ニーナ・シモン
ニーナ・シモン(Nina Simone/ˈniːnə sɨˈmoʊn/、1933年2月21日 - 2003年4月21日)は、アメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人のジャズ歌手、フォーク、ブルース、R&B、ゴスペル歌手、ピアニスト、公民権活動家、市民運動家である。本名はユニース・キャスリン・ウェイモン (Eunice Kathleen Waymon)。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第29位[1]。 「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第21位[2]。 来歴1933年2月21日にノースカロライナ州トライロンで7人兄弟姉妹の6番目として生まれた。4歳からピアノを弾き始め、彼女の才能にほれ込んだ周囲の援助を得る。クラシック音楽教育で有名なジュリアード音楽院でレッスンを受け、カーティス音楽学校への進学を試みたが断られる[3]。1950年代前半のことであり、黒人であったために差別された可能性がある。 彼女はピアノの講師などで生計を立てようとするが、生活は苦しかった。1954年にはアトランティック・シティのアイリッシュ・バーでピアノを弾くことになる。このバーのオーナーに薦められ歌い始め、やがて名前をニーナと改め、尊敬するフランスの女優のシモーヌ・シニョレに因んで、ニーナ・シモンと名乗った[注釈 1]。1959年に出した「アイ・ラブ・ユー、ポーギー」[注釈 2]がヒットし、やっと音楽活動が順調なものになっていく。彼女の音楽はジャズに限らずフォーク、ブルース、ゴスペル、ポップスなど幅広いジャンルを取り入れた。 1960年代には黒人公民権運動にも参加して精力的な活動を見せた[4]。人種差別主義者によるアラバマ教会爆破事件(1963年)やミシシッピ州の公民権運動家殺害事件(1964年)に抗議し、「ミシシッピ・ゴッダム」(1964年) のシングルを発表。さらに1967年に「自由になりたい」、1969年に「トゥー・ビー・ヤング・ギフティッド・アンド・ブラック」を発表。彼女が作曲した後者は公民権運動のアンセムとして広く歌われた[5]。また1964年に発表した「悲しき願い」は、後にアニマルズ(1965年)やサンタ・エスメラルダ(1977年)に取り上げられた。 1970年、マネージャーだった夫アンドリューと離婚し、娘リサも残してアメリカを出る。しばらくリベリアで音楽とは無縁の生活を送ったが、程なくフランスの音楽フェスティバルに出演した。1958年に録音された「マイ・ベイビー・ジャスト・ケアズ・フォー・ミー」が1982年にイギリスでシングル発表され、1987年にはシャネルのCMに起用。彼女は再び脚光を浴び、オランダでの8公演を成功させて完全復帰を果たした。 1992年、自伝"I Put a Spell on You"を上梓。 双極性障害と闘いながら、2000年代にはフランスに居を構えて活動し続けたが、乳癌との闘病生活の末、2003年4月21日、フランスのカリー=ル=ルエの自宅で死去した。70歳没。 2015年、伝記映画『ニーナ・シモン 魂の歌』(What Happened, Miss Simone?)公開。同年、トリビュートアルバムNina Revisited: A Tribute to Nina Simoneが発表された[6]。 ディスコグラフィベツレヘム・レコード時代 (1957年-1959年)
コルピックス時代 (1959年-1964年)
フィリップス時代 (1964年-1967年)
RCAビクター時代 (1967年-1974年)
ビクター離籍後 (1978年-1993年)
その他
客演
書籍
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia