ピノッキオの冒険
![]() ![]() ![]() 『ピノッキオの冒険』(ピノッキオのぼうけん、伊: Le avventure di Pinocchio)は、イタリアの作家・カルロ・コッローディの児童文学作品。Storia di un burattino(「操り人形の物語」)として1881 - 82年、週刊雑誌Giornale per i bambini誌に連載されたものを改題し、1883年に最初の本が出版された。以来、100年以上にわたり読み継がれている著名な作品である。 内容ある日、大工のチリエージャ(サクランボの意。丸くて赤むらさき色の鼻より。英語版ではチェリー)親方は、意志を持って話をする丸太を見つける。そして、そこにジェッペット(ゼペット)じいさんが現れ、丸太を木の人形にし、ピノッキオと名付ける。ところが、このピノッキオは勉強と努力が嫌いで、すぐにうまい話にだまされる。たとえば、話をするコオロギなどの忠告にも耳を貸さず、人形芝居の親方に焼かれそうになったり、キツネと猫にそそのかされて、殺されそうになったりする。終盤に巨大なサメに飲み込まれるが、マグロに助けてもらう。真面目に勉強し働くようになったピノッキオは、最後に夢に現れた妖精によって人間になる。苦難を乗り越えて人間の少年へと変化するまでの逸話が書かれている。 なお、ピノッキオのオリジナルのストーリーは、政治的風刺を、特に法制度の仕組みに対する風刺を含んでいる[1]。 名称ピノッキオ(Pinocchio)のピノ(Pino)は松である[2]。なおイタリアではジュゼッペ(Giuseppe)の愛称でもある[注釈 1]。かつては綴りを英語式に「ピノチオ」と読むことも多かった。現在ではイタリア語式に「ピノッキオ(あるいはピノキオ)」と読むのが一般的である。「ピノチオ」の名前も会社名などに今も使われている。 山崎功からイタリア語の指導を受けていた村山籌子が1932年(昭和7年)1月から11月にかけて雑誌『婦人之友』にて『ピノッキオの冒険』を連載する。これはそれまで日本では英語からの重訳しかなかったものを初めてイタリア語から翻訳したもので、「ピノッキオの冒険」の題名には訳者註が付され、「日本では今迄ピノチオとなつてゐるが、これは誤りである。伊太利語では、ピノッキオと発音する。」と書かれている[3]。 主な日本語訳
回収騒動1976年11月4日、四方八洲男[5]が「オールカラー版 世界の童話」(小学館)を自分の子供に読み聞かせていたところ、作中の「びっこのキツネ」「めくらのネコ」という箇所に気づき、その点を指摘しながら「五体満足で利口な主人公を『期待される子供像』として描いている反面、他の障害を持つキャラクターを社会の落伍者として描いており、差別を拡大助長させる童話であり看過できない」と出版社に抗議した。小学館側はこの抗議を検討し、自社から出版していた5種のピノキオ本のうち4種を「差別的表現があった」と認め回収した。「最新版の『国際版少年少女世界文学全集』については、めくら、びっこ、などの表現は無いので回収しない」旨を告発者の四方に謹告した。しかし四方は「障害者差別出版物を許さない、まず『ピノキオ』を洗う会」を立ち上げて小学館に対し
を要求した。しかし小学館側は国際版の回収には応じられないとして、告発者と対立した。次に告発者はマスメディアに向けてアピールを行い、社会問題へと発展する。さらに図書館を相手取り「差別図書を読ませるな」と啓蒙行動を起こし、当時、日本で出版されていた11社38種のピノキオ本の回収を要求した。12月、図書館問題研究会が検討を行い「図書館の自由」を基に
とする「反論声明」を提出した。強引な告発に対して批判があったが、小学館側の回収についても「安易」だとの批判があった。この騒動に対し「ピノキオ退治は世界の笑いもの」と揶揄(やゆ)する声もあった。[6][要ページ番号](黒人差別をなくす会も参照)。 名古屋市立図書館はこの事件を受けて1979年に「職制判断をさけ全職員で検討する」「広く市民の意見を聞く」「当事者の意見を聞く」の三原則を示した[7][8]。 翻案舞台 テレビドラマ
小説
テレビアニメ
アニメ映画
実写映画
漫画
音楽
ゲーム
脚注注釈出典
外部リンク |
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