ワフー・マクダニエル
ワフー・マクダニエル( "Chief" Wahoo McDaniel、本名:Edward Hugh McDaniel、1938年6月19日 - 2002年4月18日[2][3])は、アメリカ合衆国のプロレスラー、アメリカンフットボール選手。オクラホマ州バーニス出身のチョクトー・チカソー族インディアン[4]。死亡日は4月16日ともされる[4]。 プロレスラーとしての現役選手時代は、羽飾りのコスチュームや得意技のトマホーク・チョップなど、自身の出自であるインディアンのスタイルで活躍[4][5]。ラフファイトに強いベビーフェイスとして絶大な人気を誇った[6]。日本では「狼酋長」の異名を持つ[5]。 来歴キャリア初期学生時代からレスリングとアメリカンフットボールを両立させながら活躍[7]。オクラホマ大学を経て、1960年にAFLのヒューストン・オイラーズ(現:テネシー・タイタンズ)にラインバッカーとして入団[7][8]。フットボールと並行してドリー・ファンク・シニアからレスリングのトレーニングを受け、1961年にプロレスラーとしてデビュー[3]。以降、1968年までAFLのオフシーズンにプロレスの試合を行うという二足のわらじで活動する[9]。また、1966年のマイアミ・ドルフィンズ創設時のメンバーでもある[8]。 1965年のオフシーズンには、1月末から7月末にかけて半年間WWWFに出場して、ワルドー・フォン・エリック、カウボーイ・ビル・ワット、ゴリラ・モンスーン、ジン・キニスキーなどの強豪ヒールと対戦[10]。WWWF世界ヘビー級王者のブルーノ・サンマルチノともタッグを組み、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンではボリス・マレンコやドクター・ジェリー・グラハムから勝利を収めた[11]。 1969年よりプロレスに専念するようになり、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス州ダラス地区を主戦場に活動。NWAテキサス・ヘビー級王座を争ったジョニー・バレンタインをはじめ、キラー・コワルスキー、キラー・カール・コックス、バロン・フォン・ラシク、ブル・ラモス、トール・タナカ、ヒール時代のダスティ・ローデスらと抗争を展開する[12][13]。タッグでは黒人のサンダーボルト・パターソンやイタリア人のトニー・パリシとのマイノリティ同士のチームで活躍、1970年にはロサンゼルスからテキサスに転戦してきたミル・マスカラスとも共闘した[14]。同年3月3日にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、60分時間切れ引き分けの死闘を演じている[14][15]。 1970年代1972年よりAWAを主戦場に、ブラックジャック・ランザ、クリス・マルコフ、ラリー・ヘニング、ラーズ・アンダーソン、テキサス・アウトローズ、イワン・コロフらと対戦[16][17]。同年11月から始まったスーパースター・ビリー・グラハムとの抗争劇はAWAのドル箱カードとなり、得意のインディアン・ストラップ・マッチでも雌雄を決した[18]。ビル・ロビンソンやクラッシャー・リソワスキー、ペドロ・モラレス、ドクターXらをパートナーに、ニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスが保持していたAWA世界タッグ王座にも再三挑戦している[19]。 1973年11月、AWAとの提携ルートで国際プロレスに初来日[20]。11月9日に和歌山にて、ストロング小林を破りIWA世界ヘビー級王座を獲得する[21]。14日の長野でのリターン・マッチでは引き分けで防衛に成功、30日に後楽園ホールにて小林に奪還されたものの、小林の連続防衛記録を25回でストップさせた[22]。シリーズ中はAWAでの戦友レッド・バスチェンと組んでラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座にも挑戦、草津を相手にケージ・マッチ形式でのインディアン・ストラップ・マッチも行った[23]。 1974年よりジム・クロケット・ジュニアの主宰するノースカロライナのミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングに進出して、テキサス時代の仇敵ジョニー・バレンタインとの遺恨試合を再開。ブラックジャック・マリガンやアンジェロ・モスカ、そして同時期にAWAから転戦してきたリック・フレアーとも抗争を繰り広げ、1975年から翌年にかけては、バレンタインから奪取したNWAミッドアトランティック・ヘビー級王座をフレアーと争った[24]。タッグではポール・ジョーンズやルーファス・ジョーンズをパートナーに、ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンのミネソタ・レッキング・クルーからミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を奪取している[25]。 1976年2月、NWAルートで全日本プロレスに初参戦、3月8日に愛知県体育館にてジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦した[26]。以降も全日本プロレスのトップ外国人の一人として度々来日、1977年10月の再来日では、10月3日に同じく愛知県体育館でジャンボ鶴田のユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座に挑戦している[27]。1979年11月開幕の世界最強タッグ決定リーグ戦ではフランク・ヒルとのインディアン・コンビで出場[28]。ヒルが狙い打ちにされ戦績は振るわなかったものの、アブドーラ・ザ・ブッチャーとの抗争は話題を呼んだ[1]。 その間、アメリカでは本拠地のミッドアトランティック地区にて、同時期のNWA世界ヘビー級王者だったテリー・ファンクやハーリー・レイスに再三挑戦[29][30]。フロリダ(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)やジョージア(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)にも参戦、フロリダでは1978年にザ・スポイラーやボビー・ダンカン、ジョージアでは1979年にスタン・ハンセンやマスクド・スーパースターと抗争した[31][32]。大物ベビーフェイスとして業界誌の人気部門では常に上位にランクされ、アンドレ・ザ・ジャイアントや旧敵ダスティ・ローデスとも、人気スター同士のドリーム・チームを組んだ[33]。 1980年代1980年代初頭は中南部や南西部地区でも活動し、ビル・ワット主宰のMSWAでは1980年にキラー・カーンやファビュラス・フリーバーズと対戦[34]。同年秋の全日本プロレスへの最後の参戦では、AWAでもタッグを組んだことのあるビル・ロビンソンをパートナーに、10月17日に岩手県営体育館にてジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦している[35]。翌1981年には、主戦場の一つだったサンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングにて、テリー・ファンクと組んでジノ・ヘルナンデス&タリー・ブランチャードのダイナミック・デュオと南西部タッグ王座を争った[36]。 1982年1月、新日本プロレスに来日[37]。前年に新日本へ移籍してきたアブドーラ・ザ・ブッチャーとの遺恨試合やアントニオ猪木とのシングルマッチも行われ、同時参加していた因縁のスーパースター・ビリー・グラハムとのタッグチームも実現したが、アメリカでの活躍に反して、新日本のリングでは本領を発揮できなかった。シリーズ中は、6人タッグマッチで初代タイガーマスクとも対戦している[38]。 以降もアメリカでは各地で活躍を続け、主戦場のミッドアトランティック地区ではロディ・パイパーやサージェント・スローターと抗争を展開、新NWA世界ヘビー級王者のリック・フレアーにも再三挑戦した[39]。1983年は古巣のAWAにて、ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座にも連続挑戦している[40]。1984年にはマーク・ヤングブラッドと組んでボブ・オートン・ジュニア&ドン・カヌードルやジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコなどのチームを破り、ミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座に返り咲いたが[25]、同年下期より一時的なヒールターンを行い[41]、リッキー・スティムボートやマグナムTAとUSヘビー級王座を争った[42]。翌1985年下期からはベビーフェイスに戻り、ロード・ウォリアーズ、ニキタ・コロフ、リック・ルードなど新世代のヒールと抗争[41]。フェイスターン後のウォリアーズとはトリオを組み、1986年7月12日のグレート・アメリカン・バッシュではザ・ラシアンズとの6人タッグマッチが行われた[43]。 キャリア末期その後、1980年代後半から1990年代初頭にかけては末期のAWAやプエルトリコのWWCで活動。AWAでは世界ヘビー級王者のカート・ヘニング、ジェリー・ローラー、ラリー・ズビスコに挑戦[44][45]。グレッグ・ガニアらをパートナーに、ナスティ・ボーイズ(ブライアン・ノッブス&ジェリー・サッグス)、バッド・カンパニー(ポール・ダイヤモンド&パット・タナカ)、デストラクション・クルー(ウェイン・ブルーム&マイク・イーノス)など当時の若手タッグチームとも対戦した。 1992年5月には、W★INGプロモーションへの参戦で10年ぶりとなる最後の来日が実現。かつてストロング小林とIWA世界ヘビー級王座を争った後楽園ホールにて、5月7日にザ・グラップラーを相手にインディアン・ストラップ・マッチでKO勝ちを収めた[46]。 1995年5月21日、ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングの後継団体であるWCWで殿堂入りを果たす[47]。同日開催のPPV "Slamboree" では、ディック・マードックとのレジェンド対決に勝利した[48]。 キャリア晩年は持病の糖尿病との闘いとなり[9]、1996年に正式に現役を引退[3]。2002年4月18日、糖尿病の合併症で死去[2][9]。63歳没。2011年にNWA殿堂[49]、2019年にはWWE殿堂のレガシー部門に迎えられた[50]。 得意技獲得タイトル
脚注
関連項目
外部リンク
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