ロード・ウォリアーズ
ザ・ロード・ウォリアーズ(The Road Warriors)は、プロレスのタッグチーム、ユニットである。アメリカ合衆国のプロレスラーであるロード・ウォリアー・ホークとロード・ウォリアー・アニマル(日本では、各々ホーク・ウォリアー、アニマル・ウォリアーと呼称された)によって結成された。 別名義として、ザ・リージョン・オブ・ドゥーム(The Legion of Doom、略称:LOD)のユニット名でも活動した。入場テーマ曲はブラック・サバスの『IRON MAN』。 概要それぞれ「クラッシャー・フォン・ヘイグ」「ザ・ロード・ウォリアー」のリングネームでデビューしていたマイク・ヘグストランドとジョー・ロウリネイティスが、1983年にNWAジョージア地区(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)のレスラー兼ブッカーだったオレイ・アンダーソンのブッキングでタッグを結成。マネージャーにはプロレスラーを引退したポール・エラリングが就く。当初はエラリングが率いていたバズ・ソイヤー、ジェイク・ロバーツ、キングコング・バンディ、ザ・スポイラー、アーン・アンダーソンらヒール軍団「リージョン・オブ・ドゥーム」の一員としてデビューした。 タッグ結成を機に、ヘグストランドはロード・ウォリアー・ホーク、ロウリネイティスはロード・ウォリアー・アニマルとリングネームを改め、タッグのチーム名は1981年に公開された映画『Mad Max 2: The Road Warrior』の世界観からザ・ロード・ウォリアーズと名付けられ、外見のイメージも同映画に登場する荒くれ者を踏襲[1]。初来日時には「シカゴで用心棒をしていた」「貧困の時代にはネズミを食べていた」「スラムでゴミ箱を漁っていたところをエラリングにスカウトされた」などと宣伝された。 結成当初のコスチュームはサングラスにレザーのベストや制帽を身に付けた暴走族スタイルだったが[2]、後に両者とも顔にペイントを施し、頭髪をアニマルは「モヒカン刈り」、ホークはそれと対を成すように「逆モヒカン刈り」にした。これはホークの顔が優しすぎるのをカバーするためだったという。また、フェイスペイントはビル・ワットの提案で施された[3]。入場時は巨大な棘の付いたアメリカンフットボールのプロテクターをコスチュームに、サードロープの下から滑り込むようにリングインし、コールも受けずにそのまま暴れ回る試合が多かった。しかし、ファイトスタイル自体はあまり凶器攻撃などは行わない正統なもので、ヒールのポジションにありながら、次第にファンの支持を獲得。ヒールとベビーフェイスを融合させたスタイルの確立に成功する。試合は常に秒殺勝利であり(彼らの試合時間は(3分を180秒のように)秒単位で実況されていた)、そのインパクトと存在感から圧倒的な人気を獲得するようになった。 1983年にジョージア地区でデビュー後、NWAナショナル・タッグ王座を通算3回獲得。1984年からはAWAに移籍、当初はジョージア時代と同様にヒールのポジションだったが、人気が高まりベビーフェイスに転向。その後はジム・クロケット・プロモーションズを経てWCWのリングにも上がり、日本には全日本プロレス、新日本プロレス、SWS、WJプロレスに来日。WWF(現:WWE)に参戦した際は、NWAジョージア時代のユニット名であるリージョン・オブ・ドゥームを名乗った(当時、WWFには同じく「ウォリアー」をリングネームとするアルティメット・ウォリアーが大スターとして活躍していたため、ビンス・マクマホンがチーム名の変更を要請したという)[4]。その後のアメリカプロレス界の激変を受け、NWA、AWA、WWFの三大メジャー団体の世界タッグ王座を制覇した史上唯一のタッグチームとなった。 アニマルの途中欠場や解散・再結成の紆余曲折を経て、いずれのリングでも大活躍したが2003年にホークが急死したため、事実上の解散となった。その後アニマルは、2005年にハイデンライクをパートナーに新生リージョン・オブ・ドゥーム(LOD2005)を結成、WWEタッグ王座を獲得している。 2011年、ホークとアニマルのオリジナル・ロード・ウォリアーズで初代マネージャーのエラリングと共にWWE殿堂に迎えられた。 日本での活躍テレビ東京『世界のプロレス』にて活躍が知れ渡ったことから[5]、以前から来日が待望されていた。1985年3月7日の初来日当日に成田空港で行われた記者会見には、プロレスマスコミだけでなく一般週刊誌も取材に駆け付けた[2]。天龍源一郎は彼らの初来日直前に、『世界のプロレス』の解説を務めていた門馬忠雄に「ロード・ウォリアーズを知りたいので『世界のプロレス』のテープを貸してほしい」と告げ、門馬から番組のテープを借りたという[6]。翌3月8日、全日本プロレス『激闘! エキサイティング・ウォーズ』の船橋市大会において、アニマル浜口とキラー・カーンのタッグチームを3分39秒で破り[7]、衝撃的な日本デビューを飾る。初来日時のギャラは『週刊プロレス』『週刊ゴング』『東京スポーツ』によれば、マネージャーのポール・エラリングと合わせて1週間で3万ドルだったとされる(ブルーザー・ブロディの新日本プロレス移籍は、彼らの厚遇に対する不満によるものともされる)[8]。 以降「暴走戦士」「超怪力暴走族」などの異名でマネージャーのエラリングを伴って全日本プロレスを主戦場とし、ジャンボ鶴田、天龍、谷津嘉章らを相手に激闘を展開。「秒殺」といえる程の短時間で勝負を決めたり、勝敗を度外視して暴走し、やりたい放題でリングを後にしたりすることも珍しくなかった(漫画作品『プロレス・スターウォーズ』では、現実以上の怪物的なタッグチームとして描かれた)。アメリカでのスケジュールが多忙だったため、世界最強タッグ決定リーグ戦への出場は実現しなかったものの、全日本プロレスへの来日は1989年3月まで続いた。 1990年7月、新日本プロレスに初参戦。以降、WWF参戦を経てホークは1992年11月より新日本プロレスを主戦場とし、欠場中だったアニマルに代わりパワー・ウォリアーを新パートナーに「ヘルレイザーズ」を結成。その後、ホーク、パワー、復帰したアニマルの3人で「トリプル・ウォリアーズ」を名乗った。 1999年5月には全日本プロレスに復帰して、ジャイアント馬場の追悼興行となった東京ドーム大会に出場。アニマルの実弟ジョニー・エースを加えての6人タッグマッチにおいて、小橋健太、秋山準、ハクシーのトリオを破った[9]。 2001年12月にはZERO-ONEの大阪城ホール大会『真撃』に出場、大谷晋二郎&田中将斗から勝利を収めている[10]。 2003年3月と7月にはWJプロレスに参戦[11]。同年10月19日にホークが死去しており、7月の参戦時がホーク&アニマルの "オリジナル" ロード・ウォリアーズとしての最後の来日となった。 年表
サポートメンバー
獲得タイトル
入場テーマ
影響下のタッグチームその活躍にあやかり、1980年代中盤から後半にかけて、ロード・ウォリアーズの影響を受けたギミックのタッグチームが各地で誕生した。
→詳細は「デモリッション」を参照
参考文献
脚注
関連項目外部リンク |