チーフ・ジェイ・ストロンボー
チーフ・ジェイ・ストロンボー(Chief Jay Strongbow)のリングネームで知られるジョー・スカルパ(Joltin' Joe Scarpa、本名:Joseph Luke Scarpa、1928年10月4日 - 2012年4月3日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。 実際にはイタリア系の出自だが、インディアン・ギミックの選手ではワフー・マクダニエルと並ぶ屈指のビッグネームであり、ベビーフェイス陣営の重鎮として長年WWEを支えた[1][2]。日本でのニックネームは「荒鷲酋長」。 来歴1947年にジョー・スカルパの名でデビュー[3]。以降1960年代全般にかけて、NWAのジョージア地区、ミッドアメリカ地区、ガルフ・コースト地区などで活躍し、各地区のシングルおよびタッグ王座を幾度となく獲得[1][3]。テネシーのミッドアメリカ地区ではジャッキー・ファーゴとも抗争を展開した[4]。 1966年1月、日本プロレスに初来日。特別参加したルー・テーズのパートナーにも起用され、メインイベントのタッグマッチでジャイアント馬場とも対戦した[5]。シリーズ終了後の3月には韓国にも遠征しており、キム・イルの保持していた極東ヘビー級王座に挑戦した[6]。その後はフロリダ地区を主戦場に、1967年12月5日にジョニー・バレンタインからNWAフロリダ・ヘビー級王座を奪取[7]。1968年7月30日にはボリス・マレンコを破ってブラスナックル王座も獲得した[8]。同年11月には日本プロレスに再来日している[9]。 1970年7月よりWWWFに参戦して、インディアン・ギミックのチーフ・ジェイ・ストロンボーに変身。このキャラクターがニューヨークの観客に支持され、以降はベビーフェイス陣営の主力選手として東部地区に定着[2]。1972年5月22日、ソニー・キングと組んでキング・イヤウケア&バロン・シクルナからWWWF世界タッグ王座を奪取した[10]。タイトルは翌月にプロフェッサー・タナカ&ミスター・フジに奪われるが、1976年12月7日に同じインディアン・ギミックのビリー・ホワイト・ウルフをパートナーに、トーナメントの決勝においてニコライ・ボルコフ&トーア・カマタを破って再び戴冠[10]。バリアント・ブラザーズを相手にブルーノ・サンマルチノとも共闘した[11]。シングルではイワン・コロフ、スタン・スタージャック、ジョージ・スティール、ワルドー・フォン・エリック、スパイロス・アリオンらと抗争を繰り広げ、スーパースター・ビリー・グラハムが保持していたWWWFヘビー級王座にも再三挑戦した[12]。 他地区にも精力的に遠征しており、デトロイトではザ・シークやドン・ケントと流血の抗争を展開。ケントとは1977年に、リング内に設置された小型の檻の中で戦うシャーク・ケージ・マッチで雌雄を決した[3]。1978年4月には新日本プロレスに来日してMSGシリーズの第1回大会に出場、予選トーナメントで藤原喜明とシクルナを破り、決勝リーグに進出してアントニオ猪木やアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦した[13]。プエルトリコのWWCでは1980年10月11日、ルーク・グラハムからカリビアン・ヘビー級王座を奪取している[14]。 団体名がWWFに改称されてからもニューヨークを主戦場として、1979年7月30日にはマディソン・スクエア・ガーデンにおいてグレッグ・バレンタインを相手にインディアン・ストラップ・マッチを行うなど、ラフファイトの強さを見せた[2][3]。1982年からは「弟」という設定のジュールズ・ストロンボーとのストロンボー・ブラザーズで活動(実際には血縁関係はない)。同年6月28日と10月26日の2回に渡り、ミスター・サイトー&ミスター・フジを破ってWWFタッグ王座を獲得、翌1983年3月8日にワイルド・サモアンズに敗れるまで戴冠した[10][15]。 1985年の引退後はロード・エージェントとして1999年までWWFで働き、1994年にはWWF殿堂に迎えられた(殿堂入りのインダクターは、当時ストロンボーの弟子として活躍していたインディアン・レスラーのタタンカが務めた)[2]。晩年もゲストとしてWWEに登場したことがあり、2008年11月17日のRAW(アトランタ大会)ではステファニー・マクマホンからWWE殿堂者として紹介された[3][16]。 2012年4月3日、死去[1]。83歳没。インディアン選手の代名詞でもある "Tribal War Dance" (戦いの舞い)や雄たけびを好んで試合に取り入れ、ショー・プロレスの先駆者存在でもあった[3]。そんな彼らしく「入場と退場が、試合で最も大切なムーブだ」という言葉を残している[1]。 得意技獲得タイトル
脚注
外部リンク
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