ザ・ブッシュワッカーズ
ザ・ブッシュワッカーズ(The Bushwhackers)は、プロレスラーのブッチ・ミラーとルーク・ウィリアムスによって結成されたプロレスのタッグチームである。 1980年代まではNWA圏を主戦場に、両者ともニュージーランド出身であることから初期はザ・キウィズ(The Kiwis)、後にザ・シープハーダーズ(The Sheepherders)のチーム名を用い、狂乱ファイトを主体とするヒールのポジションで活動[1]。1988年末からのWWF登場を機にザ・ブッシュワッカーズと改名し、コミカルなベビーフェイスに転じて前座戦線を沸かせた[1]。 来歴ザ・キウィズコンビ結成はNWAニュージーランド(後のオールスター・プロレスリング)時代の1966年に遡る[2]。当時、ブッチ・ミラーはザ・ブルート、ルーク・ウィリアムスはスウィート・ウィリアムと名乗っていた。オーストラリアや東南アジアを経て1972年にカナダのモントリオール地区に参戦後、1973年にスチュ・ハートの主宰するアルバータ州カルガリーのスタンピード・レスリングに進出[2]。ミラーはリングネームをニック・カーターと改名し、チーム名もニュージーランド出身であることをアピールするために、ザ・キウィズ(The Kiwis)と名付けられた[2]。 1974年1月にはカルガリー版のインターナショナル・タッグ王座を獲得、トーキョー・ジョー&グレート・サキの日本人チームとも同王座を争った[3]。同年9月には揃って国際プロレスに参戦、9月16日に館山にてラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦している[1][4]。国際プロレスでは、スーパースター・ビリー・グラハムやバロン・フォン・ラシクと組んでの6人タッグマッチにも出場し、彼らの露払い役も務めた[5]。 その後、1975年末に揃ってニュージーランドに帰国し、しばらくリングを離れていた(ウィリアムスは1976年7月、単独で国際プロレスに再来日している[6])。 ザ・シープハーダーズ復帰後の1979年5月、それぞれボブ・ミラー、スウィート・ウィリアムスのリングネームで全日本プロレスに来日[7]。空位となっていたアジアタッグ王座の王者チーム決定戦でグレート小鹿&大熊元司の極道コンビと対戦したが敗退している[8]。6月10日の北海道倶知安町大会ではビル・ロビンソンと異色トリオを組み、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、石川隆士組と6人タッグマッチで対戦した[7]。 同年よりチーム名をザ・シープハーダーズ(The Sheepherders)に改め、太平洋岸北西部のPNW(パシフィック・ノースウエスト・レスリング)に進出。翌1980年にかけて、ロン・スター&アドリアン・アドニス、スタン・スタージャック&ダッチ・サベージ、ロディ・パイパー&リック・マーテルなどのチームを破り、NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を通算3回獲得した[9]。以降もヒールのタッグチームとして各地を転戦し、それぞれのリングネームもブッチ・ミラーとルーク・ウィリアムスで定着[10][11]。1980年9月28日にはノースカロライナ州シャーロットにて、バズ・ソイヤー&マット・ボーンからNWAミッドアトランティック・タッグ王座を奪取[12]。プエルトリコのWWCではアブドーラ・ザ・ブッチャーとも共闘した[13]。 1981年下期から1983年にかけてはミラーが一時的にニュージーランドに帰国したため、ウィリアムスは同じ南半球オーストラリア出身のジョナサン・ボイドを新パートナーに活動[14][15]。ミラーがアメリカに戻ると、1983年11月よりチームを再結成[16]。迷彩ズボンにタンクトップ、ボロボロのアーミーキャップという入場コスチュームもこの時期に確立された。1984年3月4日にはサンアントニオでファビュラス・ワンズ(スティーブ・カーン&スタン・レーン)からSCW世界タッグ王座を奪取[17]。1985年はプエルトリコを主戦場に、ジ・インベーダーズ(ホセ・ゴンザレス&ロベルト・ソト)とWWC北米タッグ王座を争った[18]。 1986年3月16日にはビル・ワットのUWFにてテッド・デビアス&スティーブ・ウィリアムスからUWF世界タッグ王座を奪取[19]、10月7日にはフロリダでファビュラス・ワンズを破りNWA USタッグ王座を獲得[20]。翌1987年1月10日にはテネシー州メンフィスのCWAにてバッド・カンパニー(ポール・ダイヤモンド&パット・タナカ)を下しCWAインターナショナル・タッグ王座にも戴冠[21]。日本では「タッグ泥棒」なる異名を付けられた[1]。 1987年2月には新日本プロレスに来日して、IWGPタッグ王座の決定リーグ戦に出場[22]。国際、全日本、新日本と、タッグチームとして昭和の3団体への登場を果たした[23]。シリーズ中は、アントニオ猪木&坂口征二の黄金コンビや前田日明&高田伸彦のUWF勢とも対戦している[24]。 同年下期にはジム・クロケット・プロモーションズのフロリダでの興行に参戦。7月31日にマイアミ・オレンジボウルにて行われた『グレート・アメリカン・バッシュ』にもNWAフロリダ・タッグ王者チームとして出場し、ロニー・ガービン&ジミー・ガービンの挑戦を受けた[25]。8月28日にはデイトナビーチにおいて、ロード・ウォリアーズとスチール・ケージ・マッチで対戦した[26]。1988年4月に開催されたタッグチーム・トーナメント "Crockett Cup '88" にも出場したが、2回戦でミッドナイト・エクスプレス(ビューティフル・ボビー・イートン&スウィート・スタン・レーン)に敗退している[27]。 同トーナメントには1986年4月19日開催の第1回大会 "Crockett Cup '86" にも出場しており、1回戦でロス・ゲレロス(チャボ・ゲレロ&ヘクター・ゲレロ)、2回戦でロックンロール・エクスプレス(リッキー・モートン&ロバート・ギブソン)を破って勝ち進んだ後、準決勝でザ・ファンタスティックス(ボビー・フルトン&トミー・ロジャース)と両チーム反則の裁定を下されるなど、アイドル系タッグチームの敵役としての役割を担った[2][28][29]。 ザ・ブッシュワッカーズ1988年末、チーム名をブッチ&ルークのザ・ブッシュワッカーズ(The Bushwhackers)に変更し、従兄弟同士という設定でWWFに登場。同年12月30日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、ニコライ・ボルコフとボリス・ズーコフのザ・ボルシェビクスを破りデビュー戦を飾った[30]。 ラフファイト主体のヒールだったシープハーダーズ時代とは異なり、コミック・リリーフを担当するベビーフェイスのベテラン・チームとして売り出され、ファビュラス・ルージョー・ブラザーズ(ジャック・ルージョー&レイモンド・ルージョー)、リズム&ブルース(ホンキー・トンク・マン&グレッグ・バレンタイン)、オリエント・エクスプレス(サトー&タナカ)など、主にBクラスのチームを抗争相手にミッドカード戦線で活動、そのコミカルなキャラクターで子供たちの人気を集めた[1]。目を剥いて口を歪曲させたユーモラスな表情に、腕を頭上まで高く振り上げながらリングへ行進していく入場シーンがトレードマークとなり、彼らのフィギュアもこれを模したポーズで製作されている。1990年12月には、当時WWFと提携していたSWSに来日した[31]。 WWFではタイトル戦線に絡むことはなく、大きな活躍の舞台は与えられなかったものの、1991年8月の『サマースラム'91』ではアンドレ・ザ・ジャイアントをセコンドに迎え、ナチュラル・ディザスターズ(アースクエイク&タイフーン)と対戦している[32]。以降、WWFには1996年まで長期間に渡って在籍。レッスルマニアなどのビッグイベントではオープニング・アクトのダーク・マッチに出場して会場の「温め役」を担い、同じく会場人気の高かったハクソー・ジム・ドゥガンとトリオを組むことも多かった。 WWF退団後もブッシュワッカーズの名義でインディー団体を転戦し、1999年10月にミシシッピ州で行われたリユニオン・イベント "Heroes of Wrestling" では、ボルコフとアイアン・シークの往年の反米コンビと対戦。2001年4月1日には『レッスルマニアX-Seven』のギミック・バトルロイヤルに出場し、久々のWWE登場を果たした。 解散後チームを解散し引退してからは、ミラーはニュージーランドに帰国し、首都ウェリントンのプロレス団体KPW(キーウィ・プロ・レスリング)のコミッショナーやレスリング・ウェブサイト "NZPWI" のコラムニストとして活動[33]。 ウィリアムスは、かつて主戦場としていたプエルトリコにてIWAプエルトリコのブッカーを担当する一方、TNA、ROH、カナダ・ノバスコシア州のUCWなど、各地のインディー団体にスポット参戦[34]。2010年11月にはSMASHへの参戦でSWS以来となる20年ぶりの来日を果たした[35]。 2015年、チームとしてWWE殿堂に迎えられた[36]。3月28日にカリフォルニア州サンノゼのSAPセンター・アット・サンノゼにて行われた殿堂入り式典では、かつてNWAフロリダ地区で彼らのマネージャーを務めていたジョニー・エースことジョン・ロウリネイティスがインダクターを担当した[37]。 2023年4月3日、ウィリアムスの娘からのSNS投稿により、ミラーの死去が報じられた[38]。 合体攻撃
獲得タイトル
サポートメンバー脚注
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