錦織一清
錦織 一清(にしきおり かずきよ、1965年5月22日 - )は、日本のダンサー、歌手、俳優、声優、タレント、演出家。愛称は、「ニッキ」(ジャニーズ事務所内では「ニシキ」[3])。 東京都世田谷区に生まれ、江戸川区の下町で育つ。12歳でジャニーズ事務所に入所し、アイドルグループ「少年隊」のリーダーとして『仮面舞踏会』でレコードデビュー。『君だけに』『ABC』『まいったネ 今夜』などのヒット曲を生み、主演のミュージカルショー「PLAYZONE」の公演は23年間続いた。 俳優として東宝ミュージカルをはじめとした数多くの舞台に出演する一方で、演出家としてもキャリアを築き、つかこうへいの芝居からファミリーミュージカルまで幅広い舞台作品の演出を手掛けている。 2020年12月31日にジャニーズ事務所を退所してからは、インディーズレーベルを立ち上げ、音楽活動も本格化させた。2023年からは、パパイヤ鈴木とのダンス・ヴォーカル・ユニット「Funky Diamond 18」としても活動している。 来歴
人物ダンス錦織のダンスについて、多くのダンサーや振付師が分析をしている。その特長は、関節の柔らかさ、体幹の強さにより、動きの一つ一つが大きく、足のスタンスが広いこと。重心が低く、姿勢を保ちながら腰を落として踊る。目線の使い方、キレ、緩急のつけ方などに独特のセンスがあり、グルーヴを感じさせる[注 1][23]。ボビー吉野は、「卓越した身体能力とセンス、表現力の才能を持つうえに、圧倒的な練習量。羽生結弦選手ぐらいの表現ができる才能はある。」と評している[24]。また、東山紀之は、「重力を感じないのよ。あそこまで軽くできる人はなかなかいない。あの軽さを出すのは非常に難しい」[注 2]「あのしなやかさは、日本の人では見たことない」[注 3]と語っている。 錦織のダンスの源流は、アメリカのダンス音楽番組「ソウル・トレイン」で見たソウル、ディスコ・グループ「シャラマー」のジョディ・ワトリーとジェフリー・ダニエル[注 4]。10代のころ、ブレイクダンスを習得するためにジャニー喜多川とニューヨークに行ったが、当時、ストリートダンスを教えるスクールは存在しなかったため、路上で踊っている人に直接声をかけて指導を受けた。その後、坂見誠二に師事し、横浜などのディスコに通ってアンダーグラウンドダンス界でオールドスクールダンスのキャリアを重ねていく[注 5]。パパイヤ鈴木は錦織について、「(ダンサーが言うところの)『ニオイ』を持っている人。ビンテージな感じを出せる人はなかなかいないが、そういうニオイ、オーラを持っているから、(錦織と対面する)若いダンサーたちは、そこに緊張する。」と語っている[注 6]。 アングラ系を愛する一方で、錦織のダンスは幅広い。少年隊のヒット曲でも見られるバレエの要素を含むジャズダンスをはじめ、ミュージカルショーでのパフォーマンスとして、タップ、チャールストン、コンテンポラリー・ダンスなど様々なジャンルを研究し、踊り分けている。少年隊の舞台「PLAYZONE」でのソロダンスナンバーの代表作に、『Replicant,Resistance』(「PLAYZONE'92 さらばDiary」、「PLAYZONE 2001“新世紀"" EMOTION」)、『迷い』(「PLAYZONE2000 THEME PARK」)などがある。また、数々の東宝ミュージカルの舞台に立ち、大地真央(「Lady, Be Good!」、1993年)、涼風真世(「42ND STREET」、1997年、1999年、2000年、2002年)、愛華みれ(「チャーリー・ガール」、2002年)などの元宝塚スターとダンスの共演をしている。 ボードビル「僕の芝居のスタイルは、ボードビリアンタイプ」と自己分析するとおり[注 7]、キートンやチャップリンのような喜劇風の演技を得意とする。また、少年隊の舞台『PLAYZONE』でも、アクロバティックなダンスのほか、ジャグリング、帽子やステッキを使ったダンス、截拳道(ジークンドー)などの武道の型、ものまね、アドリブの寸劇など、多彩な芸を見せた。 ブルース・リーに憧れるあまり、子どもの頃からヌンチャクを振るだけでなく、レプリカを自作している[注 8]。それはあくまでも、映画や舞台の小道具としてのヌンチャクであり、軽量でクッション性があることを旨とする。またそのヌンチャクの振りは、敵と戦う武道ではなく、カメラを意識してよりよく映えるよう独自の振り付けを加えたものである[注 9]。 ジャグリングについては、シルク・ドゥ・ソレイユがサルティンバンコを上演している時期に、そのテントの中で天才ジャグラーの少女に習うなどして3カ月で習得した[注 10]。少年隊ミュージカル『PRAYZONE '98 5night's』や『PLAYZONE '99 Goodbye & Hello 世紀末 新世紀』などで、5個のボールを操るバウンスジャグリング(床でバウンドさせる技)やグローボールを使った暗闇でのパフォーマンスなどを見ることができる。 舞台演出錦織は、エンターテインメントショーを創るということについて、ジャニー喜多川の薫陶を受けて育った。「自分のことだから自分でやるんだよ」というジャニー喜多川の言葉を受け、10代の頃から、楽曲やショーの製作現場でスタッフに交じってアレンジや見せ方のアイディアを出した。その後も長年にわたりジャニー喜多川のアシスタント的な立場で脚本づくりや演出に携わり、その積み重ねが、いまの演出家としての土台になったと振り返っている[25][26]。 また、演出家としては、もう一つのルーツがある。錦織は、高校生の頃、つかこうへいの本を読み、映画『蒲田行進曲』を観て芝居に目覚めた[27]。高校の文化祭では、舞台で『蒲田行進曲』を上演し、このときすでに演出を務めている。その後、33歳で舞台『蒲田行進曲』の主演、倉岡銀四郎役を得て、ついにつかこうへい本人に出会い、「それまで培ってきた自尊心をボキボキにへし折られ」る体験をすることになる[25]。そこからつかに役者として鍛えられ、「生半可に考える表現を壊し、本人に備わっている素材を生かす」芝居を学んだ[5]。40代で、つか本人から「つかこうへいという演出家の二代目を継がせるとしたら錦織だ」[注 11]と"後継指名"されるに至り、つかこうへい亡き後もつかイズムを継承して、数々の作品を手掛ける演出家となった。 作風錦織演出は、歌やダンスが入り、流れのあるレビュー的展開に特徴がある。また、畳みかけるセリフ劇や笑いと涙の人情ものを得意とする。これは、曰く、「西洋の洗練されたエンターテインメントを志向するジャニー喜多川」と「アジア的な熱い情念の芝居のつかこうへい」、この二極的にタイプの異なる二人の師匠を持つことによるもの。錦織は自身について、ジャニー喜多川の教えを受けた者やつかこうへいの弟子は数多いが、この二人をバックグラウンドに併せ持つのは、自分だけであり、このことが、演出家としての自らの個性になっていると自己定義する。また、演出家となった道筋について、「ショービジネスの世界で生きていけるエンターテイナーに育ててくれたのはジャニー喜多川」、「大人にしてくれたのがつかこうへい」と振り返り、自身の作風を「ジャニーさん的なものとつかさん的なものが、僕というフィルターを通してハイブリッドになって出てくる」と表現している [28]。 演出手法錦織は、つかこうへいの手法として知られる「口立て」を継承し、稽古をしながら、その場で役者の個性に合わせてセリフを作り変えていくが [29] [30] 、それに加え、役者が演技に躓き悩むと、すぐにその部分を実際にやってみせる。すべての役を自ら動いて見せることができ、表現方法のアイディアのひとつとして提案する、この「振り立て」とも言える錦織の独特な手法については、七海ひろき [31] や井澤勇貴 [32] などをはじめ、多くの俳優が言及している。 数多くの錦織作品に出演している渋谷天笑は、「(錦織は)どの役も自分でできてしまい、自身が動いて見せてくださる。そういう演出家を僕はあまり知らない」と言い [33] 、藤原紀香は、錦織が稽古中、どの役のどの演技について訊かれても、歌、ダンス、体の見せ方を含め即座に実演で答えると語っている [34] 。 この錦織の手法について、作品の共同制作が多い西寺郷太は、演出家にも様々なタイプがあるなかで、「演者として、ジャグリングも格闘技もコメディも歌も踊りも時代劇も、何もかもできてしまう」錦織の希少性を指摘し、通常、演出家や監督に難しいことを要求されれば「自分でやってみろよ!」と心中で思うこともあろう俳優陣にとって、錦織の演出は脅威なのではないか、と考察する [35] 。 また、錦織は、演出家席に座っていないことでも知られる。久本雅美は、「(稽古中に)ぐるぐる歩き回りながら、いろいろなアイディアをポンポン思いつかれる」 [36] 、藤原紀香は、「通し稽古をしているとサイドから後ろから360度見ている。そういうスタイルの演出家は初めてだった」と語る [37] 。 錦織は自身について、アイディアは車や自転車の運転操作をしていると浮かんでくるタイプであり、脚本を書く際も、自分が動き、喋りながら台詞を作っていくため、人を呼んで口述筆記にしてもらう [38] と説明している。同様に、芝居で演出をつけるにあたって演出家席に座らないことについても、長年役者として、舞台上で先輩俳優の演技を学び、自分の動きを考えてきたため、稽古する役者たちの只中に混じって動き回っている方が演技をイメージしやすいという。またさらに、演出家席は客席側の中央に作られるが、そこは役者の気が集まるところであって、「(そこに向かって)役者が何かを見る目を作っている時に、演出家と目が合うのでは邪魔になる」と、あくまでも演者目線で気遣う姿勢を見せている[36]。 役者の素材を活かすつかイズムの継承として、錦織演出では、役者に役作りをさせず、一人ひとりの個性を活かして作ることを重視する。役者には、その人の持つ素材のままでいてもらい、自らの感情を動かすことで生まれてくる無理のない演じ方を理想としている。錦織は、「演出家ごときが個性を消す権利は持ってない」と言い、役者がそこで望んだ芝居ができないのであれば、その人がそれをしなくても済むよう演出プランの方を変えるだけであり、集められたメンバーの素材で勝ちにいけるゲーム展開を考えるのが商業演劇における演出家の仕事であるとしている [39] [40] 。 この役者の素材を活かす演出については、ふたつの面から説明されている。 ひとつは、30代半ばでつかこうへいと出会って学んだ役者のあり方からくる。かつて、表層的な形で"デ・ニーロ・アプローチ"(ロバート・デ・ニーロ#評価とその後)に傾倒していた錦織だが、つかに鍛えられる中で、自分自身をありのままに解き放つ大切さに気づかされる。表現のテクニックやディテールをどこからか仕入れてくる必要はなく、そこに自分がいればいいのだ、と考えるようになったと振り返っている。また、役者を目指そうとする者には、少なからず、自分そのものを見られたくないという思いがあり、演じることで本来の己に蓋をできると考えるものだと指摘する。しかし、結局のところどんな役でも自分自身の心で表現するしかなく、役の後ろに隠れずに、「怒りや優しさを全部自分の中からほじくり出すことこそ、人間を表現する役者の仕事」であると語っている [41] [5]。 もう一点は、商業演劇の製作期間の短さによるもの。渋谷天笑は、錦織の演出法について、「例えば歩き方や小道具の持ち方が変だったら、ほとんどの演出家は、もっと普通にしろと直そうとするが、(錦織は)それを活かそうとする。普通にやったら面白くないからそのままでいい、それが武器になるという考え方」と証言している。このことについて錦織は、「稽古期間中、その人の癖をなくすための時間はそれほど取れない。だったら逆手に取った方がいい」と説明し [42] 、現在の商業演劇の状況について、稽古にあまり時間をかけられず、芝居を覚える時間が本当に少なくなっていると指摘している [43]。 全員活躍群像劇やレビュー形式の場面展開、劇中の寸劇挿入などにより、登場人物一人ひとりにそれぞれの見せ場を作るのは、錦織独自の大きな特徴であり、こだわりでもある。 この点については、錦織の作・演出舞台PLAYZONE『太陽からの手紙』(2009年)を観たつかこうへいに「主役は一人でないとわかりにくい」と否定されているが、その後も曲げずに、役者全員を活躍させるという姿勢を貫いている [44] 。 錦織は、舞台のアンサンブルキャスト(演劇やミュージカルで、役名のない登場人物)を"その他大勢"のように軽んじる風潮を嫌う。ブロードウェイでは、スウィング(不測の事態に備えて待機する代役)がリスペクトされていることを引いて、「舞台に立っている人みんな、隅から隅まで全員が活躍してほしい」という考えを打ち出し、「でもその分、俺の作る舞台に出る人はちょっとしんどいかもしれない。"その他”が無いからね」 [45] とも語っている。 通常は群像劇等で発揮される「全員活躍」だが、極端な例としては、『毒薬と老嬢』(2022年)で死体を移動させるだけの場面を可笑しみのあるダンスにして、死体役の役者がスポットライトを浴びる見せ場にした [36]。 若手育成錦織は、自分を育ててくれた演劇界への恩返しとして、若い役者の育成に力を入れてきた。それは、ジャニーズ事務所での舞台『PLAYZONE』などを通した後輩に対する立ち位置でもあり、自ら立ち上げたQT「クォリファイング トライアル」プロジェクトを経て、つか芝居の次世代への継承を含めた一貫した取り組みとなっている。 2014年、錦織は、QT「クォリファイング トライアル」プロジェクトを立ち上げる。QTとは、プロゴルフツアーにおけるクォリファイングトーナメント(ツアー本戦へのシード権を持たないプロゴルファーが、シード権を得るために参加する予選会)のもじり。「世間では全く無名の若い役者たちが飛躍する為の夢やチャンスを与えたい、自分を育ててくれた演劇界を活性化したい、恩返しがしたい」との考えから、若手にチャレンジする場を提供するというプロジェクトである [46] 。QTを冠した公演は、『熱海殺人事件』(2014年)、『あゝ同期の桜』(2015年、2016年)、『痛快!人情時代劇 三太 かわら版売り』(2017年)の3作品だが、そこで育った三浦祐介、渋谷天笑、逸見輝羊などの俳優たちが、その後の錦織の作品作りに参加し、支えていくこととなる。 さらにこれと連なるように、2016年には、「★☆北区つかこうへい劇団」を前身とする劇団「★☆北区AKT STAGE」において、若手育成のため半年間に及ぶ劇団内ワークショップを開催し、週3日ペースで講師を務めた [47] 。その後、『初級革命講座飛龍伝/あゝ同期の桜』(2016年)、『寝盗られ宗介』(2017年)、『飛龍伝2022~愛と青春の国会前~』(2022年)と、同劇団の公演で演出を行っている。 また、QTとほぼ同時期に、『JAM TOWN』(2014-2016年)に取り組んだ。この舞台は、2014年の応募者300名を超えるオーディションから始まり、2016年の本公演に向け、日本ではあまり例のないトライアウト公演を行ってダイジェストバージョンを試演し、プレ企画としてライブを開催するなど、足掛け3年の作品作りとなった。これに参加した西寺郷太は、錦織が、オーディションでイチから選んだ若いキャストを時間を掛けながら育てていったことと併せ、西寺に対しても「お前もいつか演出や脚本をやる人間だ」と、自らの知識・経験を惜しげもなく教えてくれたと回想する [48] [49] 。 2024年の『あゝ同期の桜』では、錦織の演出を受けた室将也ら10代から20代の俳優たちが、「一人一人に時間を費やし、目を見て丁寧に教えてくれ、若い子を育てようとする、まるでワークショップのようだった」と振り返っている [50] 。 室は、錦織が何度も「自分が何十年もかけて、しんどい思いをして培った経験を皆に早く与えてあげたい。俺みたいに時間をかけなくてもいい。早く覚えるに越したことはないから」と言うのを聞いている[51]。 錦織は、自分が役者人生で得てきたものはたくさんあるものの、それを得るのに遠回りをして長い時間をかけてしまったと感じているため、自分が育てる若者たちには、自分が数十年かけて得たことを数日と言わず数十分で覚えられるようにとの思いで指導している。よく言われてきた「背中を見て覚えろ」という伝統の連鎖を愚の骨頂であると断じ、「10年はかかる、なんて言われたことを実際10年かけて会得して、新しい別のことをできるようになるのにまた10年もかけてたいら人生終わっちゃう」として否定している。また、そうやって惜しみなく経験を伝えているのは、「舞台をより良いものにしたいから。みんながうまくなってくれれば、この舞台を成功させたい俺の夢がまた一つ叶う。だから、みんなのためでもあり自分のためでもある。」とも語っている [32] [52]。 セット錦織は、ステージが何層にも分かれて変化する機構を持つ青山劇場で少年隊の舞台『PRAYZONE』を長年上演してきた経験から [53] 、『JAM TOWN』や『シャイニングモンスター』、坊っちゃん劇場での作品などで見られるように、舞台の立体的な構造で時間や空間の変化を表現する作品が多い。 その一方で、『あゝ同期の桜』や『サラリーマンナイトフィーバー』など、近年の錦織の自主製作の作品では、舞台上にセットと言えるものがほとんど置かれない。そこへ『PRAYZONE』で学んだという照明を駆使し、何もない舞台上に光で別空間を見せるという作り方をしている [54]。 この錦織の舞台づくりについて、室将也は、「観客の目を役者にそそぐようにして、役者の人間性から伝えられる何かを感じ取ってもらうため、極力セットは作らない。役者は、頼るものがないので、役者の力で魅せなければならない」 [55] 、と解説している。 エピソード
参加ユニットディスコグラフィ→※ 少年隊としての作品については「少年隊#作品」を参照
→※ Funky Diamond 18としての作品については「Funky Diamond 18#ディスコグラフィ」を参照
シングル
アルバム
ボックスセット
ジャニーズ時代のソロ曲CD収録曲
ミュージカル『PLAYZONE』の楽曲
未CD化楽曲
ミュージカル『PLAYZONE』の楽曲
参加作品
出演→※ 少年隊としての活動については「少年隊#出演」を参照
→※ Funky Diamond 18としての活動については「Funky Diamond 18#出演」を参照
テレビドラマ
バラエティ番組
舞台
イベント
映画
Vシネマ
吹き替え
ラジオ
CM
ライブ→※ 少年隊としての「コンサート」については「少年隊#出演」を参照
→※ Funky Diamond 18としてのライブについては「Funky Diamond 18#ライブ・イベント」を参照
作品舞台作品1995年
2009年
2011年
2012年2013年
2014年
2015年
2016年
2017年
2018年
2019年
2020年
2021年
2022年
2023年
2024年
2025年
舞台作品関連の各種コンテンツ
作詞少年隊
Uncle Cinnamon Records
Funky Diamond 18
書籍→※ 少年隊としての出版物については「少年隊#出版物」を参照
著書
雑誌連載
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク公式サイト・SNS・チャンネル
ニッキとかっちゃんねる
Funky Diamond 18
昭和40年男
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