塩屋翼
塩屋 翼(しおや よく、1958年6月24日[1][6][9] - )は、日本の声優、俳優、音響監督。鹿児島県出身[6][注 3]。神奈川県川崎市育ち[4]。ラクーンドッグ所属[7]。 兄と妹がいる[3][5][16]。兄は声優の塩屋浩三[2][9][10][11]。 経歴生い立ち鹿児島県で誕生し[6]、小学校入学前の5歳の頃より神奈川県川崎市育ち[4][5][17]。 キャリア声優・俳優として1966年、小学2年生の8歳の時、劇団ひまわり[7]に兄と一緒に入団[3][4][14]。子役としてテレビドラマ『記念樹』で俳優デビュー[5]。当初は中学かその辺で「やめようか」と思っていたが、「やめるか」と聞かれた際に「いやだ」と言い、結局やめないでずっと来てしまったという[15]。俳優として映画やテレビドラマに出演していた[15]が、小学6年生か中学1年生の頃、海外映画『ユリシーズ』の吹替えで声優デビュー[4][14]。当時は母親にスタジオまで連れて来てもらって、セリフを全部暗記して、絵を見ながらアテレコに臨んでいたという[14][15]。その後、「やったことある」ということで、生の芝居とアテレコの仕事が半分ぐらいずつになったという[15][5]。中学2年生の時にオーディションを受けて合格し、アニメでの初めてのメインキャラクターでもあるテレビアニメ『海のトリトン』の主役トリトンでアニメデビュー[11][13][14][15][5][18]。『海のトリトン』とほぼ同時期に『超人バロム・1』で14話と34話にゲスト出演したりしていた[11]。しかし少し身体的なコンプレックスを持っていたことから、『海のトリトン』をきっかけに声優のほうに移行していったという[11]。その頃はアルバイトのような気でおり、将来のことを考えたりはしていなかったという[5]。小さいうちから声の仕事がメインになってしまったことから、夕方から録りに行っていたが、1日3〜4時間で済んでいたという[19]。10代の時はほとんど声の仕事で過ごしたことから、学校には比較的スムーズに行けたという[19]。日本俳優連合の所属メンバーでは当時最年少だった[4]。攻玉社高等学校卒業後[20]は、舞台にも精力的に活動。初舞台は中野公会堂公演の『天狗女房』[5]。高校時代は「何になりたい」というのもなく、「このまま卒業しても、あまりいい大学へも入れないだろう」と思い、1982年時点ではそのまま仕事を続けていたという[5]。夢だと思っていたことから「役者になれる」とは思っていなかったという[5]。モダンバレエの稽古にも通い始めて、演劇の勉強も始める[4]。 自称「中途はんぱ人間」であり、1981年時点では音楽が好きで作詞・作曲をし、自分の歌のように製作しようと子供の頃していたピアノを再びやり始めていた[3]。しかし「人前で発表したい」、「プロになりたい」といった気はなかったという[3]。高校時代にはギターに夢中になっていたが、結局やめており、所属していた放送部も中途半端に終わっていたという[3]。 太陽プロモーション[21]、JKプランニング[4][22]、劇団櫂[4]、青二プロダクション[7]、ウイットプロモーション[10]、九プロダクション[1][12]、プロ・フィット(声のみ所属)[23][24]などを経て現在はラクーンドッグに所属[7][25][26]。音響監督としてはオムニバスプロモーションを経てサウンド・ウィングに所属[27]。 『科学忍者隊ガッチャマン』ではシリーズを通して「つばくろの甚平」役として出演[4][14][5][28]。放映当時はまだ14歳であり、2年続いた第1シリーズの終盤から声変わりが始まって徐々に大人の声になっていった。その後、1980年代から1990年代にかけて主役・脇役を問わずアニメから吹き替えまで幅広く活動した。 その他の活動落語の公演をしていた時期があり、噺家として春空亭つばさの名前を持つ[注 4]。 2000年代以降は音響監督やプロ・フィット声優養成所の講師[29]、現在はラクーンドッグ声優養成所の講師としても活動している[30]。それに伴い声優としての活動は減少したが、『伝説巨神イデオン』のユウキ・コスモ、『聖闘士星矢』の海魔女のソレントなど過去に出演した役を演じたり、音響演出を担当した作品で端役やエキストラとして出演することもある。 現在まで2010年代からは『ジョジョの奇妙な冒険』のウィル・A・ツェペリ役など、散発的ながらも新規の役で出演するようになっている。 2017年1月9日、テレビ朝日にて放映された『人気声優200人が本気で選んだ!声優総選挙!3時間SP』で第19位に選ばれる[31]。 人物「もし役者になっていなかったら教師」と語っている[3]。特に憧れていたことはなかったが、小学校時代には教師になりたかったという[15]。 中学時代は卓球部に半年ぐらい所属、高校時代は放送部に1年ぐらい所属し、学校放送でディスクジョッキーをしていた[3][5]。中学1年生の時に弁論大会に出場していた[5]。高校2年生の時は生徒会の役員をしていた[5]。 特技は美味しい居酒屋を鼻で嗅ぎ分ける[6]。趣味はゴルフ[13]、落語[6]。 好きな言葉は「若き日の旅なくして人生の物語なし」[3]。 低音の魅力に憧れており、好きな声優に蟹江栄司、銀河万丈を挙げている[5]。 1978年時点で声優の中でよく話すのは、神谷明、森功至、石丸博也などを挙げている[15]。 特色声種はソフトで高くもなく、低くもない[22][28]。中学3年生の時に声変わりしたという[11]。 役柄としては、少年役、コメディリリーフ的な役が多い[10][14]。 出演作についてテレビアニメ『海のトリトン』のトリトン、『伝説巨神イデオン』のユウキ・コスモの二つの作品で主役を演じ、『ブレンパワード』にも出演するなど多くの富野由悠季の作品に出演している[11]。 『科学忍者隊ガッチャマン』を思い出に残っている仕事として挙げている[3]。共演者のささきいさお、森功至は私生活でも色々お世話になっていたため、一番思い出に残っているという[3]。 アニメデビューの『海のトリトン』の時は、オーディションに合格しても「ああ受かったんだな、仕事をもらったんだな」という意識しかなく、「ずっと続けて行く」というふうにも考えていなかった[15]。とにかく一生懸命で、絵やキャラクターなどの方はあまり見ていなかった[15]。周囲は塩屋よりもひと回りもふた回りも年長の人物ばかりだったが、色々教えてもらい、それらを吸収していくうちに段々声の仕事が主になったという[15]。『海のトリトン』の主役に塩屋を抜擢したのは、当時アフレコの現場で演出をしていた録音監督の浦上靖夫であったと語る[11]。浦上との出会いをきっかけに、更に色々なベテラン声優とも会うことができ、それと同時に『科学忍者隊ガッチャマン』にも出会えたことから、非常に幸運なスタートを切ったと語る[11]。『海のトリトン』に関しては画がなく、何も見ないで収録することが多かったという[11]。当時は中学生だったことから、放課後の午後4時頃から始めて夜の10時頃まで行い、1話平均で6時間ぐらい費やしたが、浦上の演出に鍛えられたところがあるという[11]。浦上の場合、「画に合わせるという基本的なものと同時に、気持ちで喋ってほしい」と述べており、その頃までは一生懸命やれば何事も済まされるようなところもあったが、浦上はそういうものでは満足できなかったという[11]。浦上が要求していたのは、「SF作品ですからトリトンのような人は現実にはあり得ないのですが、想像力を働かせて、実際にトリトンの気持ちになって演じきってほしい」とのことで、キャラクターの気持ちになりきるという演じ方があるということはその時に初めて知ったという[11]。当時は変声期の前であり、ボーイソプラノを出すことが出来たという[11]。男性の子役がアニメの主役を演じることは、当時は少し珍しく、それまで少年役は女性声優の独擅場になっており、「少年役を演じた男性声優の第一号」という[11]。小原乃梨子とは2人で最後までトリトン役を争ったという話をあとで聞いたことがあり、1999年時点で小原に会うと「翼に仕事を取られた」と言われるという[11]。富野は、『海のトリトン』との関連について当時は無知であり、『海のトリトン』に富野が関わっていたというのを知ったのは、大分時間が経ってからだという[11]。 『伝説巨神イデオン』の時は、浦上が独立して設立したAUDIO PLANNING Uに呼ばれて行っていたという[11]。コスモ役のオーディションだということは聞いていたが、1人だけ呼ばれ、そこで初めて富野に会ったという[11]。その時は高い声を作っていた[5]。富野から「君の声を録ってみて聞いたんだけど、もう少しシャープに喋ってもらえないか」と言われ、それを聞いて、「この人も粘る人だ」と思ったという[11]。浦上もそうであったが、塩屋自身も自分が納得いくまで何度でもやりたがるタチだったため、そういう演出をしている人物が好きだったが、富野もそれと似たようなものを感じた[11]。そこで「普段しゃべってる時のでやった方がいい」ということで要求に応えようともう一度録ったところ、最終的には選ばれることになったという[11][5]。コスモ役については、監督からは色々と言われていたが、折半するんだったら、30%塩屋、30%富野、30%浦上と思っていたという[11]。言われるがままにやりつつも、自分なりに悩んだが、結果的には上手い具合に噛み合ったという[11]。コスモ役を演じるにあって難しかった点は「フォルモッサ・シェリル」、「カララ」といった、喋り慣れない言葉が多く、「シェリルさん、カララさん」という具合に併記してあると特に大変であり、苦労したという[11]。SF物とは言いながら、日常の人間の生の心情がそのまま台詞になっていたところが面白く、生活感があり、人間の匂いを強く出す演技を心掛けたという[11]。『伝説巨神イデオン』の放送が終えた時は「一つの大きな仕事を終えたな」という安堵感は余り無かった[11]。しかし約2年間関わっていたこの作品には、一つの征服感のようなものがあったという[11]。 『ブレンパワード』の時は、『伝説巨神イデオン』の頃と比べて変わった点は周囲のメンバーが若くなり、それと出演者の人数が多くなり知らない人物も殆どのため、そういう意味では居心地はあまり良くなかったかも知れないという[11]。富野自身については、毎回立ち会ったり、スタジオでも絵コンテ書いていたりという熱心な姿を見ていたため「変わらず一生懸命やっていらっしゃるのだな」と敬服していた[11]。ただし役の出番が少なかったため、あまり富野からは何も言われず、それが残念であった[11]。声優は初体験という人物たちを多くキャスティングしていたが、本職の声優たちが中心になっているスタジオと余り違いはなかった[11]。1999年時点のスタジオ進行に馴染めないところがあり、フィルムで録っていた頃のマナーや習慣を引きずっていたことから、演出からの申告がない限り、役者が録り直すような事態は考えられなかったという[11]。ビデオ収録であったことから「すいません、32ページの2行目のセリフを録り直してください」ということは嫌で、演出はOKと言っていたが、「どうして録り直さなきゃいけないのか」と思っていたという[11]。 出演太字はメインキャラクター。 テレビアニメ
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