶不調と言える状態だった。量産された映画とブリティッシュ・インヴェイジョンによる影響は否定できず、プレスリーもそれを自覚していた。一方1965年の「クライング・イン・ザ・チャペル」(オリオールズの曲をカバー)が好成績を収めた。1968年のテレビ出演で歌手活動を本格的に再開したプレスリーは、1969年に「サスピシャス・マインズ」[36]、「イン・ザ・ゲットー」を発売した。1969年から過密な日程による公演活動を再開。しかし、それはプレスリーを完全なワーカホリック状態へと追い込むものであった。1969年以降行った公演は1000回以上であり、平均すると1年につき約125回だった。 1969年より、ネバダ州ラスベガスを中心に多数の公演を実施したが、その規模は次第大きくなっていった。瞬間最高視聴率約72%を記録した1968年のNBC-TVスペシャル以降、プレスリーはロックンロール以外にもレパートリーの幅を拡げ、トニー・ジョー・ホワイト、ニール・ダイアモンド、BJトーマスらのゴスペルやポップ等を取り入れた。バンドもコーラス・グループやピアノ等を新たに加え、オーケストラまで揃えて大きく膨れ上がった。なおこの頃から着用し始めた派手な衣装は、リベラーチェに影響されたとされる。1972年には「バーニング・ラヴ」が、ビルボード2位まで上昇する大ヒットとなっている[37]。1970年代にエルヴィスは他に、「アメリカの祈り」「ロックンロール魂」などを発売した。 プレスリーはラスベガスでのステージ編成をそのまま地方公演に取り入れた。活動再開後、生前最後となる1977年6月26日のインディアナ州インディアナポリス公演まで入場券は完売した。1977年8月17日から始まる予定だったツアーも、最終日の8月27日のメンフィス公演まで売り切れ、翌28日に同地で追加公演を行う予定だった。 ニクソンとの面会1960年代半ばからアメリカは非常に混沌とした時代になった。ヒッピーの過激な反戦運動の中で、フリーセックス、栄養失調、病気、LSDなどの薬物中毒の問題などが浮上し、犯罪と暴力が急増した。 プレスリーはドラッグが蔓延るヒッピー文化の暴動と、過激なカウンターカルチャーによるアメリカの未来を危惧していたという。1970年12月21日には、アメリカン航空でワシントンD.C.に出向き(普段は自家用機しか乗らない)、シークレット・サービスに手紙を手渡した。一市民であるプレスリーから大統領にあてた手紙である。 「私はエルヴィス・プレスリーです。あなたを尊敬しています。私は3週間前にパームスプリングスでアグニュー副大統領と話し、我が国に対する懸念を表明しました。麻薬文化、ヒッピー、SDS、ブラックパンサーなど。私は彼等にとって敵では無く彼らの言う「体制」ではなく、私はアメリカを愛する者です。私はこの国を助けるためにできるだけの手伝いをさせていただきたい。私には国を助けること以外に何の関心も動機もありません。ですから私は役職を与えられたくないのです。もし私が連邦捜査官になったら、もっと良いことができます。あらゆる年齢層の人々とのコミュニケーションを通じて、私なりの方法でそれを手助けするつもりです。何よりも私はエンターテイナーです。必要なのは連邦資格だけです」という手紙をニクソンに送った。 その40分後、大統領補佐官から面会を許す旨の電話があった。ホテルに到着したデル・ソニー・ウェストを伴い、プレスリーはホワイトハウスへ赴きリチャード・ニクソン大統領との会見に臨んだ。写真はその際撮影されたものである。プレスリーは連邦捜査局本部の視察を許可された。若者の凄まじい反米精神と、不健全なヒッピーカルチャーを深刻な問題として考えていたプレスリーは、ビートルズ、スマザーズ・ブラザーズ、ジェーン・フォンダなどの過激な発言と活動を危険視していた。プレスリーは彼等を厳しく取り締まるべきと考えていたという。 プレスリーは「自分はドラッグ・カルチャーと、共産主義の洗脳について研究してきた」[38]とニクソンに語っている。保守派の政治家として、麻薬撲滅に腐心していたニクソンに対し、「ロックが麻薬使用に影響しているとは思わないが、責任は感じている」と発言したことで、プレスリーは麻薬取締官の徽章を贈呈された。なお、プレスリーは警察官や軍に関する徽章等の収集家であった。 プレスリーは熱心な愛国者であったが、自身の政治的見解は公表することはなかった。ニクソンと薬物問題を議論した際も、自身が芸能人であることを予め断り、必要以上に関与しなかった。1972年の記者会見で「政治的なキャリアを追求することを考えたことはありますか?」という問いにプレスリーは「いいえ、僕にはその願望はありません」と答えている。記者から「兵役についてた頃の話もありましたが、ベトナム戦争の反対運動者についてあなたの意見はどうですか?今日徴兵されることは拒否しますか?」という問いに、プレスリーは「それについての自分の意見は自分の中に留めておくつもりです。僕は芸能人ですからね」と答え、記者は「他の芸能人も貴方と同じように秘密にするべきですか?」と質問するとプレスリーは「いいえ」と答えている。 またプレスリーは人種差別に大変批判的であった。1950年代に一部の白人から寄せられる批判に臆せずに黒人への賛辞を何度も公言しているが、一方で公民権運動には関与しなかった。人種差別やベトナム戦争に反対していたマーティン・ルーサー・キングをプレスリーは熱烈に支持していたが、それを公言することはなかった(キングの訃報を聞いたプレスリーは泣き崩れたという)。この様にプレスリーは、基本的に芸能活動を除き自己主張には積極的ではなかった。 トム・パーカー大佐トム・パーカーは悪徳マネージャーとして有名だった。プレスリーは世界的に知られた歌手となったが、終生アメリカとカナダ以外で公演を行っていない。海外での公演ができなかった理由は、不法移民であるパーカー大佐がアメリカの永住権を所持しておらず、カナダを例外としてアメリカ国外へいったん出国すると再入国を許されない事態を恐れた為だったと言われている。 パーカー大佐は世界中から寄せられる多くの公演要請に応えるため、衛星中継で公演を放送した。日本公演の要請に対し、日本のゴールデンタイムに衛星生中継で視聴できるよう、1973年1月14日に、ハワイ時間深夜1時から公演『アロハ・フロム・ハワイ』を開催した。放送は、日本時間19時から約2時間続いた。 同公演はプレスリーの愛唱歌でもあった「アイル・リメンバー・ユー」の作者、クイ・リーの遺族らによって創設された“クイ・リー癌基金”のためのチャリティー・コンサートとして開催された為収益は全て、クイ・リー癌基金へ寄付された。入場券に定価は設定されず、任意の金額で購入出来た。6000席の会場で約7万5000ドルが集まったので、1人あたり12ドル50セント支払った計算になる。 アメリカでは、公開中だった『エルビス・オン・ツアー』と競合することを回避するために、4月4日に放送された。新たにハワイの映像や挿入歌が追加された生放送とは別の編集版であった。既にこの公演のライヴアルバムが発売されていたにもかかわらず、この放送を視聴した世帯数は、人類初の月面着陸の映像を視聴した世帯数より多かった[39]。 「プレスリーの離婚の財産分与の資金捻出のため」という名目でパーカー大佐はプレスリーの楽曲の権利をRCAへ売却した。これは長期的に巨額の損失を生んだが、パーカー大佐自身がギャンブルで大損を出していたため、早急に大金を得るために独断で行ったものだった。プリシラとの離婚に必要な資金は175万ドルであり、プレスリーの印税で難なく稼ぎ出せる金額だった。後年のプレスリーがやや困窮した理由は、楽曲の権利による印税が支払われなくなったためである。プレスリーの関係者は、この事件を「悪名高き1973年の取引」と呼んでいる。 この様な理由以外にも、プレスリーはパーカー大佐に対する不満を関係者に多く漏らしていた。しかし、プレスリーは生涯パーカー大佐を解雇にすることはなかった。ネルソン・ジョージは、「マネージャーのトム・パーカー大佐がプレスリーをどんどん安物のクズにおとしめていった」と評している[40]。 死と埋葬1977年8月16日、テネシー州メンフィスの自宅グレイスランドで、交際相手のジンジャー・アルデンによって寝室のトイレの床に倒れているプレスリーが発見された。プレスリーはバプテスト記念病院へ搬送されたが、医師により、午後3時30分に死亡が確認された。42歳没。検視後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表された[注釈 2]。 晩年、プレスリーはストレスからくる過食症に陥ったことが原因で体重が激増したことに加え、1975年頃からは主治医だったジョージ・ニコポウラスから処方された睡眠薬などを誤用していた。「処方ドラッグをやっていた」とグレン・D・ハーディンなどのメンバー、さらにデル・ソニー・ウェストなどのメンフィス・マフィアのメンバーたちも語っている。 ハーディンは詳しいことは死ぬまで語るつもりはないと述べているが、ソニー・ウェストは暴露本を書いて中傷したとされた。このことについてウェストは「まだ存命中だったエルヴィスを救うためだった」と述べた。違法薬物は一切使用していないが、この処方薬の影響で癇癪持ちになり、体調も維持できなくなってしまった。 イギリスのテレビ局、チャンネル4はプレスリーのDNAに、肥満や心臓疾患を引き起こす要因が発見されたと報道した[41]。 当初プレスリーはメンフィスのフォレスト・ヒル墓地で母親の隣に埋葬されたが、遺体の盗掘未遂事件が起きたため、母親と共にグレイスランドに再埋葬された。グレイスランドには、プレスリーの様々な遺品やピンクや緑に塗られた車(キャデラック)、自家用機(コンベア880 / リサ・マリー号)などが展示されており、現在も世界中からファンや観光客が訪れている。スコティ・ムーアは「エルヴィスの葬儀は見世物ショーになるだろう」と感じ、式に出席しなかった。 死後プレスリーの急死後、その肖像権は非常に危うい位置にあった。杜撰に管理されていた彼の権利は濫用され、プレスリーの印象を損なう商品が続出した。 生前のプレスリーは名義貸しのつもりで数々の契約書に署名していたが、関係者によって莫大な予算が請求されることがあった(ソニー・ウェストが暴露したテープに電話の内容が記録されている)。 死去後まもなくして遺族らが膨大なプレスリーの物的財産を管理する組織を結成、肖像権も管理すべく訴訟を起こした(当時、故人の肖像権は帰属等が不明であった)。勝訴した遺族により、以後プレスリーの権利は厳密に管理されている。 未発表映像も発掘され、1968年のTVスペシャルや1973年のアロハ・フロム・ハワイのアウトテイクを収録した完全版が発表され好評となった。その他、側近や友人、家族らが語るプレスリーの人物像に焦点をあてたものや、プレスリーのゴスペルに対する思いを映像化したものもある。 それ以外にもプレスリーを題材にした映画が製作されたり、プレスリーの曲が数多くの映画の挿入歌として使用される事も多い。プレスリーの記録である最多ヒット曲数18曲は、2019年にマライア・キャリーの19曲によって更新された。 死後、ロニー・マクドウェルは「キング・イズ・ゴーン」を発表した。マクドヴェルのようにプレスリーの物まね、または成りきる(演じる)事を生業とする人々が世界に存在し、その数は8万5000人と言われている[39]。 更に1997年には新たなる試みとして、プレスリーの公演の映像を使用し、それにあわせて当時のバンド・メンバーが演奏するエルヴィス・ザ・コンサート(現:エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート)がメンフィスで行われ、以後国内外で開催されている。娘のリサ・マリー・プレスリーはマイケル・ジャクソンと結婚したが、後に離婚している。 フォロワープレスリーは多くの国の若者にロックンロールという新しい音楽への強い関心を与えた存在だった。ジョン・レノン、ボブ・ディラン、ポール・マッカートニー、ボブ・シーガー、フレディ・マーキュリー、ルー・リード[42]、ロバート・プラント、ブルース・スプリングスティーン、テリー・スタッフォード、クリフ・リチャードらをはじめとする多くのアーティストが大きな影響を受けた。 ジョン・レノンとエリック・カルメンは、ボーカル・スタイルにおいても影響を受けている。ジョン・シュナイダー、ZZトップ、チープ・トリックらはプレスリーの曲をカバーした。ロバート・ゴードン、タフ・ダーツ、ストレイ・キャッツ、ブラスターズらもその影響を受けていた。 バンド・メンバー
ヒュー・ジャレット — バックボーカル(1956–58; 2008年に死亡)
ボブ・ムーア—コントラバス、ベースギター(1958–59、1960–68; 2021年に死亡)
家族
衣装と食生活1970年代の公演で主に着用された、金やダイヤモンド、ルビーなどを施したジャンプスーツの重量は25kg以上にもなっていた。これは敬愛していたゲイのピアニストであるリベラーチェの影響を受けたものだった。ただし、プレスリーは宝石類にあまり関心を持たず、舞台上で華やかに見えるものなら擬似品でも構わないと考えていた。 プレスリーは酒やたばこを嫌っていた。たまに葉巻を吸う程度である。「オン・ステージ」で観客から渡された酒も口を付けるだけで殆ど飲んでいない。公演中に飲んでいたのは主に水かゲータレードである。 プレスリーは毎日のようにコーヒーや炭酸飲料を飲み、「ピーナッツバターとバナナとベーコンのサンドイッチ」を食べていた。このサンドイッチは「エルヴィスサンド」と呼ばれている。ただし、このサンドイッチは多量のバターを溶かしたフライパンで揚げ焼きにした高カロリーなものであるため、プレスリーが1970年代以降体調を崩し、肥満化していった一因になったという指摘もある。 影響日本では湯川れい子、小林克也、平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス、本郷直樹、尾藤イサオ、ささきいさお、鹿内孝、藤木孝、西郷輝彦、坂本九、西田敏行、大瀧詠一、小泉純一郎等がプレスリー・ファンとして知られている。 アメリカのティーンエイジャーの一部は、プレスリーのダックテールと呼ばれる横髪を後ろへなで付けるヘアスタイルを真似し始めた。また、黒いズボンや緩い開襟シャツといったプレスリーのスタイルは、ファッションの新たな流行を生み出した。プレスリーや、ジェームズ・ディーンの影響は、西側世界における3ティーンエイジャー世代の存在を印象付けた。エルヴィス・プレスリーを慕うミュージシャンに、ドイツのオペラ歌手ペーター・ホフマンらがいる。 1977年にジミー・カーター大統領は「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。彼の音楽とその個性は白人のカントリー音楽と、黒人のリズム・アンド・ブルースのスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった。」と語った。ジェームズ・ブラウンは「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」という言葉を書き残している。 アメリカ内務省のゲイル・ノートン長官は2006年3月27日、プレスリーが約20年間を過ごした、テネシー州メンフィスの邸宅「グレイスランド」を国の国定史跡に認定した。認定の式典は一般公開で行われ、娘であるリサ・マリー・プレスリーも出席した。 交友関係
メンバー等
エピソード
メンフィスグレイスランドの前の通りはエルヴィス・プレスリー・ブールバード(大通り)という。世界中のプレスリーのファン、ファンクラブからの募金のみで運営しているセイント・パウロ・エルヴィス・プレスリー記念病院がある。 主な使用楽器
記録プレスリーの記録には限りがないが、代表的なものや、興味深いものを挙げる。 ギネス・ワールド・レコーズ編
統計、評論家などによる投票
雑誌や一般による投票
ディスコグラフィ:アルバム→詳細は「エルヴィス・プレスリーのアルバム一覧」を参照
公式リリース音源の数は800曲を超える。 Follow That Dreamレーベルプレスリーがそのキャリアにおいて発表した曲の未発表テイクが数多く存在するが、プライベート録音を含め、すべての残されたプレスリーの音源を聴きたいというファンの要望に応えるべく立ち上げられたのが、主演映画のタイトルから引用したFollow That Dreamレーベルである。 このレーベルのアルバムは限定生産され、世界中のファンクラブに優先的に流通させるので一般のCDショップ等に出回りにくい。1999年に第一弾 Barbank'68(1968年のNBC-TVスペシャルのリハーサルの模様を収録)がリリースされた。以後、定期的に貴重な音源が次々とリリースされている。わずかだが一つの曲のすべてのテイクを聴くことが出来たり、コンサートアルバムはプレスリーのコンサートを体験することが出来なかったファンにも追体験出来るような内容になっている。 オリジナルアルバムライブ・アルバム
シングル・ディスコグラフィー→詳細は「エルヴィス・プレスリーのシングル一覧」を参照
プレスリーが1977年に亡くなるまでの21年間に、146曲が100位以内に、112曲が40位以内に、72曲が20位以内に、38曲が10位以内にチャートインした。1962年4月21日から2週連続で1位を獲得した「グッド・ラック・チャーム」を最後にプレスリーは1位から遠ざかったが、1969年11月1日、「サスピシャス・マインド」が1位を獲得し、「プレスリーの復活」と言われた。1972年10月28日には「バーニング・ラヴ」が2位まで上り詰めたが、チャック・ベリーの「マイ・ディンガリング」(1972年10月21日から2週連続1位)に阻止された。 1970年代においてはプレスリーは一度も1位を取ることはなかったが、2002年にリメイクされた「ア・リトル・レス・カンヴァセーション」は世界24カ国でナンバー1を取得した。アメリカにおいて1位を獲得したシングルの数は18作〈計79週間〉で、ビートルズの20作〈計59週間〉、マライア・キャリーの19作〈計82週間〉に次ぐ歴代3位の記録となっている(Billboard誌に準拠)。 ロックン・ロール(1986年殿堂入り)、カントリー(1998年殿堂入り)、ゴスペル・ミュージック(2001年殿堂入り)の3部門のいずれも殿堂入りした初のアーティストとなった。また、今のところ楽曲においては3回(通算5回)グラミー賞を受賞しているが、3回ともロック部門ではなくゴスペル部門においての受賞であり、プレスリーは終生この事を誇りにした。 全米ナンバー1獲得曲ナンバー1ヒットは全18曲、合計79週間である。曲数はビートルズ、マライア・キャリーに次ぐ歴代3位である。週間数に関してはマライア・キャリーに次ぐ歴代2位である。(en:List of Billboard Hot 100 chart achievements and milestones#Most cumulative weeks at number one)
主なシングル
その他の楽曲
フィルモグラフィ映画は駄作がほとんどである。ただし「オン・ステージ」「オン・ツアー」の2作のライブ映画だけは、内容が充実している。32本の映画出演作(ドキュメンタリーを除く)全てが主役。
プレスリーを扱った作品プレスリー本人が描かれた作品
プレスリーに関連した作品
日本語文献
脚注注釈出典
関連項目
外部リンク |
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