工藤静香
工藤 静香(くどう しずか、1970年〈昭和45年〉4月14日[3] - )は、日本の歌手、アーティスト、タレント[4]。東京都西多摩郡羽村町(現・羽村市)出身[2]。愛絵理(あえり)名義で楽曲の作詞も行う。 オリコン12年連続TOP10入り、2022年時点でシングル11曲オリコン1位獲得、アルバム4枚1位を獲得している(オリコン調べ)。 夫は俳優、歌手、タレントの木村拓哉。長女はフルート奏者、モデルのCocomi[5]、次女は作曲家、モデルのKōki,[6]。 愛称はしーちゃん、しずちゃん、しーはん(しぃはんの表記揺れあり)。 略歴生い立ち1970年4月14日、埼玉県朝霞市の病院で生まれる。名前の由来は「静御前」から[7]。青森県出身の板前の父と、美容師の母の下、幼少期を青森、および東京都西多摩郡羽村町(現:羽村市)で過ごす。実家は「ラベンダー」というスナックだった[8][9]。村野小鳩幼稚園から町立栄小学校へ入学[7]。劇団「東俳」に所属した。中学3年時に新宿区立四谷第二中学校へ転校[10]。 ミス・セブンティーン〜おニャン子クラブ時代1984年、中学2年生の時に、第3回「ミス・セブンティーンコンテスト」(応募総数は歴代最大18万325人)に出場し、特別賞を受賞した。同コンテストの出場者には、グランプリを受賞した網浜直子、松本典子、最優秀歌唱賞を受賞した渡辺美里、後に同じグループとなる国生さゆり、渡辺満里奈の他、斉藤さおり、藤原理恵などがいた。同年、同コンテスト出身の木村亜希(後の清原亜希)、柴田くに子(後の森丘祥子)と"セブンティーンクラブ"を結成し、翌1985年1月21日にCBSソニーから『ス・キ・ふたりとも!』でレコードデビュー[11]。新人アイドルグループとしてオールスター紅白水泳大会などにも出場した。しかしこのグループは売れず[3]、2枚のシングルを発表した後、解散[注釈 1]。 高校へ進学後の1986年5月23日、ソニー関係者の勧めで出演したフジテレビ系『夕やけニャンニャン』のオーディションコーナー「ザ・スカウト アイドルを探せ!」で合格[12]。おニャン子クラブの会員番号38番となる[13]。既に歌手活動をしていたことが知られたが、突出した玄人っぽさを見せることは無く、クイズ等で見せる「バカキャラ」(自ら「だってあたしバカなんだも〜ん」と発言したこともある[注釈 2])や「ヤンキーキャラ」(バイク・車が大好きと公言など[15])などの三枚目キャラで注目されるようになる。番組でのキャッチフレーズは『いつも元気な三枚目』。おニャン子クラブは学業最優先が原則であったが、工藤はあまり真面目に学校へ通っていなかったことを後に告白している。1986年10月、渡辺満里奈のソロデビュー曲『深呼吸して』で生稲晃子とともに“withおニャン子クラブ”としてバックコーラスを担当[16]。夕やけニャンニャン内での歌唱の他、音楽番組『歌のトップテン』にも出演。徐々に頭角を現す。 1987年5月に発売されたおニャン子のシングル『かたつむりサンバ』ではフロントボーカルに抜擢されるなど[17]、終焉に向かっていたおニャン子クラブの中で人気、知名度を上げていく。また、生稲晃子・斉藤満喜子と共に派生ユニット"うしろ髪ひかれ隊"としての活動も開始[18]。テレビアニメ『ハイスクール!奇面組』の主題歌となったデビュー曲『時の河を越えて』がオリコンチャート週間1位となる[19]。1987年9月20日のおニャン子クラブの解散後も、1988年5月の活動休止[20][21]まで、ソロ活動と並行する形で、うしろ髪ひかれ隊として新譜リリース、テレビ出演、ラジオ、雑誌、グラビア、イメージビデオ・写真集、海外ロケ、地方キャンペーン、コンサートなど、アイドルユニットとして多方面な活動を展開した。 ソロデビュー以降1987年(昭和62年)1987年8月31日の『夕やけニャンニャン』最終回放映日に発売となったシングル『禁断のテレパシー』でソロデビュー[22][23]。オリコン週間1位を記録した。おニャン子クラブ、うしろ髪ひかれ隊、そしてソロと3パターンで首位を獲得する珍しいパターンとなった。硬派でハードな雰囲気を持った、それまでとは全く違うタイプのアイドルとして一気にトップ・アイドルへと駆け上った[24]。アイドル時代の工藤について、担当ディレクターの渡辺有三は「音楽の香りがする子」だと評し[25]、「不思議な子、ミステリアスというコンセプトがあって、その辺のディレクションを大事にしている」と語っている[26]。10月、フジテレビ系ドラマ『おヒマなら来てよネ!』に出演。中山美穂と共演する。また、夕やけニャンニャンの後番組『桃色学園都市宣言!!』の月曜日「河田町工業高校・電気科」[注釈 3]に、レギュラーの女生徒役で出演する[27]。 1988年(昭和63年)1988年1月、フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ(トレンディドラマ)『君の瞳をタイホする!』に出演[28]。歌手活動と並行して女優としても活動していく[29]。3月発売のシングル『抱いてくれたらいいのに』はロッカ・バラードとなり、それまでのハードな雰囲気とは異なった新しいスタイルも見せていく。続く4月からのフジテレビ系ドラマ『熱っぽいの!』では南野陽子と共演し、話題となる[30][31]。6月リリースのシングル『FU-JI-TSU』で2作目のオリコン1位を獲得[32]。7月、TBS系ドラマ『時間ですよたびたび』に出演[33]。とんねるずと共演する。同月リリースのスタジオ・アルバム『静香』がオリコンアルバムチャート1位を獲得[34]。また、初のソロ・コンサートツアー「静香 はじめの一歩」を開催[35]。 カネボウ化粧品の秋のキャンペーンガールに起用され[36]、CMソングとなった『MUGO・ん…色っぽい』がオリコン1位となる[37]。50万枚以上のセールスを記録し、1988年のオリコンシングル年間ランキングでも女性アーティストではトップの6位となる大ヒット曲となった[38][注釈 4]。TBS系『ザ・ベストテン』でも自身初の1位を獲得[39]。11週連続(7→2→①→①→2→2→①→2→2→6→10)ランクインし[40]、同年の年間ランキングでも6位に入った。おニャン子クラブ関連の曲もしくはおニャン子クラブ出身者の曲で、同番組で第1位を獲得したのは工藤ただ一人である[注釈 5]。 10月、フジテレビ系月9枠ドラマで"君シリーズ"二作目となる『君が嘘をついた』に出演[41][42]。同月、初のソロDJラジオ番組『工藤静香 YES IT'S YOU』放送開始[43]。また、ロッテ『V.I.Pチョコレート』及び『アーモンドプラリーネ』のCFに起用される[44]。11月リリースのベスト・アルバム『gradation』は60万枚のセールスを記録した[45]。12月、NHK紅白歌合戦に初出場。以降、1994年まで7年連続で出場する。1988年のシングル売上枚数は105万枚と、光GENJI、南野陽子に次ぐ第3位となった[46]。 1989年(昭和64年/平成元年)1989年、『恋一夜』『嵐の素顔』『黄砂に吹かれて』と50万枚以上の大ヒットを連発し、1989年のオリコンシングル年間ランキング上位10曲の中に3曲全てが入った[注釈 6]。特に『黄砂に吹かれて』は、オリコン6週連続1位の記録を持っている[47]。ヒット曲を連発し、お茶の間のアイドルとして圧倒的な人気を獲得した[48][49]。1989年のシングルセールスではWinkに次ぐ第2位、アーティストトータルセールスでも松任谷由実に次ぐ第2位を記録。アルバム部門でも松任谷由実、美空ひばり、久保田利伸、中森明菜に次ぐ第5位となる[50]。聞いた瞬間に工藤と分かる独特の声質は説得力・インパクトがあり、オリコン誌のベスト・ヴォーカリスト部門でも1位となった[51]。おニャン子クラブのイメージを払拭し独自の音楽を作り上げ、80年代後半を代表するシンガーとなった[52]。また、当時最も活躍していた女性アイドル4人(工藤静香、中山美穂、南野陽子、浅香唯)はアイドル四天王と呼ばれていた[53][54][55][56][注釈 7]。 別冊宝島の調査によると、1980年代のシングル総売上は年間ベスト50位以内のものに限っても254.6万枚と、当時の女性アイドルでは中森明菜、松田聖子、小泉今日子に次ぐ4位。年間ベスト50位以内ランクイン曲数は6曲と当時の女性アイドル中6位であった[57]。『ザ・ベストテン』での1位獲得記録は14回で歴代9位。女性歌手では中森明菜、松田聖子に次ぐ第3位となっている[58]。 1989年10月リリースのミニアルバム『カレリア』では、「愛絵理」名義で作詞をする。以降も作詞の際はこの名前を使用。「愛絵理」は両親が命名の際に第1候補として考えていた名前である[要出典]。 1990年代1990年1月リリースの『くちびるから媚薬』がオリコン週間チャート1位となる[59]。同月スタートのフジテレビ系月9枠ドラマ『世界で一番君が好き!』に出演。浅野温子と共演する。三上博史とは3度目の共演となった[60][61]。4月リリースのスタジオ・アルバム『rosette』[62]及び5月リリースのシングル『千流の雫』もそれぞれオリコン1位を獲得[63]。歌手・タレントとして若者のみならず、OLや熟年層など幅広い層から広範な支持を得た[64][65]。9月リリースのシングル『私について』は当時日本中で特大ヒットしていた『おどるポンポコリン』を抑えてオリコン1位となり[66]、シングル8作連続オリコン1位を記録した[67]。 1991年7月リリースのとんねるずのアルバム『みのもんたの逆襲』収録「You can do it」にボーカル参加。同年10月、フジテレビ系ドラマ『なんだら まんだら』に出演。シングル『メタモルフォーゼ』が番組主題歌となる[68]。工藤のシングル曲で連続テレビドラマのテーマソングに使用されるのは初めてのこととなった。 1993年1月、フジテレビ系月9枠ドラマ『あの日に帰りたい』に出演。菊池桃子と姉妹役で共演する[69]。番組主題歌の『慟哭』は、93.9万枚と自身のシングルで最大のセールスを記録する代表曲となった[67]。同年6月、初の日本国外での公演(台灣台北、香港 シンガポール ) 『RISE ME TOUR』を開催。台湾公演では1万人の観客が集まり、香港公演では現地マスコミが40社以上も集まり、数百人の現地ファンに囲まれる熱狂ぶりであった[70]。 1994年3月10日、長期休暇を利用してYOSHIKIのハリウッドの邸宅に滞在していた工藤は、YOSHIKIのスタッフも交えて一緒に日本料理レストランでかなりの量のアルコールを摂取し、店から注意されるほど盛り上がった後、夜中午前1時過ぎ、同じく泥酔状態のYOSHIKIの運転するフェラーリに同乗した。ロサンゼルスのサンセット大通りをビバリーヒルズ方面に走行中、クラクションを鳴らしながら蛇行運転・煽り運転していたところを警察に停められ、YOSHIKIは飲酒運転で現行犯逮捕された。この事件が日本のマスコミに伝わったことにより、二人の交際が発覚した[71]。 1994年3月20日に発売されたシングル「Blue Rose」ではソロデビューから全ての楽曲(本人作曲を除く)を提供していた後藤次利と離れ、セルフプロデュースを展開。作詞はほとんど本人が担当し、都志見隆、松本俊明等の作曲家が参加。 1995年、所属事務所から独立し、個人事務所「Purple.INC」を設立。 1996年、ドラマ『ゆずれない夜』に出演。主題歌の『激情』は、脚本を読んだ工藤が「これは中島みゆきさんに(曲を)作っていただきたい」と思い直々に手紙を書き依頼。中島から詞・曲共に楽曲提供を受けた初作品である。 1997年、バラエティ番組『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』の企画として石橋貴明とユニット「Little Kiss」を結成してシングル「A.S.A.P.」を発売。音楽番組で歌唱中に実際にキスするパフォーマンスをした。 1998年、愛絵理名義で平家みちよに作詞提供。 結婚〜現在2000年12月5日、当時SMAPのメンバーとして活躍していた木村拓哉と結婚[72]。2001年5月に長女・心美(ここみ、Cocomi)、2003年2月に次女・光希(みつき、Kōki,)を出産[6]。 2000年から2002年まで、YOSHIKIが主宰するレコード会社「エクスタシーレコード」に所属。 2004年、ラスベガスにて自身がデザイン・プロデュースする宝飾ブランド「TREASURE IIII」を発表[注釈 8]。日本でなく海外で発表したのは、「工藤静香」の名前のみが注目されデザインが適切に評価されないことを避けるためであった。 2005年、出産と育児に重きをおいて音楽活動からは遠ざかっていたが、2月16日におよそ3年ぶりのシングル「Lotus〜生まれし花〜」を発売。これを機に、古巣であるレコード会社・ポニーキャニオンに復帰した。 2007年5月23日、「雨夜の月に」をリリース。「Lotus〜生まれし花〜」以来、久々に自身による作詞のシングル曲となった(フジテレビ系ドラマ『麗わしき鬼』主題歌にもなった)。8月31日には、ソロ・デビュー20周年を迎えた。それを記念してベストアルバム『Shizuka Kudo 20th Anniversary the Best』、10枚組DVD『Shizuka Kudo THE LIVE DVD COMPLETE BOX』(1988年 - 1999年のライヴ映像の集成)を発売し、東京と大阪でライヴを開催。本人が気に入っているにしおかすみこのモノマネや、観客のリクエストに答えて「かたつむりサンバ」の一節を披露する場面がテレビで報じられた。東京ライヴの模様のダイジェストは、シングルのカップリング曲を集めた作品集『20th Anniversary B-side collection』(2008年3月5日)の初回限定生産盤の付属DVDに収録されている。 2010年9月2日に第95回「二科展」絵画部で自身が描いた絵画『瞳の奥』が特選受賞。絵画の師として原良次に長年師事しており、絵画の才能は1990年より10年連続で「入選」を獲得、育児期間をおいて2006年より2010年まで5年連続「入選」に選ばれているが「特選」受賞は初めて[73]。「特選」に入ると二科会(実行団体)「会友」への推薦を受けられる。 ソロ・デビュー25周年にあたる2012年には、4月21日から5月27日まで青森県立郷土館において絵画個展「あふれる感情 工藤静香展」が開催された。青森は、工藤の父が旧蟹田町(現外ヶ浜町)出身という所縁がある。同年10月、4年ぶりの新曲となる「キミがくれたもの」を発売[注釈 9]。同曲は、絢香が初めて他の歌手に提供した作品である。同時に、廃盤となっている3作品(『ミステリアス』『静香』『JOY』)を含むポニーキャニオン発売のオリジナル・アルバム全15作品が、CD BOX『SHIZUKA KUDO ORIGINAL ALBUM COLLECTION』として発売された。また、同年11月には東京と大阪で25周年記念ライヴを開催、翌年1月に東京公演がWOWOWで放送された[注釈 10]。 2013年、アクセサリーやオーガニック食品などを扱うネット通信販売「Mes petites choses」[1]をオープン。 2016年、第101回二科展にて「心模様A」(F80号)、「心模様B」(F80号)の2作品が入選。今回で20回目の入選を果たし、芸能人では初めて会友推挙に選出される[74]。 2017年、ソロ・デビュー30周年を迎える。それを記念して、秋よりおよそ数年振りとなる全国ツアーの開催・デビュー日にあたる8月31日に2005年にリリースされた『月影』以来、約12年半振りとなるオリジナル・アルバム『凛』を発売する事も決定した。 2022年、GQ Japanの企画で愛車遍歴を公開。ポルシェを3台乗り継ぎ、人生初のフェラーリ(F355)を新車で購入。こだわりの内装は特注で、パープル[75]。 人物
中島みゆきとの関わり1988年にリリースしたシングル、「FU-JI-TSU」を皮切りに中島みゆきより多くの詞の提供を受け、それらからヒット作が多く生まれている。なお、中島はこれまでに40人を超える歌手に104作もの曲や詞を提供しているが、工藤への提供作品は2割強にあたる24作(最新作は2021年12月発売の配信シングルの「島より」)を占めており、最多である(これに次ぐのは研ナオコへの15作と、柏原芳恵への4作。詞・曲共に提供した数では研ナオコへの15作が最多)。 ソロデビューした当時、中島みゆきを担当していた渡辺有三ディレクター(ポニーキャニオン所属。当時中島もキャニオン所属だった)が工藤を兼任することになったことと、デビュー前に工藤が渡辺より「中島みゆきと松任谷由実と竹内まりやなら誰が一番好き?」と聞かれ、中島みゆきと答えたことから縁が出来たとされる(それ以前より中島の曲に影響されたともいわれている)[82]。工藤自身「中島みゆきさんほど憧れる人はいない」と語っている。工藤が中島と初対面したのは20歳頃で、音楽雑誌に掲載された対談であった。工藤は、そのときの印象を「すっごく華奢な人だなって」「なんか地面から浮いているイメージ」と語っている。 デビューから工藤のバックバンドを務めていたミュージシャンは、ほとんどが中島みゆきのバックバンドを務めており、そして当時工藤の曲のほとんどを作っていた後藤次利も、中島とはかつてバックバンドだけでなく、編曲やプロデューサーとして組んでいたミュージシャン仲間の一人でもあった。 1996年11月7日に発売されたシングル「激情」より、それまで詞のみの提供だった中島が詞だけではなく、曲も提供するようになり、編曲も瀬尾一三が担当している。 2008年には、ソロデビュー20周年記念の締めくくりとして、8月に中島の曲のみをカヴァーしたアルバム『MY PRECIOUS -Shizuka sings songs of Miyuki-』と、11月に新曲シングル『NIGHT WING/雪傘』を発表した。 2015年2月に、後藤次利・中島と実に22年ぶりの楽曲制作をすることになり、中島作詞・後藤作曲の曲を収めたアルバム『My Treasure Best -中島みゆき×後藤次利コレクション-』を発表した。 2021年3月に、前述の「MY PRECIOUS」以来となる中島の楽曲カヴァーアルバム『青い炎』を発表、同年12月には前述の『NIGHT WING/雪傘』以来となる配信シングル『島より』を発表した。 ディスコグラフィ→うしろ髪ひかれ隊の作品については「うしろ髪ひかれ隊#ディスコグラフィ」を参照
シングル
企画シングル
オリジナル・アルバム
ベスト・アルバム
CDボックス
カバー・アルバム
トリビュート・アルバム
非公認作品
ライヴ映像作品
ビデオ・クリップ集
工藤静香の曲をカバーした主な歌手
その他倖田來未、鈴木亜美、今井絵理子などは、オーディションの曲に工藤静香の曲を歌っている。 出演NHK紅白歌合戦出場歴
映画
テレビドラマ
バラエティ
音楽番組
ラジオ
CM
アニメーション
吹き替え
脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク
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