清川 (福岡市)
地理福岡市の「都心部」とされる中央区天神等の南東約1.8キロメートル、中央区の南東端、福岡県道602号後野福岡線(日赤通り)の東側に位置する。北西で住吉通りを挟んで 河川清川の北東側に次の河川の河口が横断している[7]。 都市計画等清川を含む地区の都市計画における位置づけについては、2012年(平成24年)12月21日に策定された『第9次福岡市基本計画』[8][注釈 1]の「都市空間構想図」において、「都心部」[注釈 2]に含まれている。都心部のなかでも特に天神・渡辺通地区、博多駅周辺地区、ウォーターフロント地区(博多ふ頭及び中央ふ頭)の3地区が都心部の核とされており、清川を含む地区は天神・渡辺通地区の南に位置する。都市計画に関しては、「福岡市都市計画マスタープラン」[10]において定められた方針については次のとおりである。環境資源に関しては、那珂川の河川沿いが散策・憩いの場となるとともに、緑と広がりのある景観が連続したゆとりと潤いのある水辺空間として「河川緑地軸」に位置付けられている。交通ネットワークに関しては、都市の骨格となる福岡県道602号後野福岡線(日赤通り)及び福岡県道555号桧原比恵線(百年橋通り)の沿道や幹線道路である福岡市道博多駅草ヶ江線(住吉通り)の沿道は、商業、業務、サービス施設や中高層住宅などが連続した「都市軸」や「沿道軸」に位置付けられている。土地利用については、全域が住宅を中心に都心機能を支援する業務施設、商業施設が共存する「複合市街地ゾーン」に位置付けられ、職住が調和した複合市街地づくりと良好な街並みの形成などがまちづくりの視点とされている。今後の課題については、清川のほぼ全域が太平洋戦争の後に進められた戦災復興都市計画による土地区画整理事業の施工地区から外れ、古くから市街地が形成されている地区であり、幅員4メートル未満の狭隘道路が多く、また、三丁目の一部に建築後30年以上の木造住宅も多いため、災害時の安全性などが懸念されている。用途地域については、清川の全域が商業地域に指定されている[11]。 語源地名の清川は北東側を流れる那珂川に由来すると考えられている[4]。 歴史
江戸時代から博多の花街は現在の博多区下呉服町にあり、京都の万里小路の柳町に倣い「柳町」と呼ばれて栄えてきた。しかし、1909年(明治42年)に福岡医科大学(現・九州大学医学部)の設置が決定し、柳町の遊廓は渡辺與八郎の尽力で当時「住吉村高畑」と呼ばれていたこの地に移転、「新柳町」として新たな歴史を歩み始める[12][13][14]。 「新柳町」はその後、長崎の丸山、熊本の二本木と並ぶ大きな花街として栄えたが、1945年(昭和20年)の福岡大空襲で町の半分が焼失した。戦後、再び赤線として再興したが、1958年(昭和33年)の売春防止法施行により、その歴史に幕を閉じた。現在も往時の全盛の面影が垣間見える建物がいくつか残っている。 [15] 町域の変遷
人口清川一丁目から三丁目までについて人口の推移を福岡市の住民基本台帳(公称町別)[2]に基づき示す(単位:人)。集計時点は各年9月末現在である。
交通道路主な幹線道路は次の通り。 県道市道市道のうち主な幹線道路は次の通り。
鉄道鉄道については、町域の北方に福岡市交通局が運営する地下鉄の福岡市地下鉄七隈線が通っており、町外ではあるが、最寄りの駅は次のとおりである。 また町域の西方に西日本鉄道の西鉄天神大牟田線が通っており、町外ではあるが、最寄りの駅は次のとおりである。
バスバスについては、西日本鉄道株式会社が運営する西鉄バスが近くを運行しており、一部町外も含むが、次の停留所がある[19]。 主な施設公共・公益施設
商業施設宿泊施設その他の施設学校公立の小中学校は町内にはないが、校区については、小学校区、中学校区についてそれぞれ次の学校の校区に属する[26]。 公立の小学校
公立の中学校
名所・旧跡
脚注注釈
出典
関連項目 |
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